次のフロンティア「海洋経済」の拡大と海洋人材需要
多くの人にとって新卒や転職でのキャリアを考えるとき「海」に関連した職種を選択肢に入れることはあまりないかもしれない。海の職種といわれて「漁師」や「航海士」が思い浮かぶが、都会に住む人々にとっては「特殊な職業」に映り、選択肢には入ることは少ないといえる。
しかし、この状況は今後10年ほどで大きく変わる可能性がある。
世界各国は今、「海」を次の経済フロンティアと定め、海洋経済の拡大に向けさまざまな取り組みと投資に本腰を入れ始めているのだ。
OECDは2016年4月に海洋経済の可能性を示したレポート「The Ocean Economy in 2030」を発表。同レポートは「海は次の経済フロンティアである」と明言。
その経済規模は2010年時点で1.5兆ドル(約165兆円)に上り、フルタイムベースで見ると世界中で約3,100万人が雇用されているという。また海洋経済は毎年急速に拡大しており、2030年には2倍増の3兆ドル(約330兆円)に達すると推計している。
しかし一方で、海面の上昇、海水温の上昇、酸化、生態系破壊など海の健康状態は悪化の一途をたどっており、これらが制約条件となり想定する経済的恩恵は見込めない可能性があることも指摘。海洋経済から恩恵を受けるには、海の健康状態を改善することが必須条件だと強調している。
各国では海洋経済を拡大する取り組みが進行中だ。
カナダでは「海洋スーパークラスター」という国家プロジェクトが立ち上げられた。目標は、同国海洋経済の規模を現在の200億ドル(約2兆2,000億円)から2050年までに300億ドル以上に拡大させること。また海洋テクノロジーやAIなどを活用し、技術・知識ベースの海洋経済構築を目指すという。
民間レベルでも海への取り組みが活発化。イノベーションコンペで知られるXPRIZE財団は、水中ドローンを活用し海底の精密3次元地図を作成する総額700万ドルのコンペ「Shell Ocean Discovery」を実施。
技術提案書審査から、2ラウンドに渡る実際の海底探査の計3ラウンドで競われた同コンペ。2015年に開始され、2019年6月に勝者が発表された。
1位だったのは米国拠点の国際チーム「GEBCO-NF Alumni」。2位には日本のTeam Kuroshioが選ばれた。
Team Kuroshioは東京大学、九州工業大学、KDDI、ヤマハなど8機関からなる産学共同チームだ。1位のGEBCO-NF Alumniはイスラエルやロシアの研究者が多い国際チームだが、その中に日本人が1人だけ含まれている。
海洋投資に関して、世界銀行とモルガン・スタンレーは海洋プラごみ問題解決を目的とした債券「ブルーボンド」を1,000万ドル分販売。また米国の環境団体Nature Conservancyも海洋保全のための資金16億ドル(約1,760億円)をブルーボンド発行で調達する計画を発表した。
英国「アッテンボロー・エフェクト」で大学の海洋生物学が人気急騰
海洋への関心の高まりは、大学の人気学部の変化にも見て取ることができる。
以前お伝えした「アッテンボロー・エフェクト」。英BBCの海洋ドキュメンタリー番組「Blue Planet 2」のプレゼンターを務めたデビッド・アッテンボロー氏の名を冠する社会現象だ。
同番組で海洋プラごみ問題の深刻さを広く世に知らしめ、プラスチック消費を削減させるなど消費者の生活パターンを大きく変えた現象である。
Blue Planet 2は2017年に放送され、同年英国で最も視聴されたテレビ番組になったほか、中国では1億人近い視聴者がストリーミングで視聴したという驚異の番組だ。その影響はプラスチック消費の削減にとどまるものではなかった。
英国ではこの番組がきっかけとなり大学の「海洋生物学部」の人気が急騰しているというのだ。英ガーディアン紙によると、海に面した南部のサウサンプトン大学やプリマス大学でその傾向が顕著だという。
海洋生物学を専攻した学生は、研究者になるほか海洋に関わる政府機関や環境コンサルティング会社といったキャリアがあるようだ。
サウサンプトン大学・海洋生物学部のページ
現在こうした職種の数は限定的かもしれないが、海洋経済に関わる取り組みと投資が増えていることを鑑みると、今後海洋生物学を専攻した人材の需要が高まってくることも考えられる。
たとえば、サンゴ礁による護岸。カリフォルニア大学サンタクルーズ校の海洋学者マイケル・ベッグ教授のまとめによると、米国におけるサンゴ礁の護岸効果は年間18億ドル(約1,980億円)に上る。
自然の防波堤であるサンゴ礁によって浸水・洪水のリスクは下がり、沿岸のインフラや建物は年間8億ドル分の損害を回避、また他の生活被害10億ドル分の損害も免れているというのだ。
防波の役割を担うサンゴ礁
コンクリート製の防波堤はサンゴ礁を含んだ生態系を破壊してしまい、沿岸の脆弱性は高まってしまう可能性がある。ベッグ教授と同僚研究者らの試算によると、もしサンゴ礁がなかった場合、ハリケーンや台風などにともなう浸水・洪水被害の額は2倍近く跳ね上がるとのことだ。
しかしOECDがレポートで指摘するように海の健康状態は悪化する一方。サンゴ礁や周辺の生態系はその影響を受け死滅するケースが増えている。
米国で近年大きな被害をもたらした大型ハリケーン「Harvey」「Maria」「Irma」。これら3つのハリケーンからの復旧で累計1,000億ドル(約11兆円)以上が費やされたといわれている。ベッグ教授は、この一部をサンゴ礁の回復に充てる方が賢明なお金の使い方ではないかと指摘している。
多様化する海洋関連キャリア
海洋を含め環境保全関連キャリアへの関心は高まる一途だ。
ナショナル・ジオグラフィック誌は2020年1月の記事で、環境分野で需要高まる11の職種を紹介。「水質管理技術者」「自然科学者」「波力発電関連職」「(海洋)風力発電関連職」など海・水に関連するものが4つ含まれている。
自然科学者に関しては、オーストラリアのグレートバリアリーフで海の酸化度合いを調べる研究者を引き合いに出し、世界各国が持続可能な都市や経済を目指す上で、それが実際に持続可能なのかどうかをモニターし分析することが必要であり、自然科学者はその役割を担う人材として需要が高まっているという。
オーストラリア・グレートバリアリーフ
日本でも海に関するキャリアは広がりを見せるかもしれない。
神戸大学は2021年4月に既存の海事科学部を改組し「海洋政策科学部(仮称)」を新設する計画だ。これまで海洋エンジニアや船員の育成に重点を置いてきたが、海上風力発電や海底探査など海洋経済の拡大とともに需要が伸びると見込まれる新しい分野の人材育成を目指すという。
人類はこれまで地上での経済活動に注目するあまり、海への関心が薄く、その重要性や健康状態に目を向けることはなかった。
しかし、ここにきてようやく海への関心が高まりを見せ、経済・社会は海を前提としたものに変わろうとしている。英語で社会的な大変革を「sea change」と呼ぶことがあるが、今まさにそれが起こりつつあるのではないだろうか。
[文] 細谷元(Livit)