ニューヨーク市が11月1日、求人広告での給与情報の開示を義務づける改正法、通称「給与透明化法」を施行したことを機に、米国の求人・求職市場が変わり始めている。

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求人広告に給与水準を明記するというのは、日本人感覚では当たり前だが、米国では必ずしもそうではない。これまでの深刻な人手不足を受け、パートタイムの時給は明示されるようになったが、フルタイム職の求人広告に記されているのは役職や職務内容、資格要件だけで、給与情報が抜けていることが珍しくない。面接の後、内定を知らせるオファーレターに提示された金額をもとに、交渉を通じて給与を決めるケースが一般的だ。

こうした慣行が、性別、人種別の賃金格差につながっているとの認識から、ニューヨーク市は2021年12月に「給与透明化法」を可決。2022年11月に施行した。米国ではコロラド州に続く2例目となる。

同法が求めているのは、日本の求人広告にあるような、「採用したらこの金額を支払います」というだけの情報ではない。役職・職種ごとの給与レンジ、要するに「最高額と最低額」の記載だ。だから事実上、社内全体で給与情報を共有することになる。求職者にはプラスでも、企業にとってはかなり厄介だ。

下限レベルにあると分かった自分の給与に不満を抱き、賃上げを要求する社員がいても不思議ではないし、職場のムードが悪くなる可能性や訴訟リスクも高まる。さらに言えば、他社との給与の比較が容易になることで、求人広告が逆に、優秀な社員の流出に拍車をかけることにもなりかねない。

新聞の求人広告も給与開示義務の対象となる(出典:shutterstock)

こうした中、大手企業が実際に開示し始めた給与レンジを見ると、同一職種でも上下の振れ幅がかなり大きい。約2倍、あるいはそれ以上の金額範囲を設定することで、透明化法による悪影響を抑えるための自衛手段に出ている様子もうかがえる。これが逆に、求職者をさらに混乱させているとの指摘もある。

ただ、それでも給与水準の透明化に向けた法制化の流れはもう止まりそうにない。コロラド州、ニューヨーク市に続いてワシントン州、ニューヨーク州、カリフォルニア州などが2023年に同種の法律を導入する予定。同法の導入の背景とともに、今後の求人市場への影響を探ってみたい。

格差是正が透明化の狙い、男女の賃金格差は1対0.83

この「給与透明化法」の目的は主に、性別や人種間の賃金格差を是正することにある。格差の“元凶”の一つとされた応募者への「給与履歴」(サラリーヒストリー)の提示要求と、この履歴に基づいた給与の設定は、ここ数年で約20州が禁止したが、それでも格差は続いているのが現状だ。

それでは実際に、米国における性別、人種別の賃金格差とはどの程度のものなのか。

まずは男女格差だが、米労働省女性局が公開している2020年の数字を見ると、職種を問わず全体で、年間賃金の男女比は1対0.83という比率だ。参考までに、日本の賃金格差は国税庁の最新データで1対0.55(2021年の統計から算出)だから、日本よりはかなりマシなのだが、それでも「同一労働同一賃金の原則」の下、長年続く男女差を問題視する声は常にあった。

給与の男女格差是正へ (出典:shutterstock)

人種別の格差はおそらく職種の違いもあって、さらに大きい。人種別の男女ごとに集計したデータを見ると、白人男性を1とした場合、白人女性の年間給与レベルは0.78。アジア系の男性は1.24、女性は1.0と最も高く、逆にヒスパニック系の男性は0.65、女性は0.57。黒人男性は0.74、女性は0.64との結果が明らかになっている。

ちなみに日本では円安の影響もあり、他国と比べた自国の“低賃金”に焦点が当たっているが、参考までに求職サイトJobtedが引用する米労働省労働統計局(BLS)の最新データを見ると、米国の2022年の平均給与は年間5万3490ドル(約749万円:1ドル=140円で計算)。週当たりでは1028ドル(約14万 4000円)との数字が示されている。

