今日、さまざまなビジネスシーンにおいて、人が肉体的・精神的・社会的に満たされた状態を指すといわれる“ウェルビーイング”(※1)が注目を集めている。このウェルビーイングを社会全体で実現するためには、全てのライフステージにおける人の生き方に目を向けていくべきだ。特に日本は、他国に先駆けた課題先進国として「高齢化」に直面している中で、年齢を重ねても誰もがウェルビーイングに、自分らしく「よく生きる」ためには、何が必要なのだろうか。
このウェルビーイングを長年にわたり追求している企業がある。1990年に企業哲学として「Benesse(よく生きる)」を導入し、1995年にはそれを社名に掲げたベネッセグループだ(「よく生きる」は英語でいえばWell-beingである)。「Benesse」導入以来、従来の教育事業のみならず、介護や生活など、人の一生におけるライフステージごとの課題を解決するため、さまざまな事業を展開してきた。
AMPでは同社の取り組みや思いを通じて、誰もが自分らしく「ウェルビーイング」に生きるためのヒントを探る記事を連載している。第4回のテーマは「高齢者のウェルビーイング」。「Benesse(よく生きる)」を掲げ、始まった介護事業を通じ、ウェルビーイングの実現を目指しながら「人」とテクノロジーの融合で取り組む独自の介護DXについて、ベネッセグループの中で介護事業を推進する、株式会社ベネッセスタイルケア執行役員の祝田健氏、松本知恵氏に話を伺った。
※1 「世界保健機関憲章」より
- 【前回の記事はこちら】
- 第3回:リスキリングは大人にウェルビーイングをもたらすのか?人生に学びが必要なワケ
年をとればとるほど幸せな社会をつくりたい、から始まった介護事業
教育事業におけるブランドイメージが強いベネッセグループだが、「Benesse」導入後の1995年から介護事業をスタートしており、この領域におけるサービスの提供は28年の長きにわたる。全ての人の一生に寄り添い「よく生きる」を実現する上で、高齢者に向けたサービスの開始は必然であったと、祝田氏は語る。
祝田氏「当時の社長・福武總一郎には、人の『よく生きる』を支援するベネッセが人生の最期にも『よく生きる』ためのサービスを提供することは当然だ、という考えがありました。その頃、介護サービスは行政が主体として行われていましたが、これからはお年寄りが、年をとればとるほど幸せな社会となるためにご本人やご家族が心から納得のいく介護サービスをもっと選べるようにしたい、ということからベネッセの介護事業は始まりました」
高齢者の「よく生きる」を実現するという視点から始まった介護事業。その最初の取り組みは、同社が得意とした教育からのアプローチだった。当時、介護従事者向けの登竜門的な資格であったホームヘルパー2級の養成講座を民間初の厚労省認可講座として開講。その後、在宅介護、グループホーム、有料老人ホームへと、徐々に事業を拡大していった。ステップを踏みながら少しずつ領域を拡大していった背景には、「絶対に撤退してはならない」という並々ならぬ覚悟があったという。
祝田氏「介護事業を開始するに当たり、『人の命に関わるようなサービスを、本当に最後まで責任と意志を持ってやり切れるのか』ということを、当時の社長や経営陣は、経営会議で強く問われたといいます。その問いに、私たちは今もずっと向き合っています。お客様一人一人にとって、本当に質の良いサービスを最後まで自信を持って提供できるのか?それが永遠のテーマであり、使命だと考えています」
介護業界では慢性的な人材不足などの問題から、サービスの質を問われることも多い。どのようにして入居者一人一人への介護の質を確保しているのだろうか。
一人一人の“ありたい姿”に、徹底して寄り添う
ベネッセスタイルケアが運営する有料老人ホームの責任者などを歴任し、介護の現場から高齢者のウェルビーイングと向き合ってきた経験を基に現在、介護人材育成に注力しているのは、同社の松本氏だ。
松本氏「ご高齢者のウェルビーイングは、一人一人違う“その方らしさ”に寄り添って、“ありたい姿”に近づいていただくことだと思っています。それは人によって異なるので、それぞれのうれしいこと、こだわり、夢などをまずは『知ること』が必要です。そして、もう一つ重要なのが、現在だけでなく、過去、そして未来を見るということ。ご入居者様の平均年齢は89歳ですが、今までどのように生きてこられたのか、どのような夢を持ち、どう生きていかれたいのか。それを把握した上で、一人一人に寄り添っていくことがなにより大切だと考えています」
