GAFAも注目する「トランステック」

グーグルなど世界の一流企業が取り入れ、脳を活性化させ、ストレスをたまりにくくし、仕事のパフォーマンスを上げるとして知られるマインドフルネス。

そのあとに続くものとして、現在、アメリカで注目を集めているのが「トランステック」だ。トランステックとは、トランスフォーマティブテクノロジー(Transformative technology=変化を促す技術)のこと。

脳科学や生体科学、心理学とITを組み合わせたサービスや製品を通し、メンタル、感情、心理面において人間の進化を支援する。簡単にいえば、ITの力を借りて、人間を心身ともに、もっと幸せにしよう、というものだ。

アメリカにおけるトランステックの活用例は多岐に渡るが、最も注目され活発なのが、職場における「ピープル・アナリティクス」という領域での活用だ。

ピープル・アナリティクスとは、「職場の人間科学」とも言われており、オフィスでのウエブ閲覧履歴やメールの記録など、従業員の行動データを収集解析することで、職場の生産性を高めていこうというものだ。

たとえば、一定期間、従業員にカード型センサーやウェアラブル端末を携帯してもらい、「いつ休憩をとったか」「誰と話したか」「いつ、どこにいたか」「話し方や話すスピードはどうだったか」などを記録。

それをビッグデータとして収集し、解析することで、仕事で成果を出している従業員はどのような行動をとっているのかをルール化し、社をあげて生産性を向上していこうという仕組みだ。

たとえば、アメリカのIT企業ヒューマナイズは、カード型センサーを使った行動解析で顧客企業の業務改善を支援。現在、クライアントは数百社にものぼり、「どのようなときにストレスがかかりやすい傾向にあるか」「生産性の高いチームとそうでないチームでは、何が違うのか」などを分析することで、企業の業績向上に貢献している。

IT 時代の象徴とされる GAFAは、社員の福利厚生の一環として、また、業績向上の施策として、マインドフルネスを積極的に導入してきたが、現在この流れはトランステックに移行しているようだ。

トランステック市場は今後、300兆円を超えるだろうと試算されており、IT技術を活用し、自分の能力を最大化させるとともに、心身の健康を図っていくビジネスが、今後、世界で中心的な位置を占めるだろと見られている。

トランステックが目指すものは、究極の幸福

そもそも、こうしたトランステックが成長してきた背景には、自己実現や自己超越といったものへの志向がある。

トランステックが世界で初めて誕生したのは2007年。アメリカの西海岸で、心理学博士のジェフリー・マーティン氏は起業家としても多大な成功をおさめていたが、その一方、その成功は彼にとってまったく幸せにはつながらなかった。

名声やお金は手に入れることができたが、心が満たされることはなく、むしろどんどん多忙になって強烈な虚しさに襲われるようになった。

「現在の資本主義は人々を過度の競争に追い込み、それが彼らに虚無感を与えている」

この結論に達した博士は、「Fundamental Well-Being(根源的な幸せ)」を獲得するためのステップを定義。

その概念をもっとわかりやすく、理論化するために、脳科学や生理学などのテクノロジー要素を加え、健康や脳科学領域の話題を交えて、人々に受け入れやすくしたものが「トランステック」だ。

つまりトランステックとは、単なるテクノロジーの話ではない。

究極的にはエゴや私利私欲などに囚われず、精神的に深い幸福感を得ることが目的なのである。

アフターコロナのメンタルヘルスはテックが主導

こうした背景を知ると、現在、トランステックが大きな可能性を秘めていることがうかがえる。

世界的に大問題となっている新型コロナウィルスの感染拡大を防止するため、多くの都市でロックダウンが行われたり、外出自粛が要請されたりしているなか、ストレスに起因する暴力やDV(ドメスティック・バイオレンス)の事件が増えている。

事実、国連も危険性を警告しており、解決策としてマインドフルネスを実践することを推奨。その影響もあって、マインドフルネスや瞑想を取り入れる人が増えている。

また、アメリカでは多くの人々が失業しており、メンタルヘルス系のサービスの需要が急激に高まっている。

ロサンゼルスに本拠を置き、瞑想アプリを提供するスタートアップ「ヘッドスペース(Headspace)」は失業したアメリカ人向けに1年間無料のサブスクリプションコースを提供することを発表。

