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荷物から乗客へ
2024年5月23日、犬専用の航空会社「Bark Air」が、チワワ、ダックスフンド、ゴールデンリトリーバ―などの6頭の犬と11人のヒト(乗客と乗員)を乗せて、ニューヨークからロサンゼルスへの初フライトを運航した。
飛行中、犬たちは、においが染みついた飼い主の靴が置かれた銀のお盆からトリーツをもらい、チキン味のパプチーノを飲み、肉球スパトリートメントを受け、カーミングブランケット(犬を落ち着かせるための毛布)にくるまれて、至れり尽くせりの約6時間のフライトを楽しんだ。
チケット代は、犬一頭と人間一人で片道6,000ドル(約95万円)。CEOのMatt Meeker氏は高額であることを認めつつも、初飛行から一週間以内に15,000件以上の目的地リクエストを受け取ったことから、ニーズは確実にあり、需要が高まるにつれ価格が下がると期待している。
Bark Airは、ペット向けサブスクリプションサービスを展開するBARKとジェットチャーター会社と提携により設立された。Meeker氏は、旅友の愛犬が大型だったため、キャビンではなく貨物室行きになることに不満を抱き、犬が快適に飛行機に乗れる航空会社を構想したそうだ。
Meeker氏はプロモーションの一環として、自ら犬のクレートに入り、フロリダからニューヨークまでの4時間フライトを貨物室で体験してみることにした。爆音に近い騒音と揺れに「愛犬家を名乗る人たちが、自分の犬をここで過ごさせるなんてどうかしている」と述べている。その様子はBark Airのサイトで公開されている。
航空会社によって扱いは異なるが、多くの場合、ペットは「貨物」扱いになる。キャビンに同伴できる場合でも、専用キャリーから出すことが禁止されていたり、さらに緊急脱出時には機内に置いていかなくてはならないこともある。
今年初めの羽田空港での航空機の衝突事故では、ヒトは全員救出できたが、貨物室に預けられたペット2頭が犠牲になったことが記憶に新しい。飼い主は、この万が一のリスク覚悟で一緒に旅するか、フライトを諦めるかしかない。
「犬を単に受け入れるだけでなく、犬を第一に考えた航空体験」というBark Airのモットーは、機内のみならず、空港での混雑を回避する優先搭乗、キャビンアテンダントにも犬に恐怖を与えない行動方法を訓練するなど、ハード・ソフトの両面で貫かれている。
成長するペットトラベルサービス市場
アメリカの市場調査会社Global Market Insightsによると、ペットトラベルサービス市場規模は2023年は18億ドルで、2024年から2032年にかけて年平均成長率9.5%で成長し、2032年には41億ドルに達すると予想されている。
この予測を裏付けるように、アメリカの9,050万の世帯のうち78%が毎年ペットと一緒に旅行するという調査結果がある(アメリカペット用品協会調べ)。また、調査対象者の58%が友人や家族よりもペットとの旅行を好むと回答(Hilton global trends report調べ)。
さらに、旅行者の半数以上がペット同伴を前提に旅行計画を立て(Harvest Hosts調べ)、宿泊施設の75%がペット同伴を認めるようになっている(American Kennel Club調べ)。ペットを置いて旅行するのは、子供を置いていくのと同じようにあり得ないと考えている人が増えているのだ。
パンデミックと犬
このような変化の背景には、大きく2つの要因があるのではないかと思う。
一つ目は、パンデミックの影響だ。Forbus Advisorによると、調査対象者の78%がパンデミック中にペットを迎え入れ、48%が家で過ごす時間が増えたことを飼う理由に挙げている。また、先述のアメリカペット用品協会によると、39%の飼い主が前年よりもペットに費やすお金が増えたと回答している。
