幼い頃から体を動かすことが好きだった岩岡さん。「いつかスポーツが心身ともにいいものだと伝えられる仕事ができたら」と考え始めたのは、高校生の頃だった。それを形にし始めたのは、20代の頃。

岩岡さんは米国留学を経て、シューズやアパレルなどのスポーツ用品を製造・販売する企業・アシックスに入社。

MBAに挑戦するため、20年近いキャリアを築いて退職。

「せっかくキャリアがあるのに退職?」

そんな声もあったが、気にしない。全てはもっとスポーツの良さを広めたい。それに尽きる。

岩岡薫
東京都出身。40代。成城大学卒業後、米国・シアトルへ留学。ランニングシューズ専門店でのインターンシップを経験したことがきっかけで、アシックスへ入社。2022年に退社し、アイルランドでMBAを取得。現在はパリ在住。
岩岡 薫氏

アクションの結果、見えてくるもの

アシックスでキャリアをスタートさせた理由は、真摯なモノづくりにほれ込んだからだった。

アメリカ・シアトルの留学時代に、ランニングシューズ専門店でインターンシップを経験。岩岡さんはそこで、それぞれのランナーに適したランニングシューズを見極め、推薦する知見とスキルを習得する。そしてアシックスのシューズが、真剣なものづくりの結晶だと知り、心打たれた。

「このブランドの商品を通じて人々にスポーツの楽しさを伝えたい」。気がつくと、高校時代からの夢をそこに重ねていた。

「真剣なモノづくり」という観点から、アシックスとアメリカのスポーツブランドの2社に絞り、採用面接に挑んだ。

アシックスの面接では「ランニングシューズの売り上げは、こうしたら伸びるのではないか」と、岩岡さんは新卒にして事業計画を持参し、披露した。提案した内容が濃く、経営幹部は、頷いていたそうだ。

「今までこんな学生はいなかった」。面接時にも、入社後にも、会社上層部たちから言われた。

「合格です」

アシックスの入社面接の合否メールは、面接の帰宅中、すでに送られていた。

岩岡さんがアシックスに入社する少し前、社内ではオニツカタイガーの海外事業部が新設された。
オニツカタイガーとはアシックスが展開するファッションブランド。今では世界中で人気のブランドだ。

その海外事業部が本格的に活動する時に入社してきたアメリカ帰りの岩岡さんが任命された。

岩岡さんが任命されたのは、PR。日本の大学時代には法学、米国留学時代にはマーケティングを中心に勉強をしてきたが、PRは初めての経験だった。

「PRってなんだろう?から始まったので、まずは専門家に聞きに行きました」

ある程度、知識を蓄えたら、とにかく行動するのが岩岡スタイル。

また、岩岡さんは入社から数年後、創業者・鬼塚喜八郎氏の創業秘話を記した『オニツカタイガー物語』の創刊に携わり、創業に至るまでの道のりやモノづくりに対する熱い思いなどをインタビュー形式で、創業者本人から直接聞いたことがある。

「なぜスポーツシューズをつくりはじめたのですか?」
「『健全な身体に健全な精神があれかしと祈る』靴づくりのきっかけは、この言葉ですわ
(参考:ピエ・ブックス(現:パイ インターナショナル)「オニツカタイガー物語」、2005年4月、88ページ)

鬼塚氏は当時85歳。とてもそうは思えない彼の「モノづくりに対するエネルギー」を、岩岡さんは肌で感じ「この会社でキャリアをスタートすることができてよかったと、心から思いました」と語る。

『オニツカタイガー物語』ピエ・ブックス(現:パイ インターナショナル)

アシックスのキャリアに区切りをつけ、アイルランドへ

岩岡薫の舞台は、入社3年目でアメリカへと移る。

入社理由であった、アシックスのモノづくりを間近で学びたいという希望を叶えるため、5年間、当時ランニングの本場、アメリカへ。どんなシューズが求められ、売れるのか。プロダクトマーケティングの世界へ足を踏み入れた。

任期終了後には、日本へ帰任し、パフォーマンスランニングのグローバルPRとなった。

そして岩岡さんは神戸市にある「アシックススポーツ工学研究所(ISS)」のメディア公開を提案。岩岡さんがアメリカ赴任時に、欧米で人気のランニング専門誌の記者らからISSの内部を見たいと切望する声が出ていたからだ。

