終息が見えないコロナウイルスの流行によってエンタメ産業の明暗が分かれている。

映画は興行収入が激減、音楽はライブ活動が不可能になった一方で、Netflixなどの動画配信ストリーミングサービスや『あつまれどうぶつの森』などのゲームは需要が伸びている。リアルな場で体験するエンタメが次々と停滞していく中、バーチャルな空間で味わうエンタメは急速に発達しているのだ。

果たして今後、娯楽を提供するビジネスの行方はどうなっていくのか。2020年代のエンタメビジネスを考える上で押さえておきたい本がある。

宇野惟正と田中宗一郎による『2010s』(新潮社)だ。

この本は、日本におけるハリウッド映画のビッグタイトルに関する興行成績の伸び悩み、新世代ポップスターの来日公演の激減、『ゲームオブスローンズ』をはじめとする重要な海外ドラマシリーズの国内外における認知度の極端な差を問題提起する。

これらの状態を長く放置しておくと、アメリカを中心とする映画やドラマ、音楽の「流れ」が理解できなくなり、ますます国内外のエンタメ産業の乖離が進む――という危機感から、2010年代に主に英米の映画・ドラマ・音楽産業で何が起こってきたかを言語化していく。

今回は、本書の中から日本の音楽ビジネスの変遷について取り上げ、そこからどのようなことが読み取れるか、また、今後の日本のエンタメ産業について考察したいと思う。

インディロックの台頭で、洋楽ビジネスが後退

日本の音楽業界では、ストリーミングサービスが主体になった結果、CDの時代が終わり、ミュージシャンは主にライブと物販で稼ぐようになった。それだけでなく、CDビジネスの崩壊とともに、英米ポップミュージックも後退していった。

しかし本書は「日本はストリーミングへの移行が遅れたせいで英米のポップミュージックの動向についていけなくなった」という雑な理屈を採用しない。ストリーミングへの移行の前に、2010年代にはまずインディロックの流行があった。従来の日本における洋楽ビジネスのセオリーはこうだ。

日本にあるソニー、ユニバーサル、ワーナーという3大メジャーレコード会社の子会社の洋楽CD担当者は、「担当者単位」ないしは「レーベル単位」のトータルで売上を出すことがKPIだった。

そして一定の宣伝予算を前提にして各音楽雑誌に働きかけ、同時にCD量販店に何十万円かの展開費を払って看板や展開スペースを作り、一枚でも多く入荷してもらおうとしてきた。その結果、レコード会社とメディアと小売店がWIN-WINの関係にあった。ところがインディ・ロックが台頭するとどうなったか。

たとえばインディ・ロックを代表するヴァンパイアウィークエンドというバンドはホステスという輸入盤ディストリビューター(正確にはイベンターやレーベルも兼ねていたコングロマリット)がプロモーションを仕切っていた。

ところがホステスは、従来の洋楽プロモーターとは異なり、リスクを背負って赤字覚悟でアーティストや作品を育成しようという発想がなかった。

アーティストに取材稼働させることを極力嫌い、しかし露出媒体数だけは欲しい――という、雑誌側からするとウリになる人気アーティストの表紙撮影やロングインタビューがしづらい、困った存在だった。

CDビジネスは基本的には「いかにイニシャル(最初)の発注枚数を増やし、小売店頭を賑やかにして発売日から最初の数週間でどれだけ売るか」が勝負だ。にもかかわらず、メジャーと比べると小規模事業者であるホステスは返品をおそれて、CDショップに新譜を大量の押し込むことをしなかった。

前述の通り、CD量販店はそれまでレコード会社のプロモーターやレーベルから、大量の新譜を入荷することとひきかえに店舗内のプロモーション用のコーナー設営費用などを名目に「展開費」を受け取り、CDの実売で利益を得るという二重に儲けるモデルを採用してきた。ところがインディロックの場合、前者が期待できない。

さらには洋楽雑誌の表紙を飾るといったプロモーションも期待できない。すると仕入れても売れないというリスクを負いたくないCDショップは入荷を渋る。

洋楽ビジネスの崩壊が、日本の独特な音楽市場をもたらす

さらにこんな出来事が起きた。カナダのインディ・ロックバンド、アーケイド・ファイアはDIY精神を重視するパンクコミュニティ出身だから、ライナーノーツを付けて歌詞の対訳を載せるといった日本盤でのローカライズを拒否。結果、日本盤リリース自体がされず、そうなるとレコード会社はプロモーション予算捻出ができない。

