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自分の職場でもし、「弊社で錦織圭さんを採用した。明日からあなたの部下になるから彼に仕事をまかせて」と上司から告げられたとしたらどうだろうか。
日本の人気スポーツ選手の引退は晴れやかだ。最近では卓球の福原愛、レスリングの吉田沙保里、相撲界では横綱稀勢の里の引退が記憶に新しい。いずれも記者会見はテレビ中継され、繰り返しワイドショーで取り上げられ、連日のように新聞の紙面を飾り、人々の関心の高さがうかがわれる。すがすがしく引退していく彼らの姿に将来の不安など微塵も感じられない。しかし明日から彼らはどうやって生きていくのだろうか。
短い現役生活
こどもの頃、スポーツが得意な男子同級生たちの夢はプロ野球選手やサッカー選手と決まっていた。いまでこそ小学生に人気の職業第一位はユーチューバーのようだが、プロのスポーツ選手への憧れは世界共通。日本でも子供をアイススケート教室やテニススクール、水泳教室に幼少期から通わせて、輝かしい将来の可能性を夢見る親も少なくない。
一流のアスリートになるためには、本人の才能と血のにじむような努力はもちろんのこと、家族の協力やそれなりの財力、少々の犠牲も必要だ。時には学業よりもスポーツを優先したり、より充実したトレーニング環境のための転居もいとわない。すべてはプロスポーツ選手になるためだ。
しかしスポーツ選手の選手生命は一般的なサラリーマン生命と比べると圧倒的に短い。肉体的にも精神的にも極度な集中を要求され、一般人の数倍ものエネルギーを使い果たしているから当然のことかもしれない。だがプロスポーツ選手は、定年退職するサラリーマンの半分以下の30歳前後が平均的な現役引退年齢という統計がある。メジャーリーグで活躍するイチローやサッカーの三浦知良、スキージャンプの葛西紀明といった平均年齢を超越した現役アスリートもいるが、ごくまれなケース。20代で引退する選手は少なくない。
それでも有名スポーツ選手は引退後、解説者としてテレビ番組やイベントに出演したり、タレントになり、表舞台での活躍を続けている印象が強い。有名人の人生はどこまでも華やかだ、と思われがちだが現実はそれほど甘くない。引退後も同じ競技に携わり、華やかな舞台で活躍し続けられるのは、ほんの一握りだ。
アスリートは2度死ぬ?
© 2010–2019, The Conversation Media Group Ltd
アメリカではプロスポーツ選手の平均的な引退年齢が33歳である一方、肉体的要求が高いアメリカンフットボールに限ると、28歳が平均とされているほど厳しい現実が待ち受けている。スター選手の現役時代の年俸は数億円から数十億円規模であるにもかかわらず、78%のフットボール選手が引退後2年以内に自己破産、離婚、無職を経験するとされている。華やかな舞台で脚光を浴び、人々から崇められていた人生からある日突然離れる。アスリートとしての人生が終わり、一度死んだも同然だ。
彼らはそれまでの練習や競技漬けだった人生から一転、違う人生を始めなければならない上に、同じペースで生活を続けるだけであっという間に破産する。キャリアも名声も収入も失い、それまでの生活さえも送れない、アイデンティティの喪失たるや相当なもの。精神的ダメージは、専門のセラピストでなければ解決できないほど深刻だ。すべてをスポーツに注ぎ込んでいたエネルギーの発散や、高揚感を求めてアルコールやドラッグ、ギャンブルに依存してしまう人も多い。
だが一方で、引退後もビジネスマンとして大成功を収めるアスリートも少なくない。自らのブランドを展開し、大成功しているアーノルド・パーマーやマイケル・ジョーダン、スポーツ教室を立ち上げてコーチになる人、投資家として財産を運用し成功する人もいれば、俳優に転身する人も。アクションスターのジェイソン・ステイサムが、かつてイギリスのプロ飛び込み選手であったことを知らない人も多いだろう。引退後、新しいキャリアを見出し成功している人たちもたくさんいる。では、成功と転落の分け目はどこにあるのか。
注目が集まるセカンドキャリアのサポート制度
イギリスのビジネススクールは積極的にスポーツ選手のセカンドキャリアを支援する © 2019 VSI.
