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「あの女性はだれなんだろう!」
1997年11月16日。サッカー日本代表がワールドカップ初出場を決めた日、全てが始まった。
大阪出身、阪神タイガースに育てられた女子高校生は、Jリーグ開幕を機に人気絶頂だった川崎ヴェルディ(現・東京ヴェルディ)の選手たちがボールを華麗にさばく姿に心奪われた。気づけばJリーガーのそばに行く方法ばかりで頭がいっぱいに。
そんな彼女が固唾を飲んで見守った、運命の一戦。テレビ越しに円陣を組む選手、そこに女性が1人混じっているのを彼女は見逃さなかった。
翌日の新聞などを片っ端から読みあさり、その女性が栄養士だと突き止める。
そこから栄養学の世界へ踏み込み、出会ったのはスポーツ栄養学。食事が選手のパフォーマンスに大きな影響を持つことを知り、驚きと面白さでたまらなくなった。
「私、栄養士になってサッカー界で働きたい」
そして今、彼女はその言葉通り、ヨーロッパでプロサッカー選手の栄養士として活躍している。
- 橋本恵
- 大阪府出身。スペイン・バルセロナ在住。株式会社OTOMO代表取締役社長、子会社・OTOMO.EUROPE,SL. CEO。アスリート専門の管理栄養士として、サッカー、ラグビー、陸上長距離のチームサポートを歴任。現在はスペイン・バルセロナに駐在し、サッカー選手を中心に食事指導や国際大会では選手に帯同し、食事の提供などを行っている。
食事の面からアプローチ。選手と共闘する栄養士
スペイン・バルセロナを拠点に活動する恵さん。スポーツ栄養の世界に足を踏み入れて20年以上になる。
株式会社OTOMOでは代表を務めながら、自身は子会社のOTOMO.EUROPE,SLに出向する形で、ヨーロッパのサッカー選手を中心に食事の提供や、食事指導、国際大会があれば選手に帯同することもある。日本国内の選手にはオンラインでの食事指導を実施し、料理人の派遣対応も行う。
「選手の家に実際に行って食事の調理をすることもありますし、国をまたぐ場合にはオンラインで会話をしながらなにを食べたのか教えてもらいます。その食事に対して『もう少しお肉を食べよう』『こういう野菜を入れてみて』とアドバイスを返したりしています。たまに栄養素の話をしながら、知識を蓄えてもらっています」。
また日本には社員6人が在籍し、国内のさまざまなチームに栄養士、調理師として寮の運営や食事提供、アドバイスなどを行っている。スペイン時間の深夜になると、朝を迎えた日本の従業員とやりとりをして眠りにつく。まさに24時間体制で選手と共闘しているのだ。
「私たちは選手を支えるのではなく、一緒に闘っています。日本人選手が強くなってそれがJリーグに還元されて、めちゃくちゃ強いリーグになるのが目標ですね。仕組みとしてあり得ないけれど、Jリーグがチャンピオンズリーグ優勝したり、イギリスのプレミアリーグに並ぶような強いリーグになってほしい」。
社名の”OTOMO”は「Organise Total Own Meal Of athlete」という会社スローガンの頭文字をとった。全ての食事をアスリート自身で整えることを目指そう、という意味が込められている。
選手自身がどんな食事が自分を強くするのか知り、その日の体調良し悪し、試合前か、などによって食べるものを決定することがベストだと考えているからだ。
食事指導の中で難しいのが、選手によって目標が違えば、フェーズも異なるということ。目指す先が五輪なのか、ワールドカップなのか、はたまた毎日楽しくサッカーをしたいのか。体質も人それぞれなので、不摂生とされる食事のほうがパフォーマンスを良くするかもしれない。
「忘れがちですが、正しい食事をすれば強くなるというのではないということ。私たちは過去のデータの平均値をもって”いい食事”だと言っていますが、それ自体を疑わないといけない。強いことが大事だから、極論お菓子を食べて強いならそれで良いんです。ただ不摂生な食生活をする選手はコンディションを崩しやすいので、フラグは常に立てています」。
