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世界最大の殺人動物は「蚊」
私が大好きな名言のひとつにチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世のものがある。いわく、「もしも自分がちっぽけすぎて何も変えられないと思うのなら、蚊と一緒に寝てみなさい(If you think you are too small to make a difference, try sleeping with a mosquito.)」。
極寒の地に暮らす人ならいざ知らず、日本人で夏の夜に寝室にいる蚊の破壊力を知らない人は少ないだろう。
あの耳元で鳴る羽音、あの執拗さ、あのかゆみ。そして殺意とともに電気をつけるとなぜか絶対に見つからない謎。わずか1㎝足らずの蚊だってあそこまで人を狂気におとしめることができるのだから、どんなちっぽけな存在だって何事かを成すことはできるのだ、という氏のお言葉は、日々無力感に苛まれながらも少しでも善きことをしようともがいている筆者のような無能にもあきらめない勇気をくれる。
しかし残念なことに名言では済まない現実もあり、人間以外で最も多くの人間を殺している動物は蚊だ。
「蚊の媒介するマラリアが及ぼす経済的損失は推算年間120億ドル」などの事実を受けて2014年にビル・ゲイツ氏がまとめた「1年あたりに殺す人間の数が多い動物トップ15」によると、ダントツ一位が年間72万5,000人を殺している「蚊」。その後に納得の「人間(戦争などの武力行使時以外・年間47万5,000人)」、ヘビ(同5万人)、犬(2万5,000人、狂犬病による)が続く。
サメは常に殺人のイメージと抱き合わせで語られるが、それでも年間10人。つまり蚊は、サメが「100年で」殺した数をはるかに上回る数の人の命を「毎日」奪っている計算になるのだ。
先述のマラリアは南米・アフリカ・南アジアの途上国で猛威を振るっているが、私たち日本人にもいまだに毎年感染が報告される日本脳炎をはじめ、ジカ熱やデング熱など、蚊を媒介とした深刻な伝染病は決して他人事ではない。
数千年におよぶ人類と蚊の戦い
もちろん人間も彼らに対抗するため、実に数千年前から様々な方法で戦ってきた。古代エジプトでは夜、蚊が飛んで来られない高さのタワーの最上部で寝たり、蚊よけのため肌にひまし油を塗ったり、蚊帳を吊った中で寝たりしていたという。中国においても紀元前の春秋戦国時代には、身分の高い武将が蚊帳の中で寝ていた記録が残っている。
時代下って現在私たちが使っている蚊よけ・殺虫グッズのバラエティは言うまでもない。だが、先述の現状を考えれば、人類が蚊を制圧したとは到底言えないのが実際のところだ。
アプリや殺虫レーザーも。最新蚊対策テクノロジー
しかし現代の人類は最新の科学技術を投入して、その長い戦争の形勢を逆転しようと努力を続けている。以下に将来の一般化が待たれる、最新の蚊対策テクノロジーをいくつか紹介したい。
- 危険な蚊の存在お知らせアプリ
まずは私たちに身近なスマホで使えるITテクノロジーから。途上国にも急速に普及中の安価なスマホを使い、誰もが低コストで危険な蚊から身を守る術を提供すると期待を寄せられているのは、現在オックスフォード大の研究者が開発中のアプリ。
特定の伝染病のキャリアとなる蚊の種類は決まっている。マラリアはハマダラカ、デング熱はシマカ系、日本脳炎はコガタアカイエカなど。つまり蚊の中でも、特に警戒すべき蚊と、そうでない蚊がいるということだ。
ここから同大学のDavide Zilli博士は、羽音により蚊を検知するアルゴリズムを開発。それと蚊の羽音のデータを収集するためのプロトタイプセンサーの組み合わせにより、現在の時点でマラリアの媒介となるハマダラカを72%の精度で検知することに成功している。今後もデータ収集・分析により検知の対象を広げ、将来的には地球上に存在する3,600種すべての蚊の種類を特定できるアンドロイドアプリとして配信する予定だ。
積極的に蚊を撃退するツールではないが、少なくとも身近に流行中の伝染病を保持し得る種類の蚊がいる場合のアラームとしての利用価値が高い。
- 通過した蚊をレーザーで瞬殺するフォトニック・フェンス
