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欧州では過去10年間、イノベーション分野のエコシステムが飛躍的に発展し、大学発のスピンオフベンチャーの数が加速度的に増えたが、その割に結果が出ていないとの批判がここに来て目立っている。
ベンチャーキャピタル(VC)などの投資家サイドから見ると、大学の「技術移転オフィス」(TTO:日本では技術移転機関=TLO)の欲深さが、欧州のスタートアップの成長を阻んでいる要因。特に英国では、知的財産権の移転契約・ライセンス契約を担当するTTOが「独立企業」として、自らの収益を最大化しようとしていることが企業の足を引っ張っているというのがVC側の主張だ。英国のVC、エア・ストリート・キャピタルの調査では、TTOとの交渉を重ねる起業プロセスに、創業者が不満を抱いていることが分かったという。
ただ、個別の大学ごとにスピンオフの成果や創業者の満足度は異なる。この調査によれば、スピンオフ体験という点で最も評価が低かったのは英ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)。逆に最も高い評価を得たのがスイス連邦工科大学(ETH)チューリッヒ校。ETHの成功事例に目を向けることで、大学発ベンチャーの成功のヒントが見えてきそうだ。
欧州「ユニコーン」116社のうち大学発は4社、大学の“強欲”が重石か
日本では大学発ベンチャーとして、ユーグレナやサンバイオ、アンジェス、イーベック、ミクシィ、Gunosyなどの名が知られるが、米国では数あるスピンオフの中でも、スタンフォード大学に多額の収入をもたらしたGoogleのケースが伝説級だ。
日本の経済産業省の定義では、「大学発ベンチャー」は研究成果ベンチャー、共同開発ベンチャー、技術移転ベンチャー、学生ベンチャー、関連ベンチャーの5分類。ただ、「スピンオフ」(スピンアウトとも言う)に当たるのは、このうち主に研究成果ベンチャー。大学の研究室からの創業であり、大学側が知的財産権を譲渡あるいはライセンス供与し、代わりに資本参加する。企業が成長した後、例えばIPO(新規株式公開)時などに保有株を売却することで、大学側は収入を得るという形態を指す。
欧州でこのシステムが問題視されている最大の要因は、スピンオフベンチャーによる成功事例が少ないこと。英『Financial Times』紙をバックに持つ起業家のためのニュースメディアサイトSiftedによれば、「ユニコーン」の定義となる10億ドル以上の企業価値を持ち、かつベンチャーキャピタルが出資している欧州企業116社のうち、大学発のスピンオフ企業はわずか4社。データインテリジェンスのベルギーCollibra、AI創薬のフロントランナーである英Exscientia、リハビリVRソフトウェアのスイスMindMaze、次世代型のDNA/RNAシーケンシング技術を手掛ける英Oxford Nanoporeがその4社だ。買収されてエグジット(撤退)するケースも中にはあるが、それを考慮してもやはり少ない。
企業の成功を支える資金調達環境に、まずは問題がある。透明性の低いTTOが株式30〜50%を握り、知財の所有権が一体どこにあるのか疑問を抱かせるようなケースには、投資家は出資をためらう。結果的に、同じスタートアップであっても、大学組織とは無関係なスタートアップにVCの投資先も偏りがちだという。クリエイターファンドのJamie Macfarlane創業者兼CEOは、大学が50%を握る企業への出資案件を主流のVCに持ち込むことはできないと語っている。
創業者も不満 「成功しても母校に寄付しない」が6割強
英エア・ストリート・キャピタルはこのほど、公開データベース「Spinout.fyi」を通じ、世界のスピンオフ企業143社の情報を個別に収集したが、それによれば、欧州の大学は米国よりスピンアウト企業の株式を多く取得する傾向があり、中でも貪欲とされるのが英国の大学。企業創設時の平均出資比率は、英国では19.8%と、EU(欧州連合)の7.3%や米国の5.9%とは大きな開きがあった。実際のケースでは、大学側が25〜50%を要求するケースも珍しくないという。
また、ロイヤリティーの支払いという金銭面の契約も、スタートアップによっては負担が大きい。
さらには大学側が役員を送り込むケースや、起業前の交渉・手続きに半年以上かかるなどの事例も。結果的に創業者は自らのスピンオフ経験に対して否定的となり、「友人や同僚に同じ道を勧めるか」を10点満点で尋ねた調査の結果は平均4.6点。14%がゼロと回答した。たとえ事業に成功しても母校に寄付をするつもりはないと答えた創業者は6割強に上ったという。
調査の回答企業数は現時点ではまだ143社だが、欧州とカナダのベンチャーキャピタルの顧問を務めるトロント大学のアラン・アスプル-グジック教授は、この調査が示すトレンドは真実に近いと指摘する。一般的に欧州、特に英国では大学のTTO側が多くを要求するという点で、米国やカナダとは異なる印象があるとしている。
ETHは起業家精神を積極支援、フェローシップ制度が機能
