「イノベーション・ディストリクト(地区)」をご存知だろうか。
都市の中でイノベーションを生み出すために設計されたエリアのことで、大学や研究機関、スタートアップ、大企業、行政、投資家など、異なる立場の人々や組織がひとつの地域に集まり、日常的に行き交いながら新しい技術やサービスを生み出している。

その一例がロンドンの「ナレッジ・クォーター(Knowledge Quarter)」。映画『ハリー・ポッター』の舞台になったキングスクロス駅付近に広がるこの地区は、ライフサイエンス、データサイエンスなどの分野で世界的にも有名で、GoogleやFacebook(Meta)のヨーロッパ本部、スタートアップが集まる。

その傍らには、大英博物館や大英図書館、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)、研究施設が集まる。世界トップクラスの技術革新の場と、学びを深める場が隣り合わせになっている。

ナレッジ・クォーターを実際に歩きながら、イノベーション地区について考えてみた。

キングスクロス駅前

廃墟だった場所を変革 イノベーション地区とまちづくり

イノベーション地区はAIやライフサイエンス、クリーンエネルギーなど最先端の分野に対応し、社会課題に挑む拠点として世界各地に広がる。すでにアメリカやスペインなど約150カ所あり、日本では新潟県長岡市にある。

特徴的なのは、場のつくり方。研究開発に必要なインフラだけでなく、カフェ、住宅、公園、シェアオフィスといった生活や交流の空間も組み込んでいるところだ。つまり、「働く・暮らす・つながる」をすべて同じエリアで可能にするまちづくりとしての側面が強い。

また、都市再生を支える存在になることもある。ナレッジ・クォーターもその一つだ。

元々、産業革命をきっかけに活気があった工業地帯だったが、第二次世界大戦後、衰退の一途をたどる。建物、線路の側線、倉庫などが廃墟化し、失業者が目立つようになり、犯罪や劣悪な環境が広がっていった。地元の人からは「近寄らない方がいいエリア」と呼ばれていたという。

荒廃した工業地帯に変革するきっかけが訪れたのは、1996年。英仏海峡トンネル鉄道の発着駅がキングスクロス駅の隣にあるセント・パンクラス駅に移転することになったことにある。これを機に周辺の開発が進み、商業施設が増え始め、いつしか大企業も拠点を構えるようになり、現在のナレッジ・クォーターの姿が出来上がってきた。

工業地帯が、知と好奇心を核とした都市へと生まれ変わったロンドンのナレッジ・クォーター。実際に地区を歩いてみると、好奇心がくすぐられる仕組みと、知を深める場所づくりの工夫がみえた。

科学がより身近になる場所

ヨーロッパ最大の生物医学分野の研究所「フランシス・クリック研究所」にあるギャラリーを覗くと、子ども向けのワークショップの準備が進められていた。フランシス・クリック研究所には日本など世界各国から約2,000人の研究者が集まり、主にがんや感染症などの解明、診断や治療、予防の方法の開発などが行われている。2024年6月には天皇陛下が視察に訪れた。

この研究所にはラボのほか、地域の人が気軽に訪れ、研究に触れることができるギャラリーが設けられている。ギャラリーではその期間中のテーマに沿った展示があり、定期的にイベントも開催されている。

取材で訪れた際のテーマは「脳の働き」。テーマは数カ月ごとに変わり、これまでにDNAの改変や、ゲノム倫理、がんや生物学に関する展示も行われた。イベント参加費は無料ながら、普段ラボで仕事をする研究者たちが講師として参加することもある。“本物の科学者“に質問できる機会なだけに、子どもたちから大人気だ。多いときは1日300人が訪れるという。

ヒトのほか、カピバラなどの動物の脳についても学ぶことができる

ギャラリーとラボの距離が近い理由について、ギャラリーで働くサラさんはこう語る。

「一つ目の理由は、子どもたちの科学への好奇心を刺激することです。地元の学校向けの教育プログラムもあり、ここで行う実験などを通じて科学について学ぶ機会を提供しています。二つ目は、一般の人と科学者が交流する機会を作りたかったからです。他の研究所ではなかなかこうした機会はないからこそ、私たちが科学者と市民の橋渡しをして、研究内容を透明化にしたいのです。なぜなら、この研究所での研究は、いずれ人々の健康や医療に影響を与えるものだから。オープンな対話ができるよう、この取り組みには力を入れています」

