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提訴することの社会的意味とは
ジャーナリストの伊藤詩織氏(以下、伊藤氏)が、SNS上での発信者複数名に対して、名誉毀損の訴訟を起こした。漫画家のはすみとしこ氏(以下、はすみ氏)の文字付のイラスト画が、伊藤氏の職業活動や社会活動を貶める内容のものであること、また、数名が名誉毀損となる内容のリツイートを繰り返していたことが、その内容である。
はすみ氏は、この問題については以前に、伊藤さんを名指ししたものではない一般的な風刺だとSNS上で述べていたことがあり、この訴訟について具体的にどう対応するのかはいまの時点(2020年6月16日時点)ではあきらかではない。
従来型の「名誉毀損」の理論で、絵につけられた文字の部分だけの名誉毀損性を見ていくのか、それとも絵の(人物の描き方の)ほうにも、何らかの法的判断があるかどうか。後者の場合には、その判断を恣意から守る理論枠組みが示されるかどうか。そうした裁判の内容に関する事柄については、判決が出たらあらためて書きたいと思っている。
いまはまず、そうした裁判が起こされたことの社会的意義について、書いておきたい。
とくに伊藤氏の記者会見の中で筆者の耳に残ったのは、「木村花さんの訃報を聞いて、自分がアクションを起こさなくては」というところだった。
日本社会では、裁判の判決がどうなるか、どういう論理で結論が出されるか、という問題以前に、まずは「裁判を起こす」ということ自体が、当事者にとって大変な心理的ハードルになる。さらにその裁判の内容が、従来の女性ステレオタイプからすれば「女性に期待されている言動と違う」という場合には、社会から肯定的に見てもらえる可能性も少なかった。
伊藤氏は、そのハードルを飛び越えて性被害に関する訴訟を起こし、注目を浴びた人である。そして、そこを飛び越えるにあたって、多くの言論バッシングを受けてきた人でもある。その人物が提訴に踏み切るということは、社会に対して、大きなインパクトを与える。本人も、自分がそのようなシンボル的な存在であることをよく自覚しているからこそ、「ここで自分が沈黙していてはいけない」との社会的使命感を持ったのだろうと思う。
筆者自身は、このように自分の存在価値を十分に自覚した上での《注目を集める行動表明》が行われることを、価値のあることだと思っている。「私権」に基づく裁判が、こうした公共的な意識によって起こされることはあってよく、とくに憲法訴訟と言われる分野ではこうした社会的な意識によって私権が主張される場面は多い。
現在筆者は、被告のはすみ氏の主張について十分な情報を持っていないので、判決の予測をすることはできない。仮に判決が原告にとって不本意なものに終わったとしても、「泣き寝入りしないこと」が社会から「リスペクトをもって注目されている」という出来事の意義を、見失うべきではないだろう。
木村花さんの事件以前からの問題
「ネット上の誹謗中傷をどうしたらいいか」「ネット上の匿名の自由はどこまで認められ、どのような場合に契約があっても制約されるのか」という問題は、いまに始まった問題ではなく、21世紀初頭から議論されてきた問題である。
現行法制度では被害者の精神的、金銭的負担が大きく、泣き寝入りせざるを得ない、という実態については、すでに多くの識者からの指摘があり、先に紹介した「ネット人権法研究会」も2019年からこうした問題への取り組みの必要性を指摘していた。
木村花さんの事件は、このような問題意識をもともと持っていた被害当事者、弁護士、学者、ジャーナリストの発言に火をつけた。いま、ネットニュースを見ると、弁護士やネットリテラシーの専門家たちが続々と、被害を受けたときの対処について知恵を提供する記事を出している。
また、煩雑すぎるために救済の道を狭めるボトルネックとなってきた事業者への発信者情報開示や削除請求についても、代行業務を請け負う弁護士が続々と広告を出し始めている。そうした問題意識を持って社会的取り組みをしてきた人々の発言力が、社会の関心の高さを受けて一挙に高まり、その数の多さがネット社会全体に影響を与える動きとなっているように見える。