戦争や高度経済成長など、激動の時代を生きた人々には、個人として自由な選択ができなかったケースも多い。チャレンジしたいことを諦める理由は、年齢ではないのだろう。
松本氏「認知症の方で、入居されてから怒ったりするなどのBPSD(認知症に伴う行動心理学的症候)の症状が見られているご入居者様がいらっしゃいました。しかし、じっくりとお話を聞くうちに、そのような人生を歩まれる中でも“ありたい姿”を実現していた、その方にとって大事にしていたことがありました。
それは、旦那さまのためにおいしい料理を作ることでした。心を込めてご飯を作り、『おいしい』と旦那さまに言ってもらうこと、それがこの方にとってなによりの喜びなのだと分かりました。介護が必要になり、料理を自宅やホームでされていなかったのですが、それを知り、スタッフと共にその方の作りたい料理を作りました。その後、病気や介護が必要になることで諦めていた料理をされるようになり、その方が旦那さまのために作っていた秘伝のレシピで料理を作ることで、ご家族やホームのお仲間に喜んでほしいという夢が生まれました。
高齢になり、介護が必要になることで、やりたいことを諦めてしまうのではなく、私たちが関わるからこそ、やりたいことができるようになり、“ありたい姿”に近づいていただけることを大切にしています」
「危ないから包丁をお渡ししない」などの制限や一律的なサービスを行うのではなく、このように人生に寄り添い、身体・認知機能、体調、病気・薬の影響など、さまざまな点も考慮しながら、一人一人に合わせたサービス提供のプランを立てていく。これがベネッセのこだわる介護なのだ。
松本氏「プランを立てるための一人一人へのヒアリングは、現場の介護スタッフ、機能訓練指導員、お客様相談担当など、みんなで行います。一般的に介護業界ではケアプランと呼ぶことが多いのですが、私たちはそれを『生活プラン』と呼びます。それは、ご入居者様それぞれのありたい姿、状態を目指すためのものだからです」
介護の基盤となる「人材」育成にも注力
さらに、入居者のQOL向上に寄与する人材を育成するために、ベネッセスタイルケアでは「マジ神(※2)」制度という独自の社内資格を導入している。「マジ神」とは、高度な専門性を備える“介護の匠(たくみ)”であり、「認知症ケア」「安全管理と事故の再発防止」「介護技術」の3分野において質の高い介護を実践する腕利きのスペシャリストだ。
※2 「マジ神」は、介護の匠がケアすることで、険しい表情の認知症の方が数時間で笑顔になった際、若手社員が「マジ神っすね」と言ったことが由来。
松本氏「介護は非常に奥が深い世界です。その中で、それぞれの個性、ありたい姿や状態を捉える力が、すさまじく高いスタッフがいます。実際にそのスタッフがご入居者様と接すると、一瞬で表情が明るく変わることに驚かされます」
この「マジ神」を、制度として取り入れた背景には、「介護職の社会的地位を向上させたい」という思いがあった。
松本氏「世間一般では介護職のイメージとして『3K』という言葉があるように、大変な仕事、つらい仕事だと思われる方も多くいます。しかし、介護職は人に寄り添い、ありたい姿を実現するという非常にクリエイティブで、高い専門性を併せ持つ魅力ある仕事です。こうした制度を創出し、世の中に発信することで社会の理解を深め、介護職の社会的な地位を上げたいと考えました。
また、より良い介護を実現するためには、『マジ神』の能力を本人だけにとどめることはもったいない。そこで、それまでは特殊能力のように捉えられていたマジ神の思考や観点など“頭の中”を言語化し、体系立てた研修へと落とし込んで、マジ神のようにQOL向上を実現できる人材育成にも注力をしています。こうした制度や育成によって、質の高い介護を担える人材が増えていけば、その先に高齢者のウェルビーイングへとつながるのではないかと思います」
こうした取り組みの結果、同社において認定された「マジ神」は延べ192名に上る(2022年4月時点)。
人を中心に、介護の匠のナレッジとテクノロジーを融合
現在、ベネッセスタイルケアは介護の匠である『マジ神』とテクノロジーを掛け合わせるユニークな介護DXを推進している。人の力とテクノロジーにはどのような関連があるのだろうか。介護DX推進部の部長を務める祝田氏はこう話す。
