「社会が音を立てて崩れていくような状況だった」

1991年、ソ連が崩壊したのは、松島俊夫さんが日本の大手自動車メーカー・マツダのドイツ支社に駐在していた時のことだった。大きく歴史が動く中で任された東欧諸国での販売網開拓。そこで見つけたのは、国や人種を超えて仕事をする上で大切なことだった。

松島俊夫さん
徳島生まれ、広島育ち。マツダ勤務時代、ドイツ・ベルギー・スペインに12年間駐在し、自動車海外輸出の最前線にて活躍。2001年マツダ退職後、メニコンの海外担当役員として11年間の海外事業拡大に尽力。2012年独立後は日本企業の欧州進出の支援などを行う。現在は日本、スペイン、オランダに拠点を構える

ソ連崩壊後にゼロからスタートした、販売網開拓

大人になってから、まさかこんな大きな社会現象を目の当たりにするとは思わなかった。松島さんはそう取材の冒頭で語った。

ソ連、正式名称は「ソビエト社会主義共和国連邦」。1922年から1991年までおよそ70年続いたロシア中心に構成された国家同盟だ。社会主義体制を掲げ、共産主義政党であるソビエト連邦共産党が指導する一党独裁体制として知られる。

「共産国家が柔化されたことで色々なことが変わりましたが、自動車業界にいた自分としては車の貿易の自由化が最大の変化でしたね」

時代が大きく渦巻く中、マツダは松島さんに東欧での販売網確立の命を与えた。

共産主義だったので資本企業がなく、全て国が作った企業だった。今でこそ、日本車はじめドイツやフランスの車が東欧諸国でも走っているが、ソ連の社会主義国家時代には、それぞれの国の国営企業が製造した車ばかりだったという。

共産党一党独裁の国にはそれぞれの国ごとに国営企業があり、独特のデザイン性や低価格さなどを支持する人もいた一方で、西の自動車メーカーに比べると安全性や品質が劣るなど成長速度が遅い側面もあったという。技術面で停滞していた背景には、“断裂”があった。

「ソ連崩壊前はハンガリー、ポーランド、チェコなどの東欧諸国に簡単に行ける状況じゃなかったんです。東欧は非常にビザも、入国管理も非常に厳しかった。ものすごい断裂があり、経済の交流も自由じゃなかった。だから共産諸国には西側ヨーロッパの車は“一切”と言っていいほど入ってこなかったんです」

それがソ連崩壊をきっかけに、西側の車が雪崩のように流入していった。流入当初は中古車が主流だったが、西側のヨーロッパはじめ、各メーカーは新車販売網の拡大を目指し奔走。マツダも顧客に販売し、アフターセールスの体制を構築へのスタートダッシュを図った。販売網を確立するまでの1、2年間、ソ連はもちろん、ポーランド、チェコ、ブルガリア、ハンガリー、バルト三国、ルーマニア、ベラルーシなどへ松島さんはドイツから毎週のように出張した。

ハンガリーの夜景

今でも続く友情を育んだ、旅路

ソ連時代、共産諸国では自動車関連の販売や製造は政府の自動車輸入機関が行っていたため、販売網確立には、輸入機関で働く人とのコネクションが持つ人が鍵となる。

「例えばチェコでは、当時マツダと取引していたオランダのディストリビューターがチェコと深い関わりがあったので、その会社伝いに権利関係、資材、人材を一緒に調整したり、現地に行って実際に視察したりしました。政府の自動車輸入機関の元社長、元営業本部長と会って話をして、『セールスマーケティング、アフターセールス、部品輸入から販売もできそうですね。じゃあお願いしましょう』という具合ですね」

他にも、日系商社のヨーロッパ法人とタッグを組んで開拓をすることもあったという。国ごとで最善のルートを選びながら、東側の旧自動車輸入のノウハウを持っている人と話を進める日々が続いた。

混沌とした情勢の中での販売開拓。苦労もそれなりにあったけれど、そんなことよりも、それぞれの国で出会った仲間と一緒にアクションプランを作って、実際の活動に落としていく楽しさが勝った。

「同じ目標に向かってやっていましたからね。だからそれぞれの国に思い入れがありますよ」

どの国で仕事をする上でも大切にしたのが、コミュニケーションだった。

「人間関係を作り、その上で仕事を進めるって何よりも楽しいですね。幸い、私は基本、人が好きだし、コミュニケーションも好きだし、人に興味があるので相手のことをいつも知りたいと思う。出会った人がどんな人か、何をやっている人か、興味や趣味とかがもし同じだったらさらに楽しいじゃないですか。そういうのが一つの人間関係の深みにつながっているのかな。一緒に出張したりするしね。ビジネスの言葉では『出張』と言うけど、一般的には『旅』。旅を一緒にするというのは関係性を深めるのに最善だと思う」

仕事を超えたつながりを育んだ相棒たちとは、約30年経った現在も付き合いがある。今もハンガリーにいくと「あの街にディーラー探しに行ったよね」などと昔話をして盛り上がるのだとか。

