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ムロツヨシのCMでおなじみの、日本のマンガ・小説アプリの中でもトップクラスの利用者を誇る「ピッコマ」。24時間ごとに1話が無料で読め、それより早く読みたければ課金するという「待てば\¥0」モデルを日本で最初に導入したのがピッコマだ(現在は23時間ごとに1話無料に変更)。
マンガアプリ・マンガ系電子書店は、数字を公表しているサービスを見ると2019年には業界平均は前年比で約30%成長だが、カカオジャパンが運営するピッコマは前年比130%成長を達成。成長率では業界ナンバーワンだろう。
このように急成長するカカオジャパンでは、一風変わったHR(人事)施策が行われている。そして自社スタッフに対する考えと、ピッコマのサービスに対する姿勢はつながっている。
知られざるカカオジャパンの社風とは? 金在龍(キム・ジェヨン)代表取締役社長と杉山由紀子ビジネス戦略室室長に訊いた。
役職やさん付けではなくあだ名(イングリッシュネーム)で呼び合う
——「ピッコマ」を毎日使っていてもカカオジャパンがどんな会社かよく知らない方も多いと思います。どんな雰囲気の会社なのでしょうか?
金:特徴的なのはイングリッシュネームを付けてお互い呼び合っていることです。「Sunさん」「Sueさん」ではなく「Sun」「Sue」。私に対してもみんな「金さん」「社長」ではなく「Jay」と呼びます。
組織の中で上下関係が明確になりすぎると、下の人が萎縮して意見や情報が出てこなくなります。逆に上の立場の人間が会議で「どうですか?」と訊いてまわるのは失敗したら「みんなあのとき同意したでしょ?」と言って逃げたい気持ちがあるからです(笑)。
だから弊社ではみんなフラットに意見を出し合います。でも意思決定はフラットではない。責任者が決め、その判断の成果は厳しく見られます。これはカカオジャパンで最初から行われていただけでなく、韓国のカカオ本社もそのような文化を持っています。カカオの創業者も、社員はみんな「Brian」と呼んでいます。
——杉山さんは日本の他の会社から転職されたそうですが……。
杉山:自分のイングリッシュネームをなんと付けるか迷った記憶があります(笑)。慣れてくると相手を年齢や役職で判断しないで「その人自身」を見るようになりました。フランクでありながら、サービスが急成長する中でそれぞれが責任を持って取り組んでいるという感覚があります。
——カカオジャパン従業員の年齢や性別のおおよその構成比は?
杉山:正社員の人数が69名。男女比は45:55、国籍は日本58%、韓国42%。平均年齢は35.3歳です。
金:日本でのビジネス運営に関わる人たちだけで言えば日本人と韓国人の割合は7:3から8:2です。ただなかなかカカオジャパンに優秀な日本人技術者を集めるのが難しく、開発者の9割以上が韓国籍です。
「記憶に残る」社内イベント企画
——2019年に行われた事業発表会「ピッコマものがたり」では従業員みなさんで打ち上げ花火を観ている映像が流れ、非常に印象的でした。ああいう社内イベントはよくあるのでしょうか?
金:年1、2回「記憶に残ること」を計画します。たとえばピッコマが1周年を迎え、成長を見せ始めた頃に、全社員にプレゼントしたものがあります。
私たちのオフィスがあるビルの1階には高級百貨店があります。そこにお願いをして特別に開業時間前にカカオジャパンの人間だけを入れてもらい、それぞれ好きな靴を選んでもらいました。そのお店で取り扱っている靴は一足買うのに5、6万しますから普段はなかなか手を出せません。
でも「1年間がんばって走ってきた。ここからまたいっしょに走ろう」というメッセージを込めてみんなに贈りました。
打ち上げ花火は社員みんなでバーベキューに行ったときのサプライズ企画として用意したものです。なかなか自分たちだけのために花火を打ち上げてもらうことなんてないですよね。
——記憶に残ることを企画するのはなぜですか?
