フィギュアスケート・羽生結弦の連覇、スピードスケート・小平奈緒のオリンピックレコード、女子カーリング・オリンピック初となるメダル獲得ーー。冬季オリンピック史上最多記録を更新する15個のメダル獲得に、日本中が沸いた。日の丸を背負って戦うアスリートの姿に、涙を流した人も少なくないだろう。

東京オリンピックを2年後に控え、期待はますます高まる。オリンピック競技に復活した野球、日本のお家芸である柔道など、スポットライトを浴びるメジャースポーツのファンたちは、自国で金メダルを獲得する瞬間を今か今かと待ちわびている。

そんな中、マイナースポーツである「トライアスロン」での金メダル獲得に闘志を燃やす一人の男がいる。浦和実業高校3年次に全国高校総体1,500メートルで5位入賞、青山学院大学4年次は箱根駅伝で花の2区を走るなど、かつて“駅伝界のスター”として注目を集めた大谷遼太郎氏だ。

大谷氏は2016年に実業団のトヨタ紡績陸上部を辞め、陸上からトライアスロンへと競技転向。現在は日本トライアスロン連合(JTU)が組成したオフィシャルチームに期待の大型新人として参加し、海外遠征を含めたトレーニングに励む。自らスポンサーを探す苦悩の一年を乗り越え、オリンピック出場を目指している。

幼い頃から彼の夢は「ヒーローになること」であり、「オリンピックに出ることこそが、その証明」だという。陸上競技でエリート街道を歩んできた大谷は、なぜ結果が確約されない世界に飛び込んでまで夢を諦めないのか。

スターダムを駆け上がった光と、周囲から揶揄され苦しんだ影、練習環境さえままならない“逆境の一年”を乗り越えた不屈の精神を追う。

大谷 遼太郎
幼少期は水泳を習い、小学校5年生のときに50m自由形でジュニアオリンピックに出場。中学校ではバスケ部に所属し、高校から陸上競技を始める。高3時には1,500メートルでインターハイ5位。 高校卒業後は青山学院大学に進み、4年時は出雲駅伝4区 区間優勝。箱根駅伝では花の2区を走り、区間5位で7人抜きする。 大学卒業後はトヨタ紡織に進み、3年連続ニューイヤー駅伝へ出走。 そのあと、トライアスロンに競技を転向。2020年の東京オリンピックでのメダル獲得を目指し、現在競技活動中。

名将・原晋監督の一言に導かれ、青山学院大学へ

大谷氏が持つスポーツの類いまれなる才能は、幼少期から折り紙つきだった。「習い事の一環」として始めた水泳では、自由形で全国大会に出場。中学時には、“助っ人として”出場した駅伝大会で、強豪校からスポーツ推薦を獲得するほどの結果を残した。

しかしながら、当の本人はその才能に気づいていなかったようだ。その証拠に、「バスケットボールが好きだったので、バスケットボールを続けるのか、得意な陸上を選ぶのか迷っていた」と笑ってみせる。

大谷「幼い頃から“自分が自分らしくいれること”にこだわりを持っていました。なので、本当はバスケットボールを続けたいと思っていたんです。ただ、どれだけ頑張っても結果が出ない。最終的には、親の勧めもあって陸上を選ぶことにしました」

浦和実業高校に入学後、本格的に陸上を始めると、その才能は一気に開花する。3年後には全国高校総体に出場し、1,500メートルで5位入賞を果たした。

大谷「チーム競技のバスケットボールとは違い、個人競技の陸上は個人の努力次第で結果がついてきます。練習した分だけタイムを縮められることが面白くて、『努力は報われる』を信条に練習に励んでいました」

青山学院大学に進学したのは、後に同大学を箱根駅伝4連覇に導くことになる名将・原晋監督の一言がきっかけとなった。「お前がリーダーになってくれ。お前が来るなら、青学に有力選手が集まってくる」。当時はまだ箱根駅伝で優勝経験のなかった青山学院を自らの手で常勝校に導こうと、入学を決めた。

大谷「バスケットボールで芽が出なかった経験から、“求められることをすること”が、夢を叶えるための最善手だと教わりました。僕の夢はヒーローになることであり、当時は、陸上競技でオリンピックに出場することがその証明だと思っていたんです」

