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日本「子ども精神的幸福度ワースト2」の衝撃
今回も多くの主要メディアに取り上げられたUNICEF・イノチェンティ研究所の「子どもの幸福度調査」。
日本に関する結果で最も衝撃とともに注目されたのは「子どもの精神的幸福度ワースト2」の部分ではないだろうか。身体的な健康度が世界一で精神的幸福がワースト2などというアンバランスな結果が出た国はほかにない。
特に日々、懸命に子育てや教育に携わっている保護者や教育者からは、当然「なぜ?」という疑問がわいた。同調査の「精神的幸福度」は、「15歳の回答者の生活満足度」という主観的な数字と、「15~19歳の自殺率」という比較的客観的な数字の2本柱で算出されている。要は日本の子どもは生活の満足度が低く、自殺率が高いという話だ。
その背景は?
この背景を巡っては自殺の主な原因として指摘されるいじめの問題や、大人も含めた国民性としての自尊心の低さ、子どもの自己効力感を高めない(自己決定する機会の少ない)教育文化など、複数の指摘がなされている。
果ては日本人が謙虚であるがゆえに匿名のアンケートであっても「自分は幸福だ」と回答することに抵抗があったのではないかとデータ自体の信ぴょう性を疑う声も。
しかし悩み多き15歳という年齢からサンプルを抽出しているとはいえ、こんなに物質的に豊かな先進国において「子どもが幸福感を感じていない」という深刻な事態が、いまひとつ国を挙げての対策論議を巻き起こすまでには深刻に受け止められていない気がするのは、元学校心理士で子どもの幸福感に過敏な筆者だけだろうか。
これならまだ昨年末にPISAの結果が発表されて明らかになった「読解力の低下」の方が騒がれていた気がする。私たちにとって子どもの「幸福」は「学力」よりも些末な問題ということだろうか?
「子ども幸福度世界一」の栄冠を再度手にしたオランダ。秘訣は幸福な大人?
一方、筆者が現在暮らしているヨーロッパの小国オランダは、前回に続き「子ども幸福度世界一」の評価を受けた。肥満率の高さなどを受けた身体的健康度は9位だったものの、精神的幸福度が1位、学力と社会的スキルを総合した「スキル」が3位と全体的に高評価を得た結果だ。
その背景には、徹底して子どもの自主性を尊重し個人に合わせたペースで学習できる教育システムや、子どもに理解のある親を含む家族で過ごす時間の長さ、公園をはじめとするあそび場の多さ、子どもに寛容な社会、小学生までの子どもの標準的就寝時間は19時ともいわれるスーパー早寝の習慣、福祉の充実などが指摘されている。
もちろん一つの理由によって「子どもが幸福な国・連続世界一」を達成できるわけはないから、それは歴史的・文化的な背景から地理的条件・社会システムまで様々な要素が多重的に織りなされた結果だ。
ただ、元学校心理士で子育てのためにオランダに移住した筆者は、「なぜ、オランダの子どもは幸せなのか?」と訊かれた際には、「大人が幸せだからじゃない?」と答えることにしている。それが最も様々な要素が集約されて、子どもと接している断面だからだ。
その「大人が幸せ」の中身にはもちろん、一朝一夕に真似できない要素もたくさんある。
「世界で最も優れた年金制度と充実の福祉に支えられた将来への安心感」「世界一のワーク・ライフバランスから来る生活の余裕」「一人一人の幸福至上主義の個人主義の文化」「パートタイム雇用や在宅ワークの充実」などがそれだ。
それは認めねばならぬのだが、もっと簡単に真似のできる彼らのちょっとした習慣や子育てに対する考え方にも、「世界一幸福な子ども」を育てるヒントが散りばめられている。筆者も移住してから戸惑いながら一つ一つ理解して取り入れた結果子育てがとても楽になったので、ここからはその話をしたい。
母親の「自己犠牲」が歓迎されない
まず初めに声を大にして言いたいのだが、この国では親(特に母親)の自己犠牲があまり歓迎されない。
日本人の母親として当然と思っていた自己犠牲が、褒められるどころか変な目で見られる体験が重なってやっと気づいた。授乳のために自分の腰が痛む体勢をとっていたときも、子どものために3時間キッチンにこもってかわいいクリスマスディナーを作った時も、「子どものために」と自分への魅力的な仕事のオファーを断った時も、周りのオランダ人はむしろ眉をひそめた。