金:自分が感動を経験したことがないと、サービスを提供する人間としてお客さんを感動させるようなことを想像できないと思っているからです。
IT企業なのに「人」を一番の軸に据える理由
——他に特徴的なカカオジャパンのHR関連施策があれば教えてください。
金:ITは人がすべての財産です。製造業と違って在庫も工場もありません。だから「人を大事にする」。これをテーマにすべての制度をつくっています。
たとえばひとつは健康を大事にする。保険で賄われる以外の医療費、スポーツジムへの参加費用は会社が負担します。それから野菜・果物を食べる機会が少ない若い人向けに毎週水曜日はフルーツデイと言って会社でフルーツを用意しています。
杉山:健康以外ですと、毎月1,500コイン分、ピッコマで使えるコインの配布もあります。1年ほど前に始めましたが、最近では新連載が始まると社員同士で「これはいけそうだ」とか「冒頭2話無料だけど、これは4話まで無料にした方がいいんじゃない?」と声が飛び交うようになりました。
金:自分がユーザーとしてサービスの勘所がわからないと、お客さんにも勧められないですよね。だから自分たちでも日常的に使ってみよう、ということです。
ほかにも、英会話をはじめ自己開発するために使うお金は補助しますし、3年間働くと1か月間のリフレッシュ休暇を取得できます。
誤解してほしくないのは、ラクをさせたいからやっているわけではないということです(笑)。会社はビジネスをメインにした人の集まりです。健康だから良い仕事ができるし、きちんと休めて充電期間があるからこそ仕事をがんばれる。そのためのサポートをしています。
ビジネスではどうしても数字の方が先に見えるし、私たちのようなサービスではスマートフォンの画面やプログラムばかり気になってしまう。でも画面の先には必ず人がいます。
私は社内の会議でよく恋愛のことを例に出すんです。相手のことを好きだから興味が湧く。だから行動が気になるし、喜ばせたいという気持ちになる。でも興味がないとマッチングしない。社内の人間に対してもお客さんに対しても「この人は今何を望んでいるのか」という人に対する興味からすべては始まります。
作り手の欲張りは顧客のためにならない
——HR施策の元になっている考えと、マーケティング施策の元になる考えはつながっている?
金:そうです。たとえばUI/UXについていつも話すのは「自分たちの立場ではなく、お客さんの立場でサービスを考える」ということ。
ピッコマはマンガを読む人の中でもライト層をターゲットにしています。マンガのコアファンであれば「今話題の作品が読みたい」「誰々先生の作品が読みたい」と具体的な固有名詞で作品を探します。でもライト層は「おもしろいものがないかな」と思って探します。
だからピッコマではタイトルや作家名よりも先に表紙のイメージを大きく見せています。
他にもピッコマではシンプルに見せるために基本的に上下のスクロールしかありません。サービス側が欲張ると「作品をもっとたくさん見せたいから横スクロールの動きも入れよう」としがちですが、それはやらない。
——たしかにピッコマはアプリを立ち上げると最初に入ってくるのはオススメ9作品。1話読み終わったあとに出てくるレコメンドは3作品。数を絞っています。
金:マーケティングを勉強したとき「人は選択肢が多すぎると『選ぶ』のではなく『選ぶのを諦める』」、つまり選ぶこと自体をやめてしまう、と学びました。
ピッコマのUI/UXはシンプルで、最初は「マンガアプリっぽくない」と言われたんです。2016、7年頃までマンガアプリのデザインはごちゃごちゃしていたんですね。でも気づけばいつのまにかみんなピッコマ側に寄ってきました。
欲張って成功したらいいかもしれないけれども、意外に悪影響があるんですよ。
それは広告に対する考えでも同じです。ピッコマ以外のマンガアプリはほとんど広告を入れています。私たちも入れたら月に数億円のお金になるのは目に見えている。
でもたとえばゲームアプリの動画広告を入れてそちらに人を誘導するのはこのサービスの本質からズレていると思うから、やりません。お客さんには「おもしろいと思うマンガ作品に対してお金を払う」という当然の習慣を付けてもらい、作家さんにお金が入るのがスジだと考えているからです。
たとえ数字が出たとしても、本質からズレた施策は選ばない
——ピッコマ急成長には何か秘訣のようなものがあるのでしょうか?
金:いえ、私は難しいことは会社の内部にも外部にも言っていないし、普通のことしかやっていないんです。私がこの会社に入ってキーワードとして打ち出したのは「勤勉誠実」(笑)。ダサいくらい当たり前のことです。でも今の世の中では「当たり前のこと」を努力して実現するのが難しい。
——というと?