Headspace アプリイメージ(App store)

同社の共同創業者でCEOのRich Piersonは、「瞑想やマインドフルネスは困難な事態を乗り切る力を人々に与える。このスキルの重要性は以前にも増して高まっている」と述べている。

マインドフルネスの進化系であるトランステックも同様に急激な成長を見せており、その象徴が、ウエアラブル機器「ニューロモデュレーション(神経調節)」だ。

これは、電気刺激を与えて脳の神経活動を調節する装置で、脳波センサーを使って脳の電気活動を測定し、各個人に適したアプローチを生み出すことで、リラックスした状態やマインドフルネスな集中状態を実現。これを活用することにより、重い精神障害を治療したり、利用者にさらに健康効果をもたらしたりすることが期待されている。

また、ストレスや不安などに対処するため、ARやVRの市場も急激に進化を見せており、たとえば米ヒーリアム社は、ウエアラブル機器を使って脳波や心拍数など生体情報を取得。データは同社のプラットフォームに取り込まれ、予防医療のアプローチからAR/VRを使ってストレスや不安、痛みをコントロールし、病気になるのを防ぐ。

世界的に新型コロナウィルスの収束時期が見えず、不安が蔓延している現在、ヘルステックに対する期待は非常に大きい。

新型コロナウイルスは、さまざまな業界に大きな影響を及ぼしているが、とりわけ多大なインパクトを受けているのはヘルスケア業界だ。

あるベンチャーキャピタリストは、今後、ヘルスケア業界が改革を余儀なくされ、新たなイノベーションが生まれると予測している。シリコンバレーでは、コロナウィルスの被害を受けながらも、イノベーションは止まらない。

これまではAIを盾に、多くのスタートアップが新たな産業に挑戦してきたが、今はコロナウィルスを盾にする企業が多く、いわゆる「コロナテック」が盛んだ。

今後もこうした傾向は当分続き、トランステックの成長はますます加速して、予測を上回るほどの勢いで市場規模を拡大していくのは間違いない。

日本でも芽を出し始めるトランステック市場

それでは一体日本におけるトランステックの可能性はどうか、といえば、アメリカに比べてずいぶん市場の成長は遅れているが、その芽は着実に育っている。

2019年6月、モバイルゲーム事業やライブエクスペリエンス事業を展開する株式会社アカツキは、マインドフルネス・瞑想などにテクノロジーを掛け合わせて心の豊かさと成長を実現する分野に注目し、第一弾として、トランステックのスタートアップである株式会社ヒューマンポテンシャルラボに出資した。

また、トランステックと非常に関連が深く、とりわけ脳に焦点を当てたテクノロジーに、「ブレインテック」がある。

このブレインテックは、人間の能力を向上させるだけでなく、アルツハイマー病などの脳疾患の治療につながることも期待されており、三菱総合研究所の試算によれば、日本におけるブレインテックの市場規模は2024年には5兆円規模になるだろうとされている。

現在、理化学研究所が中心となって「Brain /MINDS」の研究プロジェクトを進めるなど、活発な動きが目立ちつつあるが、欧米や中国に比べ、日本では医療のハードルが非常に高く、サービスとして現実化するまでにはまだ相当な時間がかかると見られている。

しかし、日本の高度な技術力を生かし、このままブレインテックが成長すれば、必然的にトランステック市場の成長につながっていき、新規産業などが活発化すると見込まれる。

日本では、全域にわたって緊急事態宣言が解除され、新型コロナウィルスは近々、一旦収束すると見込まれている。だがその一方、今秋には第二波がやってくると見る専門家も多い。

そうしたなかで、心身の健康状態を高め、免疫力を強化し、ウィルスに負けない健康づくりに貢献するトランステックの可能性は非常に大きい。

そう考えると、トランステックは一過性のブームに終わらず、アフターコロナの時代にますます伸びる可能性があることは確実だろう。

文: 鈴木博子