「いつまでも続く友情ですね」

ハンガリーの元同僚、今や友人達との写真

経験と能力を棚卸して図る、自分の可能性

たくさんの出会いをもたらしたマツダを去ることになったのは、松島さんが45歳の時のこと。

マツダが海外の自動車メーカーと資本提携などを行い、立て直しを図る一環で早期退職制度を打ち出したことがきっかけとなった。それまでの早期退職制度よりも対象人数が多く、対象年齢も30歳以上までに引き下げられ、自分が初めて対象になったことで退職について真剣に考え始めた。

「これまで早期退職を考えたことのなかった上司、先輩たちが迷っている姿を見ましたね。それで話を聞いていたら、だんだんと自分ゴトになったんです。そうだ、自分も対象だ、と。気持ちは28歳のままだったんですがね」 

マツダ以外の仕事もやってみたいと漠然と考えたことはあったが、具体的なプランを持っていなかった。急に現実味を帯びてきた、次へのステップ。でも、何が自分にできるのだろう。そもそも退職して、妻と育ち盛りの娘2人との生活を維持できるだろうか。

そこで自分の“市場価値”を図ってみるため、まずは職務経歴書を書くことにした。

「20年間のマツダでの勤務を通じて、先輩や同僚に教えてもらったこと、海外営業で得た自分の中の能力、スキルセットを棚卸してみたんです。実際に職業人として何ができるのか」

自分自身の能力が整理整頓されていく。

そして棚卸したものを当時、早期退職者向けに再就職支援を行っていた会社との面談で話したり、インターネット上に自身の経験や能力を掲載してみたところ、案外、周囲からの反応が良いではないか。

「会社の看板を下ろしても自分のスキルとして、自分の血となり肉となるものを身につけたい、と思って若手の頃から仕事に取り組んでいたことが良かったのかもしれませんね」

どこでも行ける。そう確信した松島さんはついに決断を下す。

「一生一つの会社にしがみつくより、やりたいことをやったほうがいいではないかという結論に至りましたね」

やりがいのある仕事につけるかどうか、を大きなポイントに据えて1カ月集中的に次の会社を見極める。そして、コンタクトレンズ大手・メニコンに海外担当役員となった。2012年に独立するまでの11年間、海外事業拡大に精を出したのだった。

楽しい、という気持ちでどこまでも

現在、オランダやドイツへ出張する多忙な日々を送る。拠点は日本の他に、マツダ時代に一時期、駐在していたスペインに構えた。

「スペインって、狂気的な一面があるんですよ。スペインには闘牛、火祭り、フラメンコなどの伝統的な祭りや踊りがありますが、それらの根底に流れているのは狂気だと思う。それに私は極めて強く惹かれます。どうせ人間はどこかに住むので、それならば心惹かれる好きな国に住みたいなと思って家を構えました」

今はそのスペイン発祥のスポーツ「パデル」を日本で普及させることに最も尽力している。パデルは世界中で人気が高まっている、テニスとスカッシュを組み合わせたようなラケット競技。四方を強化ガラスと金網で覆われたテニスコート半分ほどのコートでダブルス対戦するのが特徴だ。

パデルの試合風景(Premier Padelより)

「日本とスペインとの間で、文化の橋渡しや経済交流に貢献したいと思っていた中で、スペイン人の友人から話があったのをきっかけに普及活動をスタートさせ、ProPadel Japan株式会社も立ち上げました」

目標は、2026年までにコート数を現在の42面から、1000面は累積で入れること。スペイン最大のパデル事業会社とパデル用具の日本市場向け独占供給契約を締結するなど多方面から整備を進める。

年齢を重ねても精力的に仕事に取り組む松島さん。溢れ出す情熱はどこからやってくるのだろうか。

「楽しいから、やりたいからやっているんです。それは20代から50代までも一貫していますね。会社員時代も与えられた仕事に楽しみを見いだしていましたし、起業した今も楽しいこと、やりたいことをやりたい。その基本的な生き方、姿勢は歳をとっても変わらない。何も偉いこともないです」

事業を進める上で発生する手続きの面倒ごとやトラブル、障壁は当たり前。それが今までの経験上分かっている。数年かかっても成し遂げたいというビジョンに向かって進み続ける。

「どんな問題が起ころうと、問題が起こること自体は想定内。驚かない。問題が出てきて、どう解決するか。それだけです。解決することで一歩、二歩、何年後かに成し遂げる目標に近づけます」

相手をよく知ること、表面的ではなく心からつながることで、どんな苦難も乗り越えることができる。小さな喜び、楽しみも、倍以上に膨れ上がる。人生を豊かに歩む秘密を教えてもらった。

駐スペイン日本大使ご夫妻、ラリーガ・エイバル球団社長と共にサッカー観戦後の一枚

取材・文:星谷なな
編集:岡徳之(Livit