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「経営陣にMBAが多すぎる。それはいいことではない」
こう言い放ったのは電気自動車のトップを走るテスラ社CEOで実業家のイーロン・マスク。ウォール・ストリート・ジャーナル編集長のインタビューを受けている時のことだった。
企業が力を入れるべきなのはサービスやプロダクト開発であって、財務や経営会議ではないと主張するマスクに対し、インタビュアーが、経営陣らが財務や配当金のほうに意識がいってしまうのはなぜだと思うかと問うたところ、マスクはしばらく考えた後にそう言った。
学歴は重視しないという発言はマスクからたびたび聞かれていたが、宇宙産業に乗りだす起業家精神の持ち主で、アマゾンのジェフ・ベゾスを抜いて世界第1位の富豪になった彼の正面切ったMBA不要説は、世間に少なからず衝撃を与えた。
MBAは時代遅れ?
MBAは言うまでもないが、経営学修士(Master of Business Administration)のこと。ハーバード・グラデュエート・スクール・オブ・ビジネス・アドミニストレーション(現ハーバード・ビジネス・スクール)が1908年に世界で初めて経営に関する教育プログラムを開発。以来、科学的アプローチに基づいた経営分析、実践的なノウハウを学べる上、幅広いネットワーク構築、活躍の機会増加、年収アップと、MBAは肩書としていかんなく威力を発揮していた。
MBAは21世紀のビジネスモデルからずれてしまっているのではないか。そんな囁きはすでにあった。MBAプログラムが開発されてから100年以上経っている。和暦に当てはめると明治41年である。無論、時代に合わせてプログラムは更新を重ねており、ITを科目として取り入れているビジネススクールもある。しかし、ここ20年の時代の変化はあまりにも早すぎた。過去10年を軽く振り返っても、製造業のAI導入、通信も3Gから5G、携帯電話からスマートフォンへ、情報もビッグデータから人工知能へと、各業界で変化という言葉では収まらないディスラプトが次々に起こった。
そんな激動の中で、ビジネススクールで学ぶ経営学が、ひいてはMBA取得者らが携わる企業の経営スタイルそのものが、もはや「Tradition(伝統)」化しているではないか、と言われるようになったのだ。
さらに言えば、「Zoom」などのオンラインツールで自宅に居ながら世界の裏側の人ともコミュニケーションできる今、スクールにわざわざ行って、数人の教授から学ぶというスタイルも時代遅れではないかという意見もある。この意見は全ての学問に当てはまるわけではないが、イノベーションが成長の糧になるビジネスにおいては、否定するのは難しい。
費用対効果からMBAを考察すると……
MBAを費用対効果から考察する面白い記事があった。カナダ最大の全国紙「The Globe and Mail」の記事で、年々と上がり続ける授業料に見合う「効果」がMBAにあるかを問うている。
記事を読んだ後、MBA Todayというウェブサイトで費用を調べてみた。2020~2021年の2年間でアメリカで最も授業料が高いスクールはウォートン・スクールで$161,810(約1,700万円)、ヨーロッパはロンドン・ビジネス・スクール$112,486(約1,200万円)。ちなみにアメリカでいちばん安い授業料でも$55,727(約600万円/インディアナ・ユニバーシティ・ブルーミントン大学)だった。
当該記事では授業料と共に「時間の費用対効果」にも触れている。フルタイムの学生になるなら仕事をやめなくてはならないし、仕事を掛け持ちしながらでも週に最低15~20時間を費やす必要がある。アメリカでのMBA取得者の平均年齢は27歳。キャリアパスを築く大切な年頃に、全てをご破算にして何百万、何千万を投資する。目的はむろんエグゼクティブレベルに昇るゴールデンチケットを手に入れるためだ。
だが、濃密に経営を学ぶその1~2年間、同じ世界がずっと続くと誰が言えるだろうか。COVID-19パンデミックによる去年と今の激変ぶりは肌で実感できるほどだ。パンデミックが終息した後も、そのような激変が治まる保証はどこにもない。そして、先行き不透明で、不況の影がちらつく今、MBA取得者の採用を凍結した企業も出始めているという報告もある(「Companies Begin To Freeze And Rescind MBA Internship & Job Offers」Poets & Quants)。