理由は明快で、「子どものために母親は幸せでないといけないから」。更にその理由は、「母親の機嫌は子どもの幸福感に直結するから」「子どもは親が自分の人生を幸せに歩んでいる姿から自分の人生の歩み方を学ぶから」だ。
ごちそうは超シンプルな食事+ママの笑顔
特に日々の食事のシンプルさは日本では想像がつかないだろう。朝と昼は各自自分でトッピングをぬった焼かない食パンと決まっている。唯一加熱調理の絡む夕食もフライドポテトとコロッケ(しかも買ってきた)、など日常茶飯事だ。
「ビタミンとか、子どもにこれで足ります?」と訊けば、「心配ならおやつに牛乳とフルーツでもあげれば?」と返ってくる。「毎食に母親の手間と愛情がこもっていないと」と不安を口にすれば、「今まで調理にかけていた時間、子どもと一緒に遊んであげれば?」と逆に諭される。
もちろん親御さんたちが毎食楽しんで料理をして、子どもとおいしく食べられればそれが一番だと思う。しかしこのパンデミックで家族が家で過ごす時間が増えたことにより、毎食の料理が大きな負担になっているお母さんも多いという。
手の込んだ食事を作るためにストレスを感じるくらいなら、ニコニコ機嫌のいいお母さんと買ってきたポテトとリンゴでも食べた方が子どもの心身にいいよ、と世界一身長の高い国民に見下ろされながら言われると、ぐうの音も出なかった。
ちなみに日本人ママとして勝手にうっすら感じていた他のプレッシャー、例えば「子どものスクリーンタイムはできればゼロで」「夫は外で仕事しているのだから家事育児は全て私が」「自分の不調は後回し」など「良い母親的強迫観念」も、ほぼ「まずはあなたが健康で余裕がないと!」で一蹴されてしまった。
子育てが「ママの仕事」でないことの意義
オランダでここまで家事が効率化されている理由には、元々ジェンダー格差意識が少なく、いわゆる「専業主婦」が少ないことにもある。
80年代の不況時代にワークシェアを徹底してからパートタイム雇用でも出世や社会保障に影響が少ないこともあり(うちの子たちの学校の校長先生もパートタイマーだ)、特に子どもが小さいうちはパパとママが二人ともパートタイムや自宅勤務にして子どもとの時間を確保するスタイルが主流だ。
子どもが4歳から通う小学校に送迎に来ている人も、ママは半数程度。パパもおじいちゃんおばあちゃんも、ベビーシッターもいて実に様々。
日本なら平日の昼間にパパが子どもを迎えに来たら「リストラ…?」と職員室の噂になってしまいそうだが、ここはその限りではない。むしろパパが遠距離通勤で子どもの送迎をしたことがない我が家など、学校の先生に「こんなにパパが学校の用事に参加しない家はあまり見ないが、家庭内の状況は大丈夫か」と心配されてしまった。
子育てをママだけの仕事とせず、パパやその他の子育て参加者がみんな当事者意識を持って取り組むことの意義は大きい。それはママのためだけではない。
子どもはママだけでなく、パパやその他の様々な大人から色々な質のかかわりを受け、学び取り入れながら幸福のもととなるアイデンティティや自尊心を育てていく。
例えば父親(もしくはそれ的な存在)に愛される体験をあまりせずに育った女の子にも、お手本となる存在としての父親(的存在)が不在で育った男の子にも、両親(的なチーム)が信頼し合いともに生きて行く姿をあまり見ずに育ったどの子にも、その後の人生はハードモードになり得る。
もちろん、先述のように夫が遠距離通勤の筆者を含め、いろいろな事情でワンオペ育児をがんばっているママたちのがんばりがムダだという意味では全然ない。それが『母親の仕事なんだから当然で問題ない』と思わないでほしいだけだ。
元学校心理士として「家計を1人で担うパパと家事育児を1人で担うママ」という高度経済成長期の完全分業が「父親不在の家庭+理解しあえない夫婦」の家族スタイルを定番化し、現在全国に200万人ともいわれる引きこもりの問題にも影響したと思っている筆者は、オランダの「ゆるゆる共有スタイル」がとても気に入っている。
侮れない「ハッピーな親」の効能
彼らがこだわる「ハッピーな親」の効能には、実はそれなりの裏付けがある。