フランシス・クリック研究所

まちを歩けば新しい技術に出会う

研究だけでなく、新しいイノベーションに触れられる場所もある。

「Fabrica X」がその一つだ。香港・南豊集団の紡績工場を再生したプロジェクト「The Mills」から生まれたこのイノベーション施設は、テキスタイルとテクノロジー、農業と未来の食というテーマを軸に、サステナブルな起業家精神を育てている。2021年にロンドンへ拠点を拡大して以来、ファッションから代替プロテインまで、日常を変えるスタートアップたちのショーケースとなっている。

筆者が訪れた期間には、2050年の世界で私たちが食べているものを題材に「TASTE OF TOMORROW」が開催されていた。「農業におけるイノベーション」と「次世代食品」を2つの主要テーマとし、スタートアップ各社が開発したプロトタイプの展示を見て、体験できる。

たとえば、ロンドンに拠点を置くスタートアップMorrow社が開発した、コーヒー豆を使わないコーヒー。持続可能な原材料から作られたコーヒー代替品だ。香りをかいでみると、代替え品とは思えなかった。

使用されている原材料は、レンズ豆、ひよこ豆、大麦といった豆類や、果皮などのアップサイクル素材。それを独自のバイオ変換技術やデータモデリングツールを組み合わせ、環境に負荷をかけることなく、コーヒー本来の豊かな風味と香りを再現しているそうだ。

コーヒー豆の栽培適地は気候変動により2050年には50%減ることが危惧されていて、豆の価格がさらに上昇する懸念がある。また新しいプランテーション開発による森林伐採や、輸送に伴う二酸化炭素排出が大きな課題となっている。それらを解決する方法の一つになり得るわけだ。

施設では製品が生まれた背景を含めて知ることができるため、市民が問題意識を高める場にもなっているという。

Morrow社の製品、コーヒーのいい香りを体験

このナレッジ・クォーターには大英図書館もある。1億7,000万以上の書籍や資料などを貯蔵する世界最大級の研究図書館で、毎日無料で開放されている。せっかくなので筆者も入ってみると、学生たちがフリーデスクにパソコンを並べて、共同でレポートを作成したり、議論をしたり、本を一生懸命読んでいた。フリーWi-Fiの利用も可能で、本とネットの両方を活用しながら勉強できる環境に羨ましさすら感じた。

大英図書館で学生たちが勉強に励む

最先端の研究やビジネスが動くこの地区で、学生たちが何かに興味を持ち、学びを深めたいと思った時に、その場が用意されている。研究施設と地域社会、企業と生活空間がひとつに溶け合い、歩いて出会い、立ち止まって考えるナレッジ・クォーターならではだろう。しかも単に最先端技術の研究に励む場ではなく、人々が「問い続ける力」を手放さずにいようとしているようにみえる。子どもが科学者に質問し、誰かがベンチで未来の食について考え、別の誰かが本を抱えて歩いていく。そんな風景がここにはあった。

取材・文:星谷なな

<参考>
Ideas for Good ナレッジ・クォーターとは
https://ideasforgood.jp/glossary/knowledge-quarter

SCI翻訳 イノベーションディストリクトとは
https://www.sci-japan.or.jp/news/2025/0501.html

ノースカロライナ イノベーションクォーターについて
https://www.innovationquarter.com/mission/about

ノースカロライナ イノベーションクォーターについて2
https://www.visitwinstonsalem.com/blog/downtown-innovation-quarter
https://www.sci-japan.or.jp/vc-files/pdf/what_are_innovation_districts_japanese_translation.pdf
https://www.crei.e.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/2024/04/LB_CREI-International-Forum_Tokyo_FINAL-Japanese.pdf
https://www.kingscross.co.uk/about-the-development
https://www.telegraph.co.uk/business/2023/12/30/novo-nordisk-ai-hub-kings-cross
https://www.ukinnovationdistricts.co.uk
https://www.knowledgequarter.london
https://ideasforgood.jp/glossary/knowledge-quarter

FABRICA X
https://www.themillsfabrica.com/about-us/about-fabrica/