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言語も障がいも超える「インクルーシブ観戦」の最前線
2026年の北中米ワールドカップと2028年のロサンゼルス五輪では、AI、AR/VR、クラウド技術が導入されるだけでなく、障がい者や遠隔地の観客も含めた「誰も取り残さない観戦体験」がキーワードになっており、その実現に向けた取り組みが活発化している。
たとえば、2026年のFIFAワールドカップ北中米大会で導入予定の触覚フィードバックデバイス。これは、視覚や聴覚に障がいを持つファンも、健常者と同じようにスタジアムの熱狂を体験できるもの。
FIFAクラブワールドカップ2025で先行導入されたこの技術は、アイルランドのField of VisionとアメリカのOneCourtが開発。ノートパソコン型のデバイス上でピッチを再現し、磁気リングがボールの動きをリアルタイムで追跡する。パスやタックル、シュートなど、それぞれのプレーに応じて異なる振動パターンを生成し、視覚障がい者でも試合の流れを即座に把握できる仕組みとなっている。

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「今まではスタジアムの歓声が上がってから、何が起きたか尋ねていた。でも今は、プレーの展開を追いながら、みんなと同じタイミングで盛り上がることができる」。シアトルでの試合でデバイスを体験したアンソニー・フェラーロ氏は、その違いを「まるで昼と夜」と表現した。
言語の壁を取り払う試みも加速している。InterprefyのAI音声翻訳技術は、6,000言語以上の組み合わせに対応。UTSテニストーナメントでの実証実験では、選手のコメントやライブ解説がリアルタイムで字幕化され、1万2,000人の観客向けにそれぞれの言語で内容が提示された。「選手の感情や戦略を理解することが、ファンとアスリートの絆を深める」とInterprefyのヨハン・ブレガン氏は語る。
VR技術による没入型体験も新たな観戦スタイルを生み出している。DAZNとMetaの提携により実現したXRアプリは、Meta Questユーザーが仮想空間で試合を観戦できる仕組みを提供する。3Dテーブルトップビューでピッチ全体を俯瞰したり、180度のライブ映像でサイドライン席にいるような臨場感を味わったりすることが可能だ。重要な場面を巻き戻して3Dで再現する機能も搭載され、戦術的な理解を深められるようになった。
2026年大会では、これらの技術がさらに進化する見込みだ。AIによる画像認識技術を活用したARアプリでは、スマートフォンをかざすだけで選手の詳細データやリアルタイムの走行速度を表示する機能が提供される。これは2022年のカタール大会で導入されたもので、2026年には、新機能の追加が見込まれている。
メガイベントが地域に刻む「持続可能な未来」
メガイベントが残すものは、熱狂的な記憶だけではない。2028年のロス五輪(以下、LA28)では、開催都市に恒久的なインフラ改善と環境技術をもたらす「レガシー創出」の新モデルが採用される。
LA28組織委員会が打ち出した「Resilient by Nature」構想は、単なる環境対策を超えた野心的な取り組みだ。2026年初頭には、山火事からの復興、海洋保護、都市冷却という3つの重点分野を対象とするコミュニティ復興基金を設立。地域のNPOに資金を提供し、大会後も継続的な環境改善活動を支援する体制を整える。
エネルギー面では、全会場で100%再生可能電力を調達する計画だ。オリンピック放送機構(以下、OBS)も完全IP・ITベースのインフラに移行し、クラウド統合型の仮想化ワークフローを採用することで、放送設備のカーボンフットプリントを大幅に削減する計画だという。OBSのヤニス・エクサルコスCEOは、「ロサンゼルスという都市のDNAには、イノベーションとストーリーテリングが組み込まれている」と語る。
既存施設の活用も、持続可能性の要となっている。LA28では新規建設を最小限に抑え、SoFiスタジアムやLAメモリアルコロシアムなど、すでに世界水準の設備を持つ会場を最大限に活用。仮設インフラについても、使用する素材の90%以上を再利用またはリサイクルし、大会終了後は地域への寄付プログラムを通じて有効活用する方針だ。