ISSは、アシックスが人間の動作分析などを行い、シューズなどの製品の材料や構造を研究する施設。いわば「アシックスの叡智」だ。

それを公開することに社内から抵抗の声があった。だが岩岡さんは、公開することでアシックスがブランドとして世界的にさらに価値が上がることを懸命に訴え、その思いに心打たれたISSの当時の所長は海外メディア公開に賛同した。

結果として、ランニング専門媒体をはじめとする海外メディアに大きくに取り上げられた。岩岡さんはアシックス・パフォーマンスランニングの国際的な価値向上に少なからず貢献した。その後、彼女は数々の海外向けメディアイベントを担当した。

日本で開催されたラグビー・ワールドカップで契約チームを当時の同僚と応援

だが、多忙だった。

新卒から15年以上、ずっと駆け抜けてきた。プロジェクトは楽しいが、自分の働き方に疑問を感じ始めたのだ。

「一度、自分を再確認する時間を持ちたい」

そんな思いが、年々強くなっていった。

さらにシアトルでの留学時代、社会人経験者が大学などに戻り、再び勉強する姿に感化され、自分もいつかMBAに挑戦したいという願望があった。MBAでは自分がアシックスで経験していないNPOやNGOなど幅広いビジネスの形を学ぶことができる。このままアシックスで働き続けたら、自分の考え方に偏りが生じてしまうのではないか。

気がつけば、もう2017年。30代後半。仕事が山積みで、勉強する時間が確保できなかった。

「このままだとMBAは、実現できないかもしれない。それでいいのか?」

MBAに行くなら、会社を辞めることになる。当時、会社にはMBAを目指す社員のために休職させるなどの体制がなかったため、退職するしかなかった。自問自答が始まった。

「いや、少しでも早く行ったほうが、自分にとってきっとプラス」

そう結論を出した岩岡さんは、当時のイギリス人上司に相談したところ、MBA留学に深い理解を示してくれ、人員増員のため会社に掛け合ってくれた。

ようやくMBA入試の勉強を開始したが、仕事と入試の勉強は想像以上にハードだった。夜7時に無理矢理仕事を終えて、塾で眠気と闘った。出願スコアがなかなか出ず、体力的にも精神的にも辛く、めげそうになった。それでも歯を食いしばって食らいついた。やるしかなかった。

2022年、3校に出願。全て奨学金付きで合格した。いろいろと考えた結果、アイルランドのMBAに進学することを決めた。

入試面接では仕事でのキャリアも大きく評価された。

「自分のやってきたことが認められて、嬉しかったですね。好きなことを貫いて来て良かったなと思いました」

MBAでは、常に「あなたはどう考えて、どうしたいのか」が問われた。実際にCEOが持ち込んだ会社の課題をチームごとに解決するカンパニープロジェクトなどの実践的な授業では、長年培ったビジネス経験が功を奏した。
また、欧州連合(EU)という地域柄、文化背景が異なる多国籍の人々と生活することが当然の社会。「組織構造とビジネス運営」がテーマの授業では、ダイバーシティ&インクルージョンという個性の違いを才能として捉えることがコミュニティーや企業のベースとして根ざしていることを知り、それを組織で実現するには、トップダウンだけでは限界があることも学んだ。

MBA授業の一環でベルギー・ブリュッセルのEU本部を訪れた際(2023年4月)

自分で選んだ道とはいえ、毎日膨大な予習と復習で大変だった。その一方で、新しく学んだことや、仕事で経験してきたことへの理解がさらに深まることがとても面白く、充実した日々だった。

岩岡さんはMBAを、好成績で卒業した。

「学生の8割強が英語を母国語とするアウェー環境でも自分がやっていけたということは、大きな自信になりました」

そんな岩岡さんが今いるのは、パリ。今年の夏、オリンピック・パラリンピックが開催される街だ。

五輪に向けて色付き始めているパリ市役所(2024年6月)

「居心地がいいのです」

歴史的な建築物やアート、自然、豊な食材に囲まれた街で、素敵に年齢を重ねる人々が生活する街。そんなパリでジョギングを日課としながら、フランスでのラグビー・ワールドカップの試合観戦、標高4,810mのモンブラン山エリアでの雲上スキー、ヨガ、水泳など、岩岡流スポーツ軸サバティカルを楽しんでいる。

シャモニー・モンブランでの雲上スキー (2024年1月)

取材・文:星谷なな