祝田氏「私たちの根底にあるのは、一人一人に向き合う介護です。DXはその実現のための方策でありツール。いくら現場が大変だからといって省力化や合理化のためにデジタルの力を使っては本質が失われます。だからこそ順番が大切でした。まずは人材の育成や環境づくりのメソッド開発を優先し、それがある程度できた上で、日々スタッフが追われていた紙の記録業務をデジタル化する、オリジナルの業務支援システムを開発しました。そして、次のステップとして『マジ神』を組み合わせてはどうだろう?と考え始めました」
新たなソリューションを模索する中で、たどり着いたのが「マジ神AI」だった。マジ神のノウハウをデータ化し、テクノロジーにより暗黙知を具現化するという、業界でも未踏の取り組みだ。
この「マジ神AI」は、新人スタッフの育成にも役立つという。マジ神の対応がヒントとして提示されることで、新人スタッフでも匠の視点で「何にアプローチすべきか」現場で学ぶことができるからだ。
祝田氏「今後はより精度が高く使いやすいシステムに改良したいと思っています。ただし、こうしたDXを推進する中でも、最後はやはり『人』。システムが提示するのは答えではなくヒントです。ご入居者一人一人のその方らしさにスタッフを導くためのソリューションをつくりたい。その一つがこの『マジ神AI』だと考えています」
マジ神のような高度なスキルを身に付けるには、研修に加え、現場での実践でスキルを磨く必要がある。しかし現実には専門性を高めていく過程の中で辞めてしまうケースもある。そのような課題にも、マジ神AIは役立つと祝田氏は考えている。
祝田氏「マジ神になったスタッフは顕著に離職率が低いのですが、それはご入居者様のウェルビーイングが高まることで、職員本人のウェルビーイングも向上するからだと思います。その醍醐味を味わえるまでの期間を、マジ神AIで短くしたい。実際、マジ神AIを導入したホームではスタッフがやりがいを感じるスコアも上がっています。日本では今後10年間で60万人の介護職が足りなくなるともいわれており、人材不足は大きな社会課題です。こうした取り組みで人材が定着することは、業界全体の急務なのです」
ウェルビーイングのために一人一人の人生を知り、共に生きる
介護業界全体をアップデートしていくことは、高齢者、ひいては日本全体のウェルビーイングにも寄与するのだろう。より良い社会を実現するために、私たちはどのような視点で高齢者のウェルビーイングを捉えるべきなのだろうか。
松本氏「年をとるということは、幸せが減ることでは全くなく、年をとればとるほど人は幸せになるのだと思います。そして、その方が幸せだと、関わる人もまた幸せを感じることができます。介護離職、老老介護、ヤングケアラーなど、今の日本には幾つもの社会課題が存在しますが、課題のまま止まっていることも事実。そこにもっと専門性が高い人が関わることで、状況は変わっていくのではないでしょうか。
介護の仕事をすると、『人の人生とは何か』を常に問い続けながら、ご入居者様の人生が幾重にも重なって自分の中に入ってくる感覚を覚えます。一人一人の人生を知り、共に生きる。それをこれからも続けて『年をとればとるほど幸せになる』社会をつくるのだ、という私たちの命題に向かって、一歩ずつ歩んでいきたいと思います」
介護の仕事に従事するということは、時には人の死を目の前で体験することでもある。現場で経験を重ねてきた祝田氏も、そうした体験をしてきた。
祝田氏「ご入居者様が本当にやりたいことをかなえた、その最期に立ち会うことができると、それは自分にとっても一生のよりどころになります。一人一人に寄り添うことは決して簡単なことではなく、明確な答えもありません。しかし、その方の立場にどれだけ立てるか、ということを突き詰めていくと想像を超えるほどにいろいろな価値観に出会うことができます。
私がこれまで一番うれしかったのは、『家族ではもうどうしていいか分からないことを、アンタはやってくれた』という言葉でした。誰よりもご本人のことを知ろうとした結果の先に出会える体験は、かけがえのないものです。今後も、サービスの進化・深化のためにさまざまなテクノロジーが必要になると思いますが、最後に帰着するのはやはり『その方らしさに、深く寄りそう。』こと。そのための実践を続けていきます」
ウェルビーイングの原点は一人一人違う、ありたい姿や夢を知り、その実現に向かって寄り添うこと。そして、年をとればとるほど幸せを感じる一人が増えていけば、その先に社会全体のウェルビーイングもまた見いだせるのであろう。
さまざまな人のウェルビーイングに焦点を当てていく当連載。第5回からは、ウェルビーイングな生き方や社会とは何か?多様な人の視点や対話から考えていきたい。
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