そこで今注目を浴びているのが、アスリートのための引退後のキャリアサポートだ。現役引退後に何が出来るのか、キャリアの移行期間をどう過ごすべきかをサポートする、無償または有償の教育啓蒙活動は欧米ではすでに始まっている。
カナダでは「ポスト・オリンピック・エクセレンスシリーズ(オリンピック後のキャリアサポート)」を国のオリンピック委員会が運営。オリンピックに向けての強化だけでなく、オリンピック終了後のサポートを提供している。オリンピック参加出場選手は参加無料のセミナーで、競技終了後(引退後)の移行期間の心構えや過ごし方、次のキャリアへの道のりなどを経験者を交えてレクチャーする。
オーストラリアでは人気の高いラグビー、フットボール、クリケットのプロ選手を対象にサポートする団体があり、イギリスでは各ビジネススクールが「ライフ・アフター・スポーツ(スポーツの後の人生)」と題した課程展開しているし、競技連盟でのサポートも充実している。しかし残念ながら、日本ではまだこの動きが活発ではない。各スポーツ連盟にとって、現役選手の育成や競技に勝つことが優先事項なのだから仕方ない。
プロフェッショナルプレーヤー連盟の調査によれば、94%が過去の栄光に満足し、誇らしく思っている一方で、自ら引退を決めた人は29%。ケガや戦力外通告などによってやむなく引退したアスリートが圧倒的に多い。また78%が「現役時代にお金に関するアドバイスを受けておくべきだった」と後悔を示している。
ただ明るい兆しはある。64%の人たちが連盟からのサポートを受けており、秘匿カウンセリングや24時間のホットライン、教育や職業訓練などの第二の人生に役立つトレーニングシステムを活用していることだ。
成功のカギは現役時代からの意識と、連盟のサポート
25歳のアーセナルの女子選手はケガで療養中にビジネスとしてのスポーツを学ぶMBAコースを受講。© 2019 VSI.
現役プロスポーツ選手は、毎日のトレーニングや競技準備でスケジュールはいっぱいだ。正直なところ、引退後の生活や将来の人生設計に割く時間はほとんどないだろう。しかしながら若い頃にめざましく開花したキャリアの終わりは、ある日突然何の前触れもなくやって来る。昼夜を問わず周囲にいた取り巻きも、世話を焼いてくれたマネジメントのスタッフも現役生活の終わりと共に離れていく。
その時に支えとなるのが、家族でありサポート制度であると同時に、自身の意識持ち方に拠るところが大きい。欧米ではオフシーズンやけがの療養中は絶好の機会と、コミュニティカレッジやビジネススクールに通うのだ。これはリハビリやトレーニングメニューさえこなせば、選手に自由行動の権利があるから。ケガやシーズンオフで競技から離れた時こそ、自分の将来と向き合う最良の機会でもあり、引退後を見据えたスポーツ科学や経営学などといった知識を習得するチャンスと考えているからだ。
アスリートのポテンシャル
少々乱暴な言い方ではあるが、では、運動だけをしてきたアスリートに何ができるのか。実はたくさんある。
プロ選手の試合後のインタビューを見てもわかるのが、スピーチ能力。試合後に堂々と質問に答えるその姿に迷いはない。競技中に必要な即断力があり、頭の回転も速い。チームワークに長けていることは言うまでもなく、ストレスや時間、健康の管理も得意、目標設定も明確だ。期待に応えるための努力を惜しまず、プレッシャーに負けない強い精神力もある。新入社員だとしたら、またとない人材ではないだろうか。ただ、こうした事実にアスリート自身と、世間一般が気づいていないだけなのだ、と前述カナダのオリンピック委員会が指摘している。
言われてみれば、日本の企業も人材採用の際、体育会出身者やスポーツに打ち込んできた学生を好ましく思っている。ただ、彼らを積極的に支援する仕組みや採用する手段がないだけなのかもしれない。
文武両道、新世代アスリートをどう活用するか
文武両道が叫ばれる今日この頃、スポーツ選手は運動しかできない、という概念はもはや古いのかもしれない。世界で活躍する錦織圭選手は堂々と英語のインタビューに答えられるし、外国人選手やコーチと談笑もしている。もちろん日本語でのインタビューの受け答えも立派だ。並外れた身体能力だけでなく、語学力と国際感覚、高度なコミュニケーション能力があると容易にうかがえる。
海外の取引先との交渉も、会社の記者会見も、社内のプレゼンテーション能力にも大活躍してくれること間違いない彼には、多くの仕事をまかせられるのではないだろうか。
文:伊勢本ゆかり
編集:岡徳之(Livit)
eye catch img:イギリスオープンユニバーシティのホームページ