栄養士からモデル、そして料理人へ
Q. スペインに来る前は何をしていたんですか?
A. 10代のころから、いつか飲食店を開きたいと漠然と思っていたので、専門学校で栄養と調理を勉強しました。卒業直後に飲食店を開くのは難しかったので、社会人1年目では20歳で栄養士として働くことにしました。
病院食を作る仕事で、地下にある厨房で帽子に髪の毛全部入れて、マスクして、目以外全部包まれた格好で働いていました。まだ20歳だった私は、まだ若いのに、目だけ出して、何してるんだろうと思うようになってしまって。
そんな時、友人にあるモデルさんに似てると言われたことを思い出したんです。携帯で調べると、その方が颯爽とランウェイを歩く姿が出てきて、すごく輝いて見えました。
栄養士の仕事はすごくやりがいはあったけど、年齢が上がってもできる仕事。自分もモデルに挑戦してみたいと思ってからは、病院の仕事しながら、オーディションに行くようになりました。
ありがたいことに合格できて、モデルとして一時活動していました。飲食店の夢は当時も頭の片隅にはあったけど、モデルの仕事がその当時一番やりたいことだったので、それに全力でしたね。「東京コレクション」や1万人近くが集まるイベントでランウェイを歩いたり、テレビにも出演しました。
Q. 栄養士やモデルを経験して、どうしてスペインに行くことにしたのですか?
A. 芸能の仕事の延長で出会った方に誘われて、20代前半で初めて海外旅行に行くことになったんです。行き先は南米カリブ。もう驚きの連続でした。自由とはこのことか、と。
私、仕事中は私語厳禁だと思っていたのに、スーパーの店員さんが働きながらご飯食べていたのが忘れられないですね。それまでの固定概念が砕かれていった感じがしました。
刺激的な経験をカリブでしたことで、海外に一度は住んでみたいと初めて思ったんです。それで調べ始めたら、ワーキングホリデーという制度があると知りました。せっかくならみんなが行く国じゃない、英語圏以外に行こうと思って、スペインを選びました。
Q. でも、モデルは念願叶ってのお仕事だったんですよね。どうしてやめてしまったのですか?
A. そうですね。想像以上に大変だった、ということにつきますね。
いつ仕事が入るのか、決まるのか分からず、急に仕事が入ることも多々ありました。すでに別の予定が入っていてもモデルの仕事に行くようにしていたのですが、地元の島根に帰省をしても急に仕事が入って東京に戻らなきゃいけなくなったりしたのはきつかったですね。
仕事が仮決定するとマネージャーから私に日程の確認連絡が来るのですが、それに気づかず返事が遅れると、その仕事は他の子に渡ることもありました。正直なところ、毎日緊張状態が続き、まったく身体が休まらなかったです。
すごく甘い考えではあるのですが、モデルをやっていたころは、「売れっ子になって将来開く飲食店にお客さんを呼べたらいいな」なんて考えていました。でも、料理を学ぶこととモデルの仕事は、掛け持ちできるほど甘い世界じゃないと身をもって分かりました。
それでスペインに来て、バルでピンチョスで食べた瞬間に、雷が走ったんです。「これだ!」と。
というのも、モデルや病院食の仕事はしてきましたが、飲食店を開く夢はずっと頭のどこかにあったんですね。実家が酒屋なので、お酒とのペアリングがよく、かつ、自分らしいものでお店を出したいと考えていたのですが、その答えを見つけた気がしたんです。
今働いているバルは、ピンチョスに日本の調味料を使っていますし、ピンチョス関連の賞を取るほどいいお店なんです。「この食材とこの食材を組み合わせるとこういう風になるんだ」とすごく勉強になります。
まずは仕事をしっかり覚えて、スペイン語も上達させるのが先。ですが、お店で新しいピンチョスを出す時や、他の店で食べたものはメモって、日本で自分のお店を開店するために少しずつ準備しています。
母の過去、叔父の想いを知って、見つけた自分の道
Q. モデル、スペイン、飲食店とやりたいことに一直線になれる福原さん。どうして自分のやりたいと思うことに素直になれるんですか?
A. まわりからも、「なんで?」って言われますね。何が一番関係しているんだろう。たしかなことは分からないけど、母の存在が関係している気がします。
母は高校を卒業した18歳の時にトラックの運転手になりたくて、実家の島根から大阪の会社に就職したんです。でも、働き始めて3カ月で妊娠発覚。だから母は自分がやりたかった夢を一旦諦めることになったんです。母がやりたいことをできなかった経験があると知ってから、「やりたいと思った時にやらなきゃ」と突き動かされるようになりました。
とはいっても、そう思えるようになったのは10代後半です。飲食店を開く夢もずっとぼんやりで具体的になったのはここ最近ですね。
Q. そもそも飲食店を開こうと思ったのはなぜなのですか?
A. うちはもともと祖父がスーパーマーケットを経営していたのですが、バブル崩壊の波を受けて、叔父が店を継ぐ時に酒屋に方針転換したんです。
自営業は経営がうまくいかない時期もあるので、収入に波がありますよね。だから、「なんで他の家族の親と同じように働きに出ているのに、1カ月同じ給料もらえないんだ」「なんで自営業の家庭に生まれたんだ」と、実家が自営業の酒屋であることを恥だとすら感じて、周囲に隠している時期がありました。
Q. “恥”だと思っていた自営業を、なぜ自分もやろうと考えるようになったのですか?
A. 実家の店「金吉屋商店」を残すために、叔父がいかに一生懸命働いていたのかを知ったんです。少しずつお店の内装や外観を変えたり、叔父なりに試行錯誤を重ねてきたからこそ、今の店がある。「人は行動すればなんでも形にできるんだ」と叔父の背中に伝えられ、私の気持ちも少しずつ変わっていきました。
幼少期から、叔父から時折、「私に家業を継いでほしい」と言われてきたんです。「絶対ない」と思っていた時期もありましたが、今は自分の好きな調理の道とお酒を組み合わせた飲食店の開業を通じて、「金吉屋」の名を残していきたいと思っています。
Q. 店のオープンに向けて、バルでの仕事も頑張れますね。
A. そうですね。今のビザは4月いっぱいで終わりなので、元々帰国する予定でした。でもまだ半年ぐらいしか修行できていないし、自信を持って地元・島根でバルを開くためにもっと学びたいし、働きたいと思い、その方法を模索しています。
今のバルも好意的に考えてくれていて、引き続き修行できればと思っています。今28歳なのですが、30歳でのオープンを目指しています。1年半修行して、帰国したら店の内装を考え始めようかなと。やることいっぱいですね。
ーー異国の地で、未来のために奮闘する福原さん。「やりたいと思った時にやらなくちゃ」、と挑戦したことすべてが、今につながっている。どんなバルになるのだろう。今から楽しみで仕方がない。
取材・文:星谷なな