花の2区を任されたエースの、栄光と挫折

青山学院時代にしのぎを削ったライバル、出岐雄大選手(左)との一枚。写真は全日本大学駅伝の予選会。

高校時代の輝きそのままに、大谷氏は大学駅伝でもスターの座を勝ち取った。学生として、一流ランナーの証である5,000メートル13分台、1万メートル28分台の自己記録をマーク。4年時の箱根駅伝では、“花の2区”で区間5位と快走した。

しかしこのとき、大谷氏が「過去に感じたことのない挫折を味わっていた」ことを知る者はいなかった。

大谷「大学駅伝からは、“努力と行動が伴えば才能は超えられる”ことを学びました。事実、ラストイヤーの箱根路では、エース区間の2区を任せていただいています。ただ同時に、努力の限界も感じていたのです。

内心は認めたくないと思っていたものの、同期の出岐雄大にどうしても追いつくことができなかった。箱根で2区を走ったのも、彼が怪我をしていたからなんです。しかし、『陸上でオリンピックに出場する』と周囲に宣言していたため、もう後には引けなくなっていました」

実業団に進み陸上を続けるも、打ちのめされた自信を取り戻すことができず、目標を見失ってしまったという。

自分を信じることもままならなくなり、「努力は報われる」を信条に掲げていたにもかかわらず、結果が出ない不甲斐なさを他人のせいにするようにもなっていた。

大谷「出岐の走りや外国人選手の圧倒的なスピードを目の当たりにし、自分のモチベーションをどこに持っていけばいいのか分からなくなったんです。仲間や監督といった外部要因ばかりに目がいくようになり、自分のことを信じきれてなってしまいました」

バッシングと戦い、トライアスロンで再起をかける

現在に至るまで、何度も苦しいことはあった。それでも、そうした苦い経験をあまり覚えてはいないのだという。何事もポジティブに捉えることに努め、あとから振り返れば「大したことではなかった」と常に考えているそうだ。

陸上で味わった挫折を乗り越え、大谷氏はトライアスロンへの競技転向を決意する。そもそも、オリンピックを目指していた理由は「ヒーローになりたい」という幼い頃の夢に由来している。陸上はあくまで、その手段にすぎない。

水泳で全国大会に出場したバックグラウンド、そして自身のストロングポイントである陸上を掛け合わせれば、4年後に迫った東京オリンピックに間に合うのではないかと考えたのだ。

しかし、競技転向に際してバッシングを受けることも少なくなかったという。

大谷「『スポンサーを探しながら、一人で練習する。そして、オリンピックを目指す』と宣言すると、『お前は甘い』、『結果を出す前から、夢を語るな』と周囲の大人たちから辛辣な言葉をかけられました」

エース街道を走ってきた大谷氏への期待があったからとはいえ、再起を図る若者にかける言葉ではない。

大谷「たしかに、陸上で何一つ結果を出す前に競技転向するなんて『みっともない』と思ったこともあります。僕自身、今まで『陸上でオリンピックに出る』という夢を語っていたので、競技を変えることは『自分に嘘をつくことになるのではないか?』と悩みました。

ただ、僕の夢は変わらず『オリンピックに出ること』なんです。陸上でその夢を叶えられないと気づきながら、だらだらとそこに居続けることの方が、かっこ悪い。結果として、陸上というフィールドには求められていないので、自分が戦うべき場所で結果を残そうと決めました」

結果はすぐに表れた。競技転向してから3カ月足らずで日本トライアスロン連合(JTU)の認定記録会に参加し、参考記録ながら歴代3位の好記録をマークしたのである。強化指定の資格を取得し、関係者の度肝を抜いた。

しかし、その先に待ち受けていたのは前途多難な道のりだった。企業に属さず個人でオリンピックを目指していたため、資金源は実業団時代の貯金しかない。また、練習環境もままならず、スポンサーを探して駆け回る日々が続いた。

大谷「友達や親にお金を借りるなど、先の見えない環境で苦しみました。まともに練習することすらできず、成績もみるみる落ちていきましたね。周囲の大人には『この先どうするの?』不安を煽られ、家族にも『もうやめてほしい』とも言われました。ただ、もう外部環境を言い訳にしたくなかったんです。