大企業の給与水準、同一職種でも約2倍の振れ幅

ニューヨーク市の「給与透明化法」の施行時期は、企業側に準備期間が必要との理由で、当初予定より半年延期されたが、その内容はほぼ最初の決定通り。対象となるのは従業員4人以上の事業所で、うち1人でも市内で働いていれば透明化法が適用されるというから、中小零細企業にとってもひとごとではない。

同法に違反した場合、初回に限って猶予が与えられるものの、罰金は最大25万ドル(約3720万円)。「雇用担当弁護士と組んだ綿密な対応が不可欠」(企業経営者向けメディア『Human Resource Executive』)といった状況だ。

全国規模で事業を展開する大手企業は本社所在地がどこであれ、ニューヨーク市の決定を無視できず、すでに給与レベルを開示し始めている。

具体的な数字を見ると、例えばアマゾンのソフトウェアエンジニアの年俸は、雇用地域やスキル、経験別に、11万5000〜22万3600ドルのレンジ(11月10日時点のキャリアページ掲載情報)。給与分析などを手掛けるlevels.fyiのデータでは、アマゾンの同職の基本給はエントリーレベルからチーフ職まで平均13万〜24万ドルで、これにボーナスやストックインセンティブが個別に上乗せされるという。

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ここで問題となるのは同一職の給与レンジが非常に大きいことだ。企業が意図的に大きくレンジを取って、実体を分かりにくくしているとの指摘もある。

『フォーチュン』誌によると、例えば世界4大会計事務所の一つ、プライスウォーターハウスクーパースのコミュニケーションディレクター職の場合、ニューヨーク市での年俸は14万7000〜46万6500ドル(約2058万〜6530万円)。最低から最高まで、3倍以上の差がある。

また、通信キャリアのベライゾンでも、ニューヨークで働くデータサイエンティスト(4年以上の経験者)の年俸は11万4000〜21万1000ドル(約1596万〜2954万円)。

勤務地や経験、その他要素を考慮して決定するとは言え、10万ドル規模の給与差を設定し、かつ個別にボーナスなどを上乗せするとなれば、賃金体系の実体はほとんど分からなくなる。

給与情報は社員にもプラス、企業は透明性の確保が必須に

それでも求職者だけでなく、現社員にとっても、給与透明化法に基づく開示情報は参考にはなり得るという。

人材・報酬コンサルタント会社Prosper Consultingの創業者、Denise Liebetrau氏は給与情報に困惑する社員に対し、まずはレンジの中央値を参照し、求職サイトなどが集計している同一職種の平均データと比較。その上で、レンジの上限付近を目指した交渉戦略を練ることが可能だと助言している。

また、給与透明化法は会社側の雇用・報酬に関するスタンスをより深く知るチャンスにつながる。

今のところ、雇用や社内への悪影響を抑えることに注力している感のある企業サイドだが、仮に「給与額の不透明さ」にフォーカスされれば、信頼を失うことにもなりかねない。「中途半端な情報開示は逆に、自社に不利になると雇用主は気づいている」と、法人向け賃金分析サービス会社Syndioの幹部は指摘する。

そうなればいずれ、給与情報を正しく開示した上で、差別化に向けた特典や福利厚生、魅力的な社風といった情報を盛り込む努力が必要となる可能性があるという。

特に、透明化法への対応が難しいのは、給与面で大手に太刀打ちできない中小零細企業だが、仮にニューヨーク市から他都市へ拠点を移したところで、透明化法を導入する州がさらに増えれば、そのうち逃げ場はなくなってしまう。

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ただ、透明化法がより広範に施行されても、もともとの目的である「格差是正」が狙い通りに実現するかはやや見通しにくい。米国ではインフレを抑えるための急速な利上げの影響で景気後退懸念が高まり、明らかに人手不足の「売り手市場」だった雇用市場にやや変化の兆しが見えることがその一因だ。ツイッター、アマゾン、メタなど巨大テック企業による大量解雇も相次いでいる。企業側がこの先どれだけ、同法の趣旨に沿って是正に取り組むかは、国全体の雇用情勢次第とも言えそうだ。

文:奥瀬なおみ
編集:岡徳之(Livit