北中米ワールドカップの各会場でも、環境技術の導入が進む。アトランタのメルセデス・ベンツスタジアムは、太陽光パネルと節水技術を備え、花びら型の開閉式屋根でLEEDゴールド省エネ認証を取得。サンフランシスコのリーバイススタジアムは、太陽光発電パネル、グリーンルーフ、公共交通機関との統合により、エコロジカルな先見性のモデルとなっている。
メキシコ・グアダラハラのエスタディオ・アクロンでは、LED照明システムが従来の設備と比べて大幅な省エネを実現しながら、即座の点灯を可能に。FIFAが掲げる「炭素排出量50%削減」目標の達成に貢献することが期待されている。
地域経済への波及効果も見逃せない。LA28は地元企業への発注比率75%、中小企業への発注比率25%という目標を設定。コミュニティビジネスサプライヤープログラムを通じて、地元企業がサプライチェーンに参画できる仕組みを構築した。これにより、一時的な経済効果にとどまらず、地元企業の技術力向上と持続的な成長機会を促進する構えだ。
こうした取り組みの背景には、メガイベントに対する社会の期待の変化がある。かつては華やかさや規模が重視されたが、現在は「何を残すか」が問われる時代。技術と環境の両立、そして地域社会への長期的な貢献こそが、21世紀型メガイベントの新たな成功指標となっている。
アスリートの”心”を守る最新テクノロジー
メガイベントの成功を支えるのは、最先端技術だけではない。選手や運営スタッフ、そして世界中のファンのメンタルヘルスをどう守るか、というのも重要課題の1つに位置づけられている。これに関してパリ2024五輪では、いくつかの実証的な取り組みが実施された。
たとえば、オリンピック史上初となる「Mind Zone」。選手村のフィットネスセンター内に設置された空間で、VRヘッドセットを装着すると、エッフェル塔やオリンピックスタジアムを巡る没入型瞑想体験を味わえるもの。呼吸法とビジュアライゼーションを組み合わせたこのプログラムは、148カ国の選手たちによって2,300回以上利用され、92%が満足感を示したと報告されている。

https://www.olympics.com/ioc/news/world-mental-health-day-first-of-its-kind-mind-zone-praised-by-athletes-at-paris-2024
メキシコのアーチェリー選手アナ・バスケス氏は、「初めて体験したとき、涙が出た」と振り返る。静かな環境で絵画やヨガ、ポストカードの作成などのアクティビティも用意され、IOCチームが常駐して必要に応じた個別相談にも対応。身体的健康と精神的健康は表裏一体というメッセージを具現化した。
さらに画期的だったのが、AIを活用したサイバー虐待防止システムだ。2万人の選手・関係者のSNSアカウントから240万件の投稿をリアルタイムで分析。35言語以上に対応しつつ、15万2,000件の潜在的な虐待投稿を検出、1万200件を実際の虐待として特定し、プラットフォームに削除を要請した。性的・性差別的な暴力が女性選手に集中する一方、標的となった選手の70%は男性だったという事実も判明した。
IOCが策定した「メジャースポーツイベントのためのメンタルヘルスガイドライン」は、こうした課題への包括的な対応策を示している。大会前・中・後の各段階でのベストプラクティスを網羅し、選手だけでなくスタッフも含めた支援体制の構築を推奨している。パリ五輪では、152人のNational Olympic Committees(NOC)福祉担当官、41人の国際競技団体セーフガーディング担当者、24時間対応の多言語ヘルプラインなどが実際に導入されており、今後の大型スポーツイベントにおけるベンチマークを示した格好となる。
国際スケート連盟のキム・ジェヨル会長は「メンタルヘルスは身体的フィットネスと同様に、選手の成功に不可欠」と強調。FIFAの医療ディレクター アンドリュー・マッセイ氏も「スポーツに関わるすべての人のメンタルヘルス保護は、選手が活躍できる環境の提供に不可欠」と述べ、組織を超えた協力の必要性を訴えている。
2026年、2028年のメガイベントでは、これらの取り組みがさらに進化する。真に「誰も取り残さない」イベント実現に向けた動きは、今後さらに活発化する見込みだ。
文:細谷 元(Livit)