人間の幸福と発達に関する人類史上最も時間とお金のかかっている研究といえば、米ハーバード大学医学大学院が75年の歳月を経ていまだ継続中の「Grant Study」。ハーバード大学卒業生を追跡調査をすることで人生に関わる様々な要素の関係性を浮き彫りにする内容だが、その主要研究者である精神科医のGeorge Vaillant氏はその膨大なデータから「幸福とは愛です。以上」となんともエモーショナルな結論を導いている。
そしてその裏付けとして、「子ども時代に父親とあたたかな関係を持っていた人は、成人期に不安が低く、休暇を楽しみ、老年期に人生の満足度が高い」などの分析結果を引用。
それどころか「子ども時代に母親と『あたたかな』関係を持っていた男性は、そうでない男性と比べて成人期に年収が高く、老年期に痴呆を発症する率が低い」「成人期の男性の収入は(一定以上は)IQよりも人間関係の温かさに依存する」などの結果も出ているというから聞き捨てならないではないか。
教育改革の一環として公教育の授業時間を大幅に削減したスウェーデンの体験もこの結果を支持するかもしれない。放課後の活動もほぼなく、家族で過ごす時間が増えた結果、勉強に費やす時間に対して子どもの学力が飛躍的に伸びたことがPISAの結果から明らかになり、その教育理念が世界から注目を浴びている。
もちろん子どもに「あたたかな関係」を感じさせるだけの余裕を創出するために、どれだけ家事育児を手抜きする必要があるかは人によるだろう。しかし少なくとも筆者なら、幼い3人の子どもに丸一日「あたたかに」接するためには、スクリーンタイムだろうがポテトの夕食だろうが手持ちの札を全て切る必要があることは想像に難くない。
変革する「子どもに身につけさせるべきスキル」
もちろんこれは価値観の問題だ。特に私を含めた団塊ジュニア世代などはまだまだ、高度経済成長期の記憶色濃い自分の親から受け継いだ「より良い学業成績=より良い社会的ポスト=より幸福な人生」という図式がしょっちゅう頭をよぎる。
しかし近年加速する技術革命の中、私たちの子どもが職を求める頃には求人の過半数が現在存在すらしない職業になると見込まれている。従来の人材に尊重されてきた知識や事務スキルは相対的に価値を下げ、代わって豊かな共感やコミュニケーションをつかさどる人間力が求められるようになるとも。
それを受けて同じアジアでも時代の潮流を読む教育大国のシンガポールなどは、国の教育方針において「競争・知識力」ベースの教育方針から「個人内評価・人間力」ベースへの転換を図っている。
学生時代に学んだ知識の価値の「半減期」が、従来は30年といわれていた一方、技術革新が進み続ける今後の世界ではそれが6年(!)になるという予測もされている。私たちが知っている既存の学業を子どもに身に着けさせることに時間を割いても、彼らが大人になった時にはもうそれは無用の長物になっている可能性だってあるのだ。
「幸せ」のハードルが低い
さて、オランダ人の国民性にも目を向けてみよう。彼らは国土を干拓して自分の手で造ってきた歴史から、合理的で男女平等。そして19世紀にカルヴァン主義に基づいて推進された改革により実直で寛容、質素な国民性が固定されたといわれる。「ケチ」「率直すぎる」「金持ちや理想の高い人に冷笑的」といった悪評はこういった気質の裏返しだ。
ただその分「幸せ」と感じるハードルが低い。「なんて気持ちのいい日差しだ」「家族が集まってgezellig(心地いい、楽しい)」「ニクセン(何にもしない)な時間、幸せ」と、日常の些細なことに幸せを見出すのが実に上手。
一般的に大人に「人生、幸せですか?」と訊けばほぼ「幸せだよ」と返って来るのだが、追及してみるとその幸せの要素は「雨風をしのげる住居(持ち家だろうが賃貸アパートだろうが)」「家族」「仕事(立派なキャリアだろうが仮のパートだろうが)」、または「健康」のような、以前の私なら人生の最低ラインとして見過ごしていたことが多い。
冒頭に触れた幸福度調査で「生活満足度」を高く回答した15歳のオランダ人の子どもたちも、同様に「満足」を感じるハードルが低かった可能性はふんだんにある。しかし幸福とは、そもそも100%主観的なものではないだろうか?
