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仮眠は、仕事のパフォーマンス向上に効果があると言われており、GoogleやNASAなどの海外企業では、以前からオフィス内に仮眠室を設置している。「休む」ことに注目し、仕事の生産性を向上するアプローチは、日本でもさらなる浸透が期待されている。
一方で、OECD(経済協力開発機構)の調査によると、日本人の平均睡眠時間は加盟国中ワースト1位であり、世界的に見ても睡眠時間が短い。睡眠不足は、さまざまな健康リスクを引き起こす。例えば、免疫力の低下による感染症リスクの増大、生活習慣病やうつ病のリスク上昇など、その影響は多岐にわたる。
また、睡眠不足は労働生産性の低下や交通事故のリスクを高めるなど、社会的な影響もある。社会全体で見ると、睡眠不足による経済損失は年間約15兆円に上るとも試算されている。
このように、日本人の睡眠不足は単なる個人的な問題ではなく、社会や経済に深刻な影響を及ぼす社会課題と言える。
こうした状況の中、京セラが開発した仮眠起床AIシステム『sNAPout®(スナップアウト)』が注目を集めている。『sNAPout®』はAIを活用し、睡眠段階を計測して仮眠の効果が最も高まるタイミングで起床を促す快眠ギアである。わずか20~30分程度の仮眠でも、高い回復効果を得られるように設計されている。
短い休息時間でも最大限のリフレッシュ効果を得られることで、個々の生産性が高まる。また、企業の健康経営や交通事故の防止策、医療現場での集中力維持など、幅広い分野での応用も期待されている。今回、『sNAPout®』の開発秘話や独自技術を通じて、仕事のパフォーマンス向上や睡眠不足解消のヒントを探る。
開発のきっかけは、研究者自身の”眠気”
『sNAPout®』を開発したきっかけは、開発者である渡邉孝浩氏自身の経験からだという。
「仕事柄、論文を読む機会が多いのですが、昼食後に論文を読んでいると、どうしても眠くなってしまうんです。そこで昼休みに仮眠をとるのですが、オフィスではなかなか寝付けないうえに、30分ほど寝ても頭がぼーっとしてしまい、逆にスッキリしないことがありました。これを何とか改善できないかと考えたのが出発点です。それに、日本人の平均睡眠時間はOECD諸国の中で最も短く、特に若い世代ほど睡眠不足の影響を受けやすいという研究結果もあります。短い仮眠で生産性を向上させることができれば、社会的にも意義のある取り組みになると感じたんです」
個人的な課題感が出発点ではあるものの、同様の悩みを持つビジネスパーソンは多いと考えた渡邉氏はまず仮眠研究の論文を読み漁った。そして、仮眠の質を上げるためには起床するタイミングが重要であることを知る。
「そもそも、人間の睡眠の深さは入眠してから1〜3の睡眠段階が存在します。睡眠段階1では脳がまだ完全な休息状態になっておらず、睡眠段階2に入ることで初めて脳が休息し、疲労物質の除去が始まります。睡眠段階3まで進むと脳の機能が完全に停止するため、この段階で強制的に起きると『睡眠慣性』と呼ばれるぼーっとした状態が続き、かえって逆効果になってしまいます。つまり、睡眠段階1で起きてしまうと仮眠の効果は得られないし、逆に睡眠段階3まで眠ってしまうと起きた後にぼーっとする。仮眠では脳が初めて休息をとる睡眠段階2で起きることが最も重要であることが分かりました。そのため、入眠してからの睡眠段階を正確に検知することで、睡眠段階2に入った後に起こすようなプロダクトを開発できないかと考えたのです」
渡邉氏は当時研究していたセンサー技術を活用し、仮眠の質を高めるためのプロダクトを模索し始めた。しかし、睡眠に関する知見が乏しかったため、睡眠研究の権威である筑波大学の阿部高志氏の研究室に協力を依頼し、共同研究を開始した。
「筑波大学との共同研究では、睡眠段階2に入って起床した群が、休憩のみを取った群に比べて、脳の覚醒度を測るテストで高い結果を示しました。さらに研究を進める中で、血流量よりも特定の周波数成分が睡眠段階の変化を捉える上で重要であることが分かりました。この知見をAIに学習させることで、睡眠段階2を識別できるAIモデルを開発しました。これが『sNAPout®』の基盤となる技術です」
従来のウェアラブルデバイスとの違いは?『sNAPout®』の独自技術
『sNAPout®』の最大の特徴は、従来のウェアラブルデバイスでは困難であった睡眠段階1と2の識別を可能にした点である。これは、長時間測定を前提とした従来の睡眠計測器とは一線を画す、画期的な技術といえるだろう。
「従来のウェアラブルデバイスでは、睡眠段階1と2を区別することはできず、一緒に判定していました。そのため、『sNAPout®』の強みは短時間の睡眠における睡眠段階2を正確に識別し、”仮眠”の質向上に特化している点にあります」
『sNAPout®』はイヤホン型デバイスとスマートフォンアプリを組み合わせて使用する。イヤホン型デバイスで血流を測定し、そのデータをスマホアプリに送信する。アプリ内のAIが睡眠段階を判定し、最適なタイミングでアラームを鳴らして起床を促す仕組みとなっている。
「指や腕などさまざまな部位で計測実験を行った結果、耳が最も精度良く計測できることが分かりました。耳に装着することで遮光性が高まり、深い睡眠に入りやすくなるというメリットもあります」
さらに、『sNAPout®』には筑波大学との共同研究で開発された独自の「入眠音」を採用。この音を聞くことで睡眠段階2への移行が早まることが確認されている。
「睡眠段階2に入ったことを検知すると、音は自動的に停止し、深い睡眠を妨げないように設計しています。これにより、深い睡眠を妨げないよう配慮されています」
睡眠不足大国の生産性を向上させる。『sNAPout®』が描く未来
京セラでは、イヤホン型デバイス『sNAPout®』を企業向けのレンタルサービスとして提供している。特に現在は、エンジニアを多く抱えるIT企業など、頭脳労働が求められる企業でのニーズが高い。今後はIT企業以外にも展開を広げることを目指しており、人気イヤホンメーカーと提携することで、イヤホンの一機能として一般市場に浸透させる構想もあるという。
「まずは企業向けのレンタルサービスを中心に展開をする予定です。IT企業など、特に従業員の集中力や作業スピードが求められる業界では、仮眠に対する理解があり、導入が進むと期待しています。将来的には一般消費者向けの販売や、大手イヤホンメーカーとの提携も視野に入れています。また、自動運転中の仮眠サポートや時差ぼけ対策など、新たな技術開発だけでなく応用範囲の拡大も目指しています。最終的には、『sNAPout®』を通じて仮眠の重要性を社会全体に広め、睡眠不足による社会課題の解決に貢献したいです。適切な仮眠は、個人のパフォーマンス向上だけでなく、企業の生産性向上、さらには社会全体の活力向上にもつながるはずです」
昼食後の眠気を解消し、集中して論文を読みたいという渡邉氏の個人的な経験から開発が始まった『sNAPout®』。しかし、このプロダクトは個人の枠を超え、テクノロジーの力で「睡眠不足大国」日本の働き方を変え、社会全体の生産性を向上させる可能性を秘めている。適切な仮眠を普及させることで、企業の生産性向上や社会全体の活力向上につながる未来を描いているのだ。個人の課題から始まったこの挑戦が、やがて社会を変革する一歩となる。その可能性を強く感じさせるプロダクトである。
文:吉田 祐基