一方で、パンデミックは負の影響も与えている。ロックダウン中は犬の需要が急増したが、パンデミック後は、生活の変化などから犬の遺棄も急増したのだ。英国王立動物虐待防止協会は、イギリスでの子犬の遺棄は2021年の411匹から2022年は711匹と73%も増加したと報告している。
罰から報酬へ
二つ目の要因は、犬に対する考え方の大きな変化だ。筆者もパンデミック中に保護犬を迎えた一人だが、以前飼っていた2頭の犬から得た知識がまったく通用しないことに驚かされた。
例えば、「犬は序列意識がある」は、「犬の社会構造はもっと柔軟で、序列よりも個々の関係性や状況によって行動を変える」に変わり、「飼い主は犬と明確な主従関係をつけること」は、「リーダーシップというより、協力や信頼に基づく関係が大切」という考え方になった。
しつけの面でも、罰を用いて支配する方法から、犬が自発的によい行動を行うように促す報酬ベースの手法が定着しつつある。現在、犬のトレーニングは報酬ベースと旧式が混在しており、筆者が受けたトレーニングコースは旧式のものだった。トレーナーがジャーク(素早くリードをひっぱり首に嫌悪刺激を与える)するたびに怯えて静かになる犬の姿は、今思い出しても胸が痛む。
犬をもっと理解したい
このような考え方の変化は、犬の行動や認知に関する研究が大きく進展した結果と言える。
過去20年で、この分野の研究論文は3倍以上に増加、様々な角度から深く掘り下げられている。例えば、2024年3月にハンガリーのエトヴェシュ・ロラーンド大学が、犬は人間と似た言語処理メカニズムがあり、言葉と口調の両方を理解する能力があることを明らかにした。また、世界的に広まっているトーキングボタン(「散歩」「ごはん」など飼い主の声を録音したボタンを犬が押すことで犬が自身の欲求を伝える)のデータを飼い主から収集し、犬の言語的コミュニケーション能力を科学的に調査している団体もいる。
そんなトレーニング法や研究と密接な繋がりがあるのが「動物福祉」の概念だ。「動物福祉」とは、動物が適切なケアと保護を受け、幸せで健康的な生活を送る権利や理念を指す。1960年代にイギリスで提唱され、現在は国際的な指針として広く認知されている。
その基準として「五つの自由」(飢餓と渇きからの自由、不快からの自由、痛み、傷害、疾病からの自由、行動からの自由、恐怖と苦痛からの自由)がある。犬の行動や認知に関する研究は、これらの基準を達成するために不可欠であり、研究によって得られる知見が実践に反映されることで、よりよい犬のケアと福祉向上が実現することが期待されている。
多様化するわんことのつきあい方
冒頭のBark Airの初フライトの模様がYouTubeにアップされていた。犬との旅行に100万円近いお金が使えるリッチ層向けだと、やや冷ややかに見ていたが、機上でミールを食べたり、挨拶したりする犬たち、それを笑顔で見守る乗員・乗客が醸す温かな雰囲気が伝わってきた。トラブルを起こすのではと意地悪い期待をしていた人もいたそうだが、逆に犬がヒトを落ち着かせてくれたそうだ。「初めて会った犬がふらっと寄ってきて、隣に座り、頭を膝に乗せてくるんです。本当に和みました」と、搭乗した人はその体験を語っている。
高額といえば、グルーミング代が7万円以上というサンディアゴのグルーマーが話題になっている。TikTokで250万人以上、Instagramで130万人以上のフォロワーがおり、年間1億円稼ぐ彼は、犬をシマウマやウシ、ティガーやポケモンに変身させてしまうのが売りだ。
自然由来の染料を使っているとはいえ「いくら何でも、これは…」と思ったが、動画に映るグルーマーも、客も、犬も、Bark Airの機内と同様に、笑顔にあふれている。犬は自分がトラに変身したとはよもや知らないだろうが、飼い主の笑顔や道行くヒトたちの優しい反応は、きっと嬉しいに違いない。
犬とヒトは1万年以上のつきあいがあるという。その長い歴史を経て、「飼う」という概念を超え、家族の一員として、共に様々なライフスタイルを楽しむ時代になっているのだ。
文:水迫尚子
編集:岡徳之(Livit)