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医師やパイロット、宇宙飛行士など、瞬時の判断と高い集中力が求められる仕事では、わずかな注意力の低下が重大な事故やミスにつながる。こうした現場では、身体の疲れよりも、むしろ「精神的な疲労」──つまり脳のオーバーヒートが問題となる。しかし、脳の疲れは外からは見えづらく、本人ですら気づかないことも多い。
この“見えない疲労”をリアルタイムに可視化できれば、リスクのある状況を事前に察知し、適切なタイミングで休憩や交代を促すことができる。特に医療現場や航空・宇宙分野では、こうした技術の導入が命を守ることに直結する。
この課題に対し、テキサス大学オースティン校の研究チームは、顔に直接貼り付けることができる超薄型の「電子タトゥー(eタトゥー)」を開発した。このデバイスは脳波や眼球運動を計測し、作業中の脳の負荷や疲労をリアルタイムで検出できるという。NASAをはじめ、多くの専門機関がこの技術に注目しており、将来的にはさまざまな現場での実装が期待されている。
本記事では、この「eタトゥー」の技術概要、検証実験の内容、想定される応用領域、そして未来の展望について詳しく解説する。
貼るだけで脳と目の状態をモニタリング。超薄型「eタトゥー」の仕組み
開発された電子タトゥーは、額やこめかみなど顔の皮膚に直接貼ることができる超薄型センサーで、ナノスケールの厚さしかない。素材には生体にやさしい柔軟なポリマーが使われており、長時間貼り続けても皮膚に負担をかけず、違和感もほとんどない。接着剤やテープは不要で、皮膚と自然に密着する。
このデバイスには、脳波を測定するEEGセンサーと、眼球運動を捉えるEOGセンサーが内蔵されており、一つの極小デバイスで脳と目の活動を同時に観測できる点が特徴だ。EEGは集中や覚醒状態、EOGは疲労や注意のズレを捉えるのに役立つ。
データは無線通信で外部デバイスへ送信され、PCやスマートデバイス上でリアルタイムに処理・可視化が可能。従来のような大がかりなヘッドセットや電極装置は不要で、極めて簡便かつ低侵襲に測定が行える点は、従来技術に対する大きなアドバンテージである。
また、表情や動作の自由度をほとんど損なわないため、実際の作業環境でも自然な状態で計測を続けられる。「貼っていることを忘れるほど自然な装着感」という評価は、現場導入において極めて重要なポイントといえる。
記憶課題で脳の働きを可視化。実験で証明された高精度
電子タトゥーの有効性を検証するために、研究チームはまず、このデバイスが脳波(EEG)と眼球の動き(EOG)を正確に捉える能力が、従来の専用装置と同等であることを確認した。そのうえで、精神的な負荷が高まったときにどのような生体反応が現れるかを調べるため、6人の参加者による認知課題テストを実施した。
この実験では、「Nバック課題」と呼ばれる記憶テストが使用された。画面上に1文字ずつランダムな位置に文字が表示され、参加者は「今出た文字またはその位置が、N個前に表示されたものと一致しているかどうか」を判断し、一致していればマウスをクリックするよう指示された。Nの値は0〜3まで変化し、数字が大きいほど記憶・注意力への負荷が高まる仕組みだ。
参加者全員がこの課題を複数回こなすなかで、電子タトゥーは明確な生体反応の変化を記録した。特に前頭葉の脳波活動(α波・θ波)や、眼の微細な動きにおいて、課題の難易度に応じたパターン変化が観察された。これは、脳が受ける作業負荷の大きさによって、神経活動の変化が可視化されることを意味する。
加えて、チームは脳波と眼球の動きのデータに加え、課題の難しさ(Nの値)を機械学習アルゴリズムに学習させた。学習後のアルゴリズムは、脳波と眼球運動のデータのみから、被験者の精神的負荷レベルを高い精度で予測できるようになった。
この結果は、電子タトゥーが「今この瞬間、脳がどれほど疲れているか」をリアルタイムで把握するツールとして、極めて高い信頼性を持つことを示している。
医療・航空・宇宙開発へ。広がる応用と導入の可能性
この技術の実用化が進めば、まず恩恵を受けるのは医療・航空・軍事など、極限状態で人間の判断力が問われる現場だろう。手術室や操縦席といった高リスク環境では、ほんの一瞬の判断ミスが命を左右する。疲労による集中力の低下を事前に検知できれば、タイミングよく休憩や交代を促すなどの対策が可能となる。
NASAもこの技術に関心を寄せており、宇宙飛行士の精神状態を遠隔かつ長期的にモニタリングする手段としての導入を視野に入れている。宇宙という特殊な環境では、睡眠や日照の乱れによって疲労や判断力低下が起こりやすく、eタトゥーのような非侵襲型センサーの導入は大きな意味を持つ。
今後は、AIによるデータ解析やアラート機能の組み込みが進めば、脳の負荷レベルに応じて作業を自動調整したり、集中力低下を検知して通知するようなスマートシステムの構築も現実的になるだろう。
また、一般向けの応用としては、長時間のデスクワークやオンライン授業、eスポーツなどにおける“集中の見える化”ツールとしての活用も期待される。メンタルヘルス支援やセルフケアの一環として、日常生活に取り入れられる可能性も十分にある。
「疲れ」を数値で知る時代へ。働き方も変える新しいセンシング
これまで、脳の疲れや集中力の限界は、主観的な感覚やパフォーマンスの低下によってしか把握できなかった。しかし、電子タトゥーのような技術により、客観的なデータとして“脳の状態”を把握することが可能になりつつある。
高精度でリアルタイムのフィードバックが得られるこの技術は、職場の安全性向上や作業効率の最適化に貢献するだけでなく、現代人が抱える見えないストレスや疲労への対処にも有効となるだろう。
NASAも注目するこの“顔に貼る脳センサー”は、働き方や医療、安全、さらにはメンタルヘルスのあり方に新たな視点を提供する。脳の働きを「見える化」し、必要なタイミングで気づきを与えてくれるこの小さなタトゥーは、私たちの未来の生活に大きな変化をもたらす可能性を秘めている。
文:中井千尋(Livit)