テクノロジーの発展でさまざまなものがパーソナライズされる時代になった。最近では遺伝子レベルで個人に合った治療を可能にする「プレシジョン・メディシン」の議論が世界中で活発化している。
プレシジョン・メディシンとは、いったいどのような医療なのか、最新の事例を紹介しつつ、今後の可能性と課題をお伝えしたい。
がん治療で期待高まる「プレシジョン・メディシン」
精密医療と訳される「プレシジョン・メディシン」という言葉が広く一般に知られるようになったのは、2015年に米オバマ大統領が一般教書演説のなかで、「プレシジョン・メディシン・イニシアチブ」に2億1500万ドル(約230億円)を投じると述べたことがきっかけになったようだ。
このイニシアチブでは、数百万人規模の医療データとゲノミクスなどの先端科学を活用し、遺伝情報から個人に合った治療法を確立しようというものだ。米国立衛生研究所が予算のうち1億3,000万ドルでデータベースを構築し、同研究所傘下の国立がん研究所が7,000万ドルで、遺伝子とがんの関係を分析、その知見をもとにより効果的な治療方法の開発を担ったという。
これまでの医療は「平均の人」を対象にデザインされたもので、特定の人には効果がある治療でも、別の人には効果が弱いといった問題があった。このイニシアチブは、遺伝子データを活用することで、個人の特性に合った治療を開発しようとしているのだ。
プレシジョン・メディシンに関する研究は広く実施されており、その効果は実証されつつある。
たとえば、米テキサス州立大学MDアンダーソンがんセンターの研究によると、遺伝プロファイルの基づいた治療を受けたがん患者は、そうではない患者に比べ生存率が高くなることが明らかになっている。
同研究を率いたチムベリードゥ教授がガーディアン紙に語ったところによると、このがんセンターでは、2011年に脳腫瘍の一種である膠芽腫(こうがしゅ)と診断された患者が今も生きているという。膠芽腫は神経腫瘍のなかでももっとも悪性が強く、1年生存率は51%、3年生存率は13%、5年生存率は8%といわれているが、この患者はプレシジョン・メディシンに基づく治療を受けたため、生存期間が大幅に伸びたという。
このほか、乳がんの治療でもプレシジョン・メディシンが注目されている。
米シカゴで行われたアメリカ臨床腫瘍学会で発表された研究では、通常乳がんの治療では化学療法が用いられるが、プレシジョン・メディシンのアプローチでは、多くの場合化学療法を避けることが可能であると分かったというのだ。
研究者らによると、米国では毎年12万3,000人、英国では2万3,000人の女性が特定の早期乳がんと診断されているが、プレシジョン・メディシンのアプローチを用いると、化学療法が必要な女性の割合は3分の1以下に減らせる可能性があるという。この研究では、遺伝子プロファイルを調べたところ、化学療法が効きやすい人とそうでない人がいることが明らかになったというのだ。さまざまな副作用をともなう化学療法を避け、患者の心身への負担を減らせるとして注目を集めている。
英国がん研究所によると、世界中で1年間にがんを発症する人の数は1410万人に上るという。また、2030年までにはこの数が2360万人に増えると予想している。こうした背景もあり、がん治療においてプレシジョン・メディシンに寄せられる期待は非常に大きなものになっている。
プレシジョン・メディシンの可能性と課題
プレシジョン・メディシンに関わる数字も確認しておきたい。
BISリサーチによると、プレシジョン・メディシンのグローバル市場規模は2016年に435億9,000万ドル(約4兆8,000億円)だったが、2026年には1,417億ドル(約15兆5,000億円)に拡大する見通しだ。がんだけでなく、慢性病の拡大などが手伝ってプレシジョン・メディシン市場は年率11%以上で拡大していくという。
また、いくつかの製薬会社は過去5年間でプレシジョン・メディシン分野の投資を2倍増加させ、今後5年間でさらに33%追加投資する見込みだ。
ちなみに世界保健機関(WHO)によれば、世界の医療費は2013年に8兆ドル(約880兆円)だったが、2040年には18兆ドル(約2,000兆円)に膨らむ見通しとなっている。
これらはプレシジョン・メディシンが普及拡大していくことを示す数字だが、普及拡大には解決しなくてはならない課題がいくつかある。
1つは、増え続ける医療データに関する問題だ。
インテルの人工知能研究者ヘマ・チャムラジ氏によると、2020年までに医療データは現在比で43%増加し、その量は2.3ゼタバイトに達するという。データ量だけでなく、それらが非構造データで、ほとんどがラベリングされていないことも大きな問題と指摘する。
また、プレシジョン・メディシンに関わる専門家不足や標的治療のための新薬開発にともなう多大なコストなども普及を拒む障壁になり得るという。
こうした問題のいくつかは、人工知能を活用することで解決できると指摘する。
たとえば、専門家不足の問題だ。患者の重要なデータを取得することができるCTスキャン。英国では、そのCTスキャンのデータ量が2013〜2016年まで33%増加した。一方、CTスキャンの画像を診断する放射線科医の数は年率3%でしか増えていないという。
CTスキャン画像
世界的に見ても放射線科医は不足しているといわれている。中国も例外ではない。14億人近い人口がいる一方で、放射線科医は8万人しかいないという。
チャムラジ氏によると、中国の複数の医療機関にCTスキャン画像から診断を行う人工知能を導入したところ、診断速度に加え、診断精度で改善が見られたという。精度に関しては、人間による診断で75%だった一方で、人工知能は85%に達した。
このほか人工知能の導入によって、創薬プロセスにおけるデータ分析の高速化や遺伝データ解析による疾病リスク予測などが可能となり、プレシジョン・メディシンがさらに発展していくためには必要不可欠な存在として認識され始めている。
人工知能の活用で医療がどこまで「精密」になっていくのか、プレシジョン・メディシンの今後の進化に注目していきたい。
文:細谷元(Livit)