学士が保育士の条件? 広がる学歴インフレ
MBA取得者だけではない。高学歴者をめぐる雇用のゆがみがアメリカを中心に問題になっている。物価が上昇して通貨の価値が下がるインフレーションのように、学位をもつ求人者が増えすぎて、学歴の価値が下がる「学歴インフレ(Degree inflation)」と呼ばれている現象である。
アメリカでこの現象が顕著になってきたのは、2007~2009年に起こった世界金融危機からだという。求人より圧倒的に上回る求職者を絞り込むために、学位を必要としない職でも「学位取得者」を追加したことに起因する。
その影響もあってBachelor’s degree(学士)取得者が1980年では23%だったのが37%になり、大学への進学率も49%から69%にアップ。秘書、事務アシスタント、肉体労働者の監督など、本来、学位が必要がない職種にも学位が求められるようになっていった。例えば、生産労働者を監督するポジションの学位取得者はわずか16%なのに、同様のポジションで学士を条件としている求人は67%になっている(「How Degree Inflation Weakens The Economy」Forbesより)。
求人と雇用のギャップをさらに広げているのが給料の問題である。学士取得者はどのような職種でも高い給料を要求する傾向にある上、非取得者よりも離職率が高い。その結果、企業側は職種に見合う本来の額よりも余計に給料を払い、雇用までに必要以上の時間がかかる。そういった時間ロスやコストを下げるためにアウトソーシングという手段をとる企業も増え、学位をもたない求職者にとっては、いかに情熱と適正があったとしても、学位がないというだけで門が閉じられてしまう。
この傾向は治まるどころか、さらに拡大する傾向にあるという。例えば、ワシントンD.C.では、2020年から保育士は学士取得を義務付けている。保育士のスキルや仕事内容と学位の相関性がほとんどないにも関わらずだ。この奇妙なねじれは、アメリカ経済の打撃になると、ハーバード・ビジネス・スクールのManjari Raman氏は警鐘を鳴らす。
学歴インフレ打破に必要なものとは
お金も時間も費やして取得した学位が、実社会ではそれほど効力をもたない。そんなシビアな現実にどう向き合えばいいのか。ヒントになるのは、イーロン・マスクはじめ、IT界の偉業者、スティーブ・ジョブス、ビル・ゲイツ、ラリー・エリソンらの一つの共通点だ。それは、彼らはMBAどころか、学位さえ取得しなかった大学中退者だということだ。
類まれなる頭脳と行動力をもつ彼らを一般人の手本にしても意味がないと思うかもしれない。それなら、旧来のシステムの中で努力するスタイル、その枠組みから脱出して独自の道を行くスタイルの2通りがあり、彼らは後者を選んだうえ、努力と才能で名声を勝ち得たと言い換えればどうだろうか。どの道を選ぶのかは、才能は関係ないはずだ(努力は必要かもしれないが)。
今回取り上げた「学歴インフレ」は旧来のシステムの中で起きていることであり、そこから抜け出すには、ITという武器があれば昔とは比較にならないほど容易なはずだ。
イーロン・マスクは言う。「支えなければいけない家族や、払わなければならないローンなど背負うものがある人が、社会からの逸脱を恐れるのは理解できる。でも、高校や大学を出たばかりの若い人に言いたい。なにがリスクなのか。現代において食べることや住む場所に困ることはあまりない。そうなら、なにを恐れているのか。リスク回避に走らないほうがいい。実際、リスクはそれほどないのだから」。
つまり、学歴社会を打破するのに必要なのは「勇気」だと言っているのではないか。勇気というと勇ましい印象があるが、イーロン・マスクは一方で、「起業したのは、自分がやりたいと思っていたテクノロジー関係の企業が雇ってくれなかったから」とも言っている。果敢に挑むというよりも、状況に応じてしなやかに行動してきたといった感じだろうか。
つまり、彼の言う勇気とは、無理やり絞りだすものではなく、自分が輝きたいところを知っていれば、自然に大きな一歩が出せる前向きな気持ちということなのかもしれない。当たり前すぎるが、その当たり前が現状打破の力になる。
文:水迫尚子
企画・編集:岡徳之(Livit)