強くなるならなにを食べてもいい。でも、選手自身にはコンディションを崩したときに、自分自身で整えるようになってもらいたい。そこで恵さんは過去のデータをふまえ、栄養の知識などを食事指導の一環で伝えているが、ポイントはその伝えるタイミング。
以前、体調が悪いと、食事量が減り体重が落ちる傾向にある選手が、回復後に体重が変わってないことを不思議がっていたそうだ。実はその選手が体調不良の期間、選手になにも言わず献立を変更していたことで、体重が落ちずに済んでいた。選手が興味を持ったタイミングで説明することで、より深く理解してもらえたという。
「私たちは、ただ勝つようにコンディションを整えたいだけなので。無理に”いい食事”を食べさせたり栄養の知識を詰め込むことはしません。それがストレスになってパフォーマンスが落ちたら本末転倒ですからね。選手と接する際には、その選手のお母さんなら、いつ、どんな言葉を掛けるか、を基準に接しています」
ボールが蹴れたら充分、はもう古い
恵さんが選手に食事指導だけでなく、栄養の知識を伝える背景には、食育への意識があるからだ。
「日本人の男の子は料理が苦手な人が多い印象です。スペインにサッカー留学などで渡航する選手の中には怪我で帰国を余儀なくされる人も多いんです。怪我をする理由はさまざまあると思いますが、要因の一つが、料理の仕方が分からずパスタばかり茹でるなどし、栄養が偏った食事ばかりになるからだと感じています。小さいときに料理をするところを見れていない選手が多いのかな」
スペインを代表する料理・パエリア。実は男性の仕事なのだ。休日に家族みんなで集まり、男だけで大きな鍋を使って料理をする。すると小さい頃から男性も料理に参加することになり、料理の仕方を覚えるのだ。しかし日本にはそうした機会が少ない。
特にサッカーの練習を一日中こなす少年たちは帰宅すれば目の前にご飯ができている。すると料理をする瞬間を目撃できない。洗濯や掃除は、合宿や学校の中で学べるが、生きるための食事作りが抜け落ちていることが多いことを恵さんは危惧している。
「私たちは日本でジュニアアスリート向けの食育セミナーも開催しているのですが、指導者の方から『お父さんお母さんに食事の作り方などを指導してほしい』というご依頼を受けることがあります。でも、私は”お母さんお父さんはお子さんにいつまでついてきてくれますか?”と問いかけるんです」
「子どもが自分自身で食事について学んで、自分たちが強くなるために”お父さんお母さん、この食事をお願いします”と準備してもらう構図のほうがいいじゃないかと思うんです。もちろん、親御さんにもなにが大事かという話もします。ただ、子どもも、親に用意されたものを食べているだけで本当にいいんですか?という問いですね」
むしろ大人たちは、子どもたちが食事を楽しく取れる時間と環境を整えるほうも考えてみるのもいいかもしれない。
「頑張る日は必要だけど、食事すらトレーニングにしなきゃいけないほどの練習量は考えものですね。その子にあったトレーニング量をみてあげないと」
まずはお米を炊いて、おにぎりを握ってほしい。「サッカーボールが蹴れたら、それで充分」という時代は過ぎ去ったのだから。
日の丸を背負う覚悟はあるか
恵さんは食育やスポーツ栄養だけでなく、箸の持ち方といった日本文化もジュニアアスリートやその保護者向けに伝える講師でもある。日本文化にも重きをおくのは、強い選手なら、日本の代表として、子どもたちの見本になれる選手であってほしいと願うから。
「子どもの頃から社会人の当たり前ができて、いろいろな国に遠征に行っても日本人という枠組みがちゃんとしているのがサッカー選手であってほしい。本当に強くなるなら、海外で勝負するなら、代表として日の丸を背負うとはそういうことですよね」。
先人の日本人が海外で振る舞ったエレガントさがあるから、世界で日本は親しまれている。そこに甘んじることなく、世界で活躍するサッカー選手こそしっかり日本人としての貴賓ある振る舞いを引き継いでいかなければいけない。
「ずっとこの仕事がしたいです。それから、唐揚げ屋さんにもなりたいですね」
取材の最後、そう語った。これからも管理栄養士として日の丸を背負い、選手とともに走り続ける。
文:星谷なな
編集:岡徳之(Livit)