自分で決めたことだから、結果を出して、周りを見返す。“ビックマウス”と揶揄されたこともありますが、そうした人たちはバッターボックスにさえ立っていないんです。観客席から、野次を飛ばすだけ。『今度こそ自分を信じ抜こう』と覚悟して、辛い時期を乗り越えました」

大谷氏の覚悟と、熱い想いはゆっくりと周囲を動かし始める。大谷氏と同じように、過去にチャレンジした経験を持つ人たちがスポンサーを名乗り出たのだ。

日本トライアスロン連合が元オリンピック金メダリストであるパトリック・ケリー氏を招請し、ナショナルチームを結成。実業団、個人を問わず精鋭を集め、2020年のメダル獲得を目指す。

日本トライアスロン連合が招請したパトリック・ケリー氏にポテンシャルを買われ、現在はナショナルチームの練習にも参加している。

人生は「選択と集中」。アスリートの“枠”を飛び出す大谷氏のキャリア論

大谷氏は、自身の競技スタイルを「ビジネス」だとも語る。企業からの給料をもらうのではなく、個人事業主としてスポンサーを募るスタイルが大谷流だ。「東京オリンピック出場」を目標に掲げながらも、競技のことだけを常に考えているわけではない。

2020年以降の人生設計が、常に頭の片隅にあるそうだ。

大谷「そもそも、『多様な考え方があっていい』という考え方が根本になります。かつては陸上に固執していましたが、競技転向したことで『人生には、十人十色の正解がある』と知りました。

だから『アスリートはこうでなければいけない』ということはないと思っています。僕はアスリートですが、引退後を見据えてビジネスもしたい。ただ、アスリート一本に絞って競技に打ち込むのも素晴らしい。オリンピックを目指す理由も、目指し方も、さまざまあっていいと思うんです」

その上で、大谷氏は「選択と集中」の重要性も掲げる。喫緊の目標は「東京オリンピック市場」であるため、多くの時間は練習に割いているそうだ。とはいえ、東京オリンピック以降を見据えてビジネスプランを構想することもあるという。

「アスリートはこうあるべきだ」という画一的な思考に捉われることなく、バランスを意識する。その柔軟な思考こそが、大谷氏の強さだ。

大谷「実業団を辞めたときの苦労から、究極的にいえば、『自分を助けられるのは、自分だけ』だと思っています。もちろん多くの人の支えがあって競技を続けられているのですが、お金も練習環境もない期間を過ごし、自分のビジネスを持っていないことの怖さを知りました。

アスリートは、『結果が出なければ終わり』の厳しい世界です。競技をやりながらでも、並行して事業を持っていなければ、一人になってしまったときに苦労してしまう。なので、常にアンテナを張っているんです。すると、考え方が変わってきます。たとえば今取材を受けている最中も、『カメラマンもかっこいいな』なんて思っていますよ」

インタビューの最後に、東京オリンピックの目標を尋ねると、「金メダルを獲ることです」と力強く答えてくれた。競技転向から、わずか2年。大谷氏を突き動かすモチベーション、そして自信の源泉はどこにあるのだろうか。

大谷「『口に出す』ことは責任をともないます。もちろん結果が出なければ、バッシングもある。ただ、結果を出した後に『勝因はここにあります』と語ることは、誰でもできます。あくまで僕の価値観ですが、達成する前から夢を語り、本当に成し遂げてしまう人が本物のヒーローなんです。

僕は学生時代から、ずっと夢を語り続けてきました。もちろんその全てを達成してきたわけではありませんが、口に出したことで、自分自身が変わっていく様を肌で感じてきました。だからこそ、そのポリシーは曲げません。東京オリンピックで金メダルを獲り、人々に勇気や希望を与えられるヒーローになります」

敵と戦う時間は長くない。ただ、自分との長い戦いに勝たなければ、敵には勝てない。強気な発言の裏には、“逆境の一年”を乗り越えた自信と、自らを奮い立たせるメッセージが込められているのだろう。

“ビッグマウス”の大谷氏が持つ「オリンピック金メダル」の夢が、現実味を帯びてきた。