エア・ストリート・キャピタルの調査では創業者らはかなりネガティブな意見を寄せたが、その中にあっても、自らのスピンオフ体験に対する創業者の満足度が最も高かった欧州の大学はETHチューリッヒ校。2位が英ケンブリッジ大学。逆に最も低かったのは英UCLで、オックスフォード大学がワースト2という結果となった。
このETHチューリッヒ校はロボット研究の名門。アマゾンが7億ドル強で買収した物流支援ロボット企業Kiva System(現アマゾン・ロボティクス)の共同創業者でもある著名ドローン研究者、Raffaello D’Andrea氏の所属先だ。
Kivaのほかにも数多くのスピンオフ企業が誕生しており、例えば、ラピュタロボティクス(東京本社)はD’Andrea氏の教え子だったモーハナラージャ・ガジャン(Gajan Mohanarajah)氏が共同創業したロボティクス・プラットフォーム開発企業。高度な4脚歩行ロボットで知られるエニボティクス(ANYbotics)社もETHからのスピンオフだ。
成功事例が増えれば、スピンオフ文化が形成される。早くからスピンオフを支援してきたETHでは、主に博士課程の学生の起業向けに、研修と助成金を提供するパイオニアフェローシップ・プログラムを立ち上げたことが成功要因の一つ。この制度を利用したスピンオフ企業を中心に、ETH出身企業は第三者への事業売却を通じたエグジットに成功する確率が高いという。
ETHは2008年と2015年に続く3度目の関連調査の結果を2020年6月に発表したが、この調査はスピンオフ企業のパフォーマンスや投資価値、経済的付加価値を詳しく分析・評価したもので、スイス経済や雇用への影響にも踏み込む内容となっている。
エア・ストリート・キャピタルによれば、スイスでは、スピンオフ企業に対する大学側の出資比率は通常5〜8%。EUではほぼ平均的とみられるものの、英国に比べれば低い。また、ロイヤリティーは通常、売上高の2%程度。これはエア・ストリートが提唱する「1%以下」を上回るが、大きな負担となるような数字でもない。ETHにとってはスタートアップの足かせにならない程度のスピンオフ要件とともに、起業家精神を支援する制度全体がプラスに作用しているといえそうだ。
逆に、創業者による評価が低かったUCLやオックスフォード大学について、具体的に何が問題なのかを知ることは困難だが、UCLのテクノロジー商用化企業であるUCLビジネスのAnne Lane CEOは、現行のスピンオフ制度に対する最近の批判に反論し、全面的に現行システムを擁護する記事を投稿している。
今の制度は公的機関や慈善団体が出資する研究・イノベーションを長期的に支援するために特別に設計されたものであり、従来の投資家が行うのは難しい領域。これまでの例を見ても、現行エコシステムの成功は明らかだと指摘している。
Googleの少数株で巨額のリターン=米スタンフォード大学
米国に目を転じると、有名なWin-Winのストーリーはスタンフォード大学発のGoogleのスピンオフだ。Googleの共同創業者ラリー・ペイジ氏が在学中に開発した「ページランク」(検索用アルゴリズム)の特許権は大学側に帰属するが、同大学はペイジ氏ら2人の創業者に新会社の株式180万株という少数株と引き換えにライセンスを供与。GoogleのIPOに際しては、うち10%を売却し、3億3600万ドルの収入を得た。
超成長企業のごく少数の株式は、何者にもなれなかった企業の株式50%よりはるかに価値があるというわけだ。
「ユニコーン」(企業価値10億米ドル以上の未公開企業)となった英スピンオフ企業2社を見ても、実は大学側の持ち分はごくわずか。Oxford NanoporeとExscientiaに対するオックスフォード大学とダンディー大学の持ち分は0.8%、5%だが、それでもその価値は今や1920万ポンド(31億5000万)、5210万ポンド(約85億6000万円)に上る。
より多くの持ち分を要求して創業者と個別交渉を続けるTTO側にもたしかに言い分はある。「創業者の中には生涯をその研究に捧げた人もいれば、すでに成熟した研究グループに参加した人もいて、個別の取り決めは不可欠」「研究の中心にありながら企業への参加を望まない人に報酬を分配するためにも、大学がその分を確保する必要がある」(ケンブリッジ大学のTTO、ケンブリッジ・エンタープライズのトニー・レイヴンCEO)という事情だ。
ただ、個々を重視した対応はシステムを不透明なものにしてしまう。関係者全員の権利を守ることにこだわるあまり、スピンオフ企業の成長を阻害することにもなりかねない。VCとしては、まずはベンチャー支援に軸足を置き、「出資比率最大5%」などの単純なルールを設定すべきとの見解だ。
大学の強みは営利とは離れたところでのアカデミックな研究開発。エア・ストリート・キャピタルのNathan Benaich創業者兼ゼネラルパートナーは、エネルギーの自立やバイオテクノロジー、半導体、新素材、宇宙など、世界の様々な問題に取り組む企業は本来、大学という環境から自然に生まれると指摘する。
欧米だけでなく、世界的に研究成果の収益事業化という流れが広がる中、スピンオフベンチャーが最大限にポテンシャルを発揮するためのシステムの進化はこの先、成功事例を手本にしながら、着実に進むことになりそうだ。
文:奥瀬なおみ
編集:岡徳之(Livit)