2010年にマイクロソフトの元CTOであるNathan Myhrvold氏がTEDトークで提唱したもの。羽音で蚊を検知するところまでは先述のアプリと同じだが、こちらはフェンスのような形のデバイスで、通過しようとする蚊を低出力レーザーで瞬殺するという。
なんともフューチャリスティックなこのフェンスは、残念なことにそのコンセプトの発表から9年が経つ現在も商品化には至っていない。が、既にある企業にライセンスが売却され、米国商務省も非常に興味を示しているという話である。
- 「クリーンな」蚊のオスをドローンなどで大量投下作戦
ボルバキアは自然界に一般的に存在するバクテリアだが、蚊が感染すると体内でマラリア原虫が生存できなくなったり、デングやジカのウィルスの保有するメスと交配すると生まれた卵が孵化しない、などの影響を与える。つまりは宿主の蚊は、長期的にはウイルスの媒介となり人を刺す蚊の数を減少させることができる。
このボルバキアに感染したオスの蚊を実験室で大量に養殖し、ジカ熱やデング熱の流行地域に大量に投下する実験が行われている。2017年に米国環境保護庁がケンタッキー州のバイオテクノロジー起業「MosquitoMate」の提案を承認し、カリフォルニアやニューヨークなどで多数のフィールドトライアルを行っている。
また、中国やブルキナファソなどの流行地で90%以上の蚊の減少効果を上げたほか、オーストラリアやフィジーにおいても、ドローンを提供するNPO団体WeRoboticsとWorld Mosquito Programの協働により複数回実験が行われている。この試みも、最終的には有害な蚊の90%を駆逐する算段だという。
他にも主にアメリカにおいて、放射線や遺伝子操作で不妊化されたオスの蚊を投下し、同様に既存のウイルスを持つオスの生殖活動を阻害する計画が実行されている。
生殖能力にダメージを与えるオスの蚊を自然界に放ち、野生のオスに勝って既存のメスと交配させることで徐々に有害な個体の数を減らしていくとは気の長い話に感じるが、この手法は「不妊虫放飼」と呼ばれ、1970年代の沖縄におけるウリミバエの根絶など数多くの成功例がある。特に身が軽く羽で飛び回るタイプの双翅目には向いているとされているので、蚊にはうってつけなのだ。
- 嵐の時と同様の電磁波を出すリストバンド
スイス発のnopixgoは、リストバンド型の装着可能なデバイス。こちらは「蚊よけ」でも「殺虫剤」でもなく、しいて言えば「蚊のやる気をそぐ」ための機器だ。
結果的に年間何十万人の人間を死に追いやっていようが、蚊が吹けば飛ぶような虫であることに変わりはない。彼らには本能的に、嵐が近づいたら吸血対象を探すことを止め、安全な避難場所を探して低空飛行するという。
nopixgoはその性質を利用したデバイスで、嵐が近づいている時と同様の微弱な電磁波を常に発する。その電磁波をキャッチした蚊は本能的に嵐の危険を察知し、吸血行為を休止し避難場所探しに集中するという。一度フル充電すれば1週間続けて利用でき、有害成分を利用しないので環境にもやさしいという点も売りのひとつ。
キックスターターでのクラウドファンディングには失敗してしまったが、結局商品化され、現在自社サイトから送料込み98スイスフラン(1万円強)で販売中。それが高いか、安いかは効果によるだろうが、アウトドアや移動時、薬剤の虫よけを使いたくない人(もしくは、アレルギーや敏感肌で使えない人や赤ちゃんなど)などは重宝するだろう。
他にも今年8月、それまでも「奇跡の素材」と注目されていたグラフェン(炭素原子が六角形の網目状に結びついてシート状になっているもの。非常に薄く、強靭で、熱伝導率に優れる)に、蚊の針を貫通させない性質と、蚊が汗やにおいで人間の肌を認識することを防ぐ効果もあることが判明。マラリアなどの流行地で制服や手袋などへの活用の可能性を見越して、現在さらなる調査が進んでいる。
また、ウィスコンシン大学の研究者が今年初めに偶然発見した、蚊の食欲を減退させる作用のある細菌抽出物(既存の忌避剤よりも少ない用量で作用し、有害化学物質を含まないのでDEETなどのより安全な代用として期待されている)も現在研究が続行中だ。
現在、蚊が大量発生して伝染病により多くの死者が出るような途上国では安価な蚊帳が最も大きな効果を上げているという。数千年前と同じ道具の独走態勢をブレイクスルーして、蚊との戦いに終止符を打ってくれるテクノロジーが、この中にあるかもしれない。
文:ウルセム幸子
編集:岡徳之(Livit)