同様に、何らかの文脈で自分の子どもに対する評価を求められたときにも「健康と幸福」に言及することがほとんど。「あの子は健康だし、毎日ごきげんだ。これ以上何も望まないよ」といった具合だ。
この部分は徹底していて、学校の成績表ですら年に2回のIQテストのような知的発達試験の結果の他は徹底した個人内評価。「各分野の学習にどれだけ楽しんで取り組めたか」「人格がどう成長したか」などに多くのページが割かれている。
この「親が子どもに満足している」というのはけっこう大事なことで、子どもの幸福感にもつながる子どもの自己評価にわりとダイレクトに響いているのではないかと思う。そしてそれは、「苦手をなくす」方針の教育の中ではとても難しいことだ。
自分が「減点法」の教育を受けた影響か、それなりによくやっている子どもに関してもつい「勉強でケアレスミスが多い」など欠点に目を向けてしまいがちな筆者。健康で毎日楽しく過ごしていれば、それだけで子どもとしては100点だよなあと反省しきりだ。
「我慢」が美徳でない
個人の幸福至上主義で行動を旨とするオランダ人にとって、「我慢」は決して美徳でない。
教育現場でも「忍耐力」や「従順さ」は重視されない。「苦手分野を克服する」ことより「学びを楽しむ」こと。「教師の言うことに従順に従い、学ぶ」ことよりも「自分の頭で考え、興味のあることを自主的に学んでいく」こと。「年齢のレベルにがんばってついて行く」ことよりも「自分のペースで学習する」ことが重視される。
学校でいじめなどの問題があったり、学習のペースや校風が合わなくなれば親もさっさと見切りをつけるので、転校・留年・飛び級など、小学校から実に流動的だ。
それがゆえにか、オランダで育つ子どもはまず「嫌なことを我慢する」経験が詰まれない。筆者も含めオランダで子育てをする日本人の親が口をそろえて「うちの子は日本社会ではやっていけまい」と嘆く理由はほとんどがこれだ。
しかし私たちのこの不安はオランダ人に話しても理解されない。嫌なことがあるのならそれを変えるか、それが無理ならそれを含む環境を変える行動力をつける方がはるかに建設的だと考えるからだ。
実際、オランダ人に「最近どう?」と訊かれて日本人らしく「仕事は多忙だし、夫は家事を一切しないし…」などと謙遜半分、忍耐自慢半分で愚痴ろうものなら、即座に転職と離婚の話をされてしまう(現実的に離婚率も転職率も高い)。
もちろんこれはどちらがいいということはなく、どちらにも一長一短のある話だ。ただ自分が我慢を仕込まれて育った大人は、子どもの子どもらしさを許容しづらい。のびのびした子どもには「そんなことではろくな大人になれない」と説教のひとつもしたくなるだろう。しかし「ろくな大人にならない」はずのハッピーなオランダの子どもが大人になると、1人当たりのGDPが日本よりも高い労働者になるという納得のいかない事実も存在する。
オランダ人の筆者の夫が日本の公教育の現場で働いていた時代、よく「日本の先生たちは、子どもたちが何かを楽しむことが悪いことだと思っているかのようだ」と理解に苦しんでいた。「勉学と忍耐力をつけるのが学校だし、楽しい学びではテストで良い点を取れない」と説明すると、「苦しんで勉強をしてテストで少々いい点を取ることに何の意味が?」と憤慨していた。
関連して、最新のPISAの分析においても子どもが「悪い点数をとりたくない」というモチベーションで熱心に勉強することの危険性が「諸刃の剣」と表現されている。子どもが低成績への不安に動機づけられて長時間学習し高得点を収める傾向のある国は概して、一方で子どもたちの生活満足度が低く、学習の継続を支える成長マインドセットも低いとの分析を受けてのものだ。
今後技術革新により変革のスピードが加速する世界においては誰もがなんらかの生涯学習をする必要に迫られるとも見込まれる中、子どもは短期的に結果を出すよりも長期的な内的モチベーションを醸成するための楽しく学ぶ経験を積むべきだとの指摘も。
逆にオランダの親が子どもに慎重になる部分
さてこのように「大人が幸福なら子どももハッピー」なお気楽子育てをエンジョイしているイメージの強いオランダ人だが、私たち日本人よりも慎重になる部分もある。それはひとことで言って「ありのままの子どもを否定するような言動」。オランダの親が子どもに対して望むことが許されるのは「幸福であること」以外にない印象を受ける。