また、こうした動きに呼応するように、自分は加害者として法的責任を問われるのか、との不安から弁護士に相談する人も増えているという。
ここには、加害者(かもしれない人々)の意識の変化も見られる。当初は『一人の芸能人の事件』というトーンで語られていた問題が、いまでは多くの識者と一般ユーザーが刻々と情報や知識を持ち寄って参加する一大公共テーマを形成している、と言って過言ではないだろう。
社会を変える伊藤さんの「アクション」
たしかに、この方面の研究者や実務家が指摘するとおり、現行法のままでは、被害者の多くは、「そこまでのお金と時間をかけて割に合わない救済を求めても自分が疲弊するばかりだ」と考えて沈黙してしまうことが多いと思われる。そこを打開するための制度改革は必要である。同時に、こうした誹謗中傷被害の問題は、被害者たちが「いまある法律や裁判理論を使う」という決意をすることによって、相当程度、減らすことができるのである。
潮目が変わってきたと言えばいいだろうか。これもまた「言論」の効果である。法学上の「表現の自由」の理論で言うと、「思想の自由市場」の中で悪質なものを自力で駆逐・淘汰しようという「対抗言論」が起きてきて、それが《焼け石に水》では終わらない有効な数だけ起きてきた、と言えるのである。これは「表現の自由」が本来期待していることである。
悪質な言論には刑事罰による強い法的規制を求める声もある。しかし、もしも社会の中から自発的に起きてきた対抗の動きによって、多くの悪質な言論が抑制・淘汰されていくのならば、このほうが「表現の自由」の理論にかなう健全な流れだと言える。
匿名で表現をする人、とくに憂さ晴らしのために人を揶揄する表現を好んでする人の多くは、気の弱い人間だろう。その意味では、伊藤氏から提訴されたはすみ氏のように、自分のアイデンティティを明らかにした上で、それを自らの職業として行う人は、数としてはむしろ少数である。つまり、この提訴は、原告側の伊藤氏だけでなく、提訴を受けたはすみ氏や、リツイートをしたことで被告となった人々のほうも、匿名の群衆の中に紛れている多くの発言者の代表として選ばれたシンボル的存在だと言える。
まだ公判が始まっていないいまの段階では、このはすみ氏の漫画が、多くのSNS上の悪質表現の代表と言えるのかどうか、筆者には断定できない。これは「犯罪」を裁く裁判ではなく民事訴訟ではあるが、「名誉毀損」は刑法に規定のある犯罪でもある。
もしも伊藤氏が勝訴した場合、はすみ氏の表現は(もしも刑事告訴されていたら)犯罪にもあたることになるだろう。これについて、まだ判決が出ていない状態で「名誉毀損だ」と決めつけることは、それ自体が名誉毀損になりうる。だから、本稿の段階では、伊藤氏のアクション(アクションという英語は、行動という意味と、訴訟という意味の両方がある)には、社会の潮目を変えていく可能性があり、そこに勝敗を超えた意義がある、というところに関心を絞っておきたい。
「権利」を使える社会へ
多くの気の弱いバッシング発信者は、「これからの被害者は黙ってはいない」となれば、それだけで、投稿に慎重になるだろう。ただここで本来は自由であっていい言論までが萎縮することのないよう、「法的にアウトな言論」、「グレーだが人を傷つける可能性が高く社会倫理的に非難されることを覚悟すべき言論」、そして「正当な社会的発言や芸術的表現」を見分けるリテラシーが、いまよりもっと共有されてほしい。上に紹介した記事のほかにも、いま、ネットリテラシーブームと言ってよいほどに、そうした解説記事がネット上で共有されるようになっている。
この流れがしっかりと定着すれば、刑事罰付きの言論規制にまで乗り出さずとも、市民社会の合意と裁判手続きの簡素化によって、ネット社会がいまよりは『人を追い詰めることのない空間』になるかもしれない。
故・木村花氏は法的救済を求めずに死を選んでしまったが、伊藤氏は生きる側に身を置く人々のためのアクションを起こした。裁判の結果は筆者にもまだわからないが、少なくとも、法的救済を求めるために、いまある権利を使おうとする人々に、沈黙強制となるような罵声や嘲笑を浴びせる社会は、これを機に卒業したい。私たちの言論空間がその方向へ脱皮できるかどうかという関心から、裁判の成り行きを見守りたいと思う。
文:志田陽子