金:自分たちの事業の本質を忘れないようにすることは、まわりを見ていると意外と難しいのだと感じます。ピッコマには広告代理店をはじめ、いろいろな人が新規顧客獲得のための提案を営業しに来ます。
たとえばあるマンガアプリを見ていると、違うマンガアプリを宣伝していることがありますよね。「ああいうことをやりませんか?」と言われたりします。でも私はそれは本質ではない気がするんです。「読者に良い作品を届けて、良い影響を与える」ことがピッコマの本質だと考えているからです。
——なるほど。
金:ほかにも、AppStoreで「ピッコマ」とキーワードを入れてアプリを検索するともちろんピッコマがヒットしますよね。けれども実は一番上の部分は広告枠なんです。
実際やってもらえるとわかりますが、「ピッコマ」と入れると他のマンガアプリが広告枠に出てきます。これは他社が「ピッコマ」という名前の広告枠を買っているからです。
ですから代理店の営業からも会社内部の担当者からも「他社のマンガアプリの名前の枠を買いましょう。CPI(1インストールあたりの広告コスト)がいいですよ。かなりインストールされます」と言われます。でも私はやらない。
なぜかと言うと、あるサービスをつくって名前をお客さんに覚えてもらうことはものすごく大変です。そうやってやっとお客さんが覚えてくれた「ピッコマ」という名前で検索したら違うものが表示される。これはズルだと思うんです。
「無料マンガ」や「マンガアプリ」というようなキーワードに広告を出してピッコマを表示させるのはいい。でも明確に「○○」と特定のアプリ名を入れたものを競合他社が取っていくのはどうなのかと。
こういうことからひとつブレるとだんだん「結果さえ出れば何をしてもいい」という感じになっていきますから、うちはやりません。
杉山:正しいポリシーでやりぬくことは、手間がかかって大変です。ただ自分に言い訳しなくて済む仕事は心地いいんです。
金:まじめに、ズルをしなくても一番成長できたと示せたのは意味があることなんじゃないかと思っています。
「これが早い道だ」と思ってズルを選ぶと、実際は遅い道なんです。最終的には時間がかかる。カンニングと同じです。短期的には結果は出ます。でも中長期的に見たら必ず悪くなる。ズルをしたら、何かの場面でまたズルをしたくなる。
でも人間、ずっとズルでうまくいくわけがないですから。
仕事の上でも少年マンガのようにまっすぐに努力する
——金代表がマンガや小説から影響を受けた点はありますか?
金:私たちが子ども時代に読んでいた少年マンガの主人公たちはみんなバカみたいに真面目でした。野球マンガなら勝つために徹夜で練習したりね(笑)。
私はビジネスもひとつのストーリーだと思っています。マンガビジネスのキャラクターとして悪党になるストーリーもあるかもしれないけれども、それよりは感動があって、見ている人が勇気をもらえるストーリーができたらいい。
カカオジャパンのメンバーたちと日々考えながら成長をして、感動するストーリーを作っていきたい。
——ピッコマでは冒頭の何話まで無料にするか、どのタイミングでチケットを配るかといったことを一作品ごとに担当者が読み込んで施策を決定しているとうかがっています。作品に愛がないとできないことに思えますが、マンガや小説が好きな方が多いですか?
杉山:近い業界から来ている人間が多いこともあり、そういう傾向はあると思います。でもまったく違う業界から来た人間もいます。
金:私は個人の趣味と仕事は別だと思っているんですよ。ただ、仕事としてやるからには、自分たちもある程度以上好きにならないとお客さんにもオススメできません。
もちろん自分の好みと合致して自然と作品にハマってしまう場合もあります。でも個人的な趣味と違っていても、担当する以上は興味と愛情を持つ。そうすれば仕事は楽しくなります。
嫌いなものをやっても楽しくなりませんし、読む人の気持ちはわかりません。ピッコマに関わっているのに「マンガは嫌い。何の興味もない」という人がいたら、それは個人的な好みと仕事の上ですべき努力を履き違えていると思います。
次の「マンガ好き」を育てていきたい
——カカオジャパンの今後の展望について教えてください。
金:ピッコマはいわゆるマンガ好きよりもライト層にフォーカスしてきましたが、今後はさらにマンガ読者を育てることで業界に貢献していきたいと思っています。
ピッコマユーザーにユーザー調査すると必ずしも利用動機が「マンガが読みたいから」でない人もいます。YouTubeを観る、ゲームをする、インスタを見る……といった選択肢のひとつにマンガがある。「ちょっとした時間にスマートフォンで楽しくなるもの」を求めている人たちです。
そういうものを私たちは「スナックカルチャーコンテンツ」と呼んでいます。
今後は若い人の中でさらにこれを求めるユーザー層が増える気がしています。そしてここからマンガファンを作っていきたい。今の世の中では即戦力を求めがちですが、マンガアプリも同じです。
もうすでにマンガに慣れ親しんだ「マンガ好き」を狙った方がすぐお金になりますから、そういうサービスの方が多いのです。でも私たちは時間をかけてでも新規層を育てたい。
ピッコマが始めた「待てば\¥0」(23時間ごとに1話が無料で読め、それより早く読みたければ課金するモデル)はマンガを読む習慣をつくるためのものです。
ピッコマで配信している作品の中にはオールカラータテ読みのWEBTOONもありますが、WEBTOONは日本の横描きマンガに比べて「軽い」と言われることもあります。
でもたとえば村上春樹さんの小説がいくら名作だとしても、本をまったく読んだことがない人がいきなり読むのは難しいですよね。もっと入りやすいものから「どうですか?」と薦めてあげたほうがいい。WEBTOONはマンガを読み慣れていない人が入りやすいものなのです。
出版社の方とお話すると「マンガ市場がデジタル中心に変わっていくと思っていたけれども、思った以上に急激に変化するのでは」という声が2019年から目立つようになりました。ピッコマは今言ったようなスタンスで、マンガ業界の次の読者を育てる役割を担っていきたいと思っています。
取材・文・写真:飯田一史