例えば妊娠中によくある「男の子がいい、女の子がいい?」といった話題でも、正解は「健康に生まれてくれればどちらでも」しかない。産まれた子どもが違う性だった場合に、何かのはずみで将来本人の耳に入ってしまうことを恐れるからだ。
店で「男の子がピンクを好きなんてヘンだから、青いのを買ってあげる」なんて言おうものなら、周りから白い目で見られる。「〇〇くらいできないと恥ずかしいから」と本人が希望していない習い事をさせることもなければ、将来は〇〇になりなさい、〇〇はダメ、というプレッシャーをかけることもまずない。特定の進路に手が届くように学力を引き伸ばすことも推奨されない。あくまでありのままの本人に最も合った進路を選ぶことを手伝うのが学校の先生の仕事だ。
子どもが成人してしまえばなおさらだ。苦労しそうな結婚をしようが、いい職を辞そうが、ひどく遠い国に移住しようが、「本人が幸せならそれが一番」の姿勢を崩さない。
逆に言えば、子どもがどんな大人になろうが親に責任はない。当然、犯罪者の母親がマスコミの前で泣きながら頭を下げることもない。
こうした彼らの「子どもだって親が測り知れない人格を持った一人の人間なのだから」「ありのままの本人で歩む人生が一番幸福」という前提は、子どもの出来に徹底的に責任を感じる日本人の親としては無責任にも思えることもある。しかしこと子どもの幸福感に限っては、無理に引き伸ばされたり違う型にはめられたりするよりは、オランダスタイルの方が寄与するであろうことは想像に難くない。
先述の「母親が自分の幸福を大切にする」主義は、実はここともつながっている。「いい母親」でいるプレッシャーを感じて自分を犠牲にし、子どもの出来が直接自分の評価につながっているような感覚を持って日々子どもに接していたら、我が子をありのまま認めることは難しくなる。自身の能力を証明するために少しでも引き伸ばそうとしてしまうだろうし、自分より幸福になってほしいという思いからついあれもこれもできなければと不安になってしまうだろう。「子どものために我慢している」という被害感が募れば子育てへの主体感も失われるし、距離も取れなくなって子どもの悪い部分ばかりが目に付くようになる。
これが「ワーク・ライフバランス世界一」の幸福な大人へとつながるのかも
ちなみにオランダは大人のワーク・ライフバランス世界1位の国でもあるが、彼らの勤労態度を見ていると、オンとオフの切り替えを上手くし、仕事は仕事と割り切れるのは、こうした子ども時代から地続きの安定した自己肯定感・幸福感のたまものだと感じることが多い。
低い自尊心を仕事における滅私奉公と自己犠牲で埋めようとする悪い癖のある日本人の筆者は、オランダの職場で仕事をしていた時によく颯爽と定時に職場を去る同僚の背中をまぶしい思いで見送ったものだ。
人権意識の高い彼らは言動の端々に、個人には誰しも幸福になる権利があり、仕事は日々の糧を稼ぐ手段で、最低限の仕事をしているだけで雇用者は自分に恩があるという揺るがない「当たり前」が感じとれて、正直ちょっとうらやましかった。
さあ、フライドポテトを買って来ましょう
オランダの子どもを巡る状況をずいぶん持ち上げてしまったように感じるが、もちろんこれは一つのやり方だし、個人主義と集団主義は良し悪しの問題でもある。
120%日本人として母国の対極のようなオランダに暮らす筆者は、毎日のように労働者の人権の裏面である当てにならないサービスに不便を強いられ、他人の迷惑を省みず高層ビルのような体で細い道をふさいで立ち話するオランダ人たちに憤慨し、この期に及んで公衆衛生よりも個人の自由を重んじてマスクも手洗いも徹底せずコロナパンデミック第二波のビッグウェーブに襲われているこの国を、そりゃそうなるわと呆れながら観察している。
オランダにいたって「我が子に『それなりの』人生を」と教育に熱心な親御さんも、手抜きせず「きちんとした」家事育児に余念のないママもいる。それはとても立派なことだ。
でも、もしもご自身とお子さんの「幸福感」に思うところがあり、日々の育児にすこし大変さを感じる日があったら、その日の夕飯はぜひフライドポテトでも買ってきてゆっくり食べてほしい。その後に子どものためにと犠牲にしていた趣味や自分へのケアをして、幸せな顔を子どもに見せてほしい。
そんな日が重なれば、その体験が糧となり、子どもの幸福度をオランダの子どもたちのように伸ばしてくれる…かもしれない。
文:ウルセム幸子
編集:岡徳之(Livit)