すると、CD量販店は展開費+実売モデルが採用できず、洋楽中心の音楽雑誌も商売あがったりになる。結果、日本のCDショップはレコード会社からの展開費と手堅い実売が見込めるアイドルや邦ロックに次第にシフト。

やはりレコード会社のプロモーション費用を当て込んでいる音楽メディアも邦楽中心に変わる。そして洋楽離れの進んだ音楽ファンに向けて、ロックフェスも邦楽中心となる。

こうして日本の洋楽ビジネスのセオリーは崩れ、欧米圏のようにラップとポップが流行するのではなく、ロックとアイドルが席巻する日本の特異な音楽市場ができあがった。

このあと本格的にCDからストリーミングへ移行し、「アルバムがフィジカル(CD盤で)リリースされないとレコード会社のプロモーション予算が付かない」という日本のレコード会社の商慣習がさらに災いし、洋楽は一般層にますます届かなくなったが、それはいわば「ダメ押し」の一撃にすぎない。

この一連の流れは「インディ・ロックがポップカルチャーに多大な影響を与えた」というレベルの話ではない。これこそが日本国内外のポップミュージックの関心の乖離が進み、日本の音楽ビジネスをガラパゴス化させた根本原因だ、と指摘するのが本書の白眉である。

「資本の流れ」と「テクノロジーの発達」「国・地域ごとの商慣習」の組み合わせでエンタメ産業は変化

要するに「コンテンツ自体」だけでなく「コンテンツのデリバリー」に目を向けなければ、変化の本質は捉えられない。どんなプレイヤーが、どう届けるのか、あるいは、なぜ届けられないのかという点を理解する必要がある。

日本における今日のアイドルや邦ロックバンドの隆盛は、単にリスナーの好みからそうなったわけではない。作品を届けることに関わる音楽ビジネス業界(レコード会社、CDショップ、音楽メディア)の懐事情、経済原理が深く絡んでいる。では「コンテンツのデリバリー方法」を左右する要因は何か?

私なりにポイントを整理すると「資本の流れ」「テクノロジーの発達」「国ごとの商慣習」でまとめられ、これがエンタメ産業の変化を引き起こす。

 「資本の流れ」はインディロック台頭による3大メジャーに変わるプレイヤー(資本の出し手)の登場や、イベントプロモーターであるライブネイションによる音楽ビジネス再編、ディズニーが『スターウォーズ』やマーヴェルを傘下に収めたことなどだ。お金の出し手が変われば、当然、手法も望むことも変わる。

NetflixがAmazonPrimeVideoなどに比べて映画業界で敵視する勢力が多いのは、彼らだけが旧来の映画業界からすれば外様であり、かつ映像を主たる事業としているプレイヤーだからだ。

従来の映画業界人からすれば、思惑もビジネスモデルもまったく異なる存在だから警戒されているし、消費者からすれば、まったく異なる存在だからこそ新しいタイプのコンテンツを期待する。

「テクノロジーの発達」はWi-Fiの普及によってストリーミングサービスが続々登場したことなどを指す。ハードの変化を前提にアプリケーションも変わり、それに合わせて作品内容も変化する。

たとえば、ストリーミングサービスでは再生回数ごとに売上がミュージシャンに入るから、短い曲が流行る。しかしテクノロジーだけで世の中は動かない。大手レコード会社やミュージシャンが乗ってこなければ、音楽ビジネスの大きな潮流は変わらないからだ。だから「資本の流れ」と合わせて見る必要がある。

「国・地域ごとの商慣習」は、資本の流れとも関連するが、ここが異なると「あの国で起きている大変化がこちらでは起きていない」「北米で起きた大変化の結果、日本は全然違ったかたちで変化した」ということが起こる。

北米の映画や音楽業界で一大コングロマリットが誕生し、テクノロジーの発達によって作品のありようや消費のされ方が変化しても、国・地域によってはそれらの影響が限定的なことが起こりうる。

K-POPアイドルや韓流スターの画像・映像が世界中で拡散され、日本のアイドルやミュージシャン、セレブの画像・映像があまり流通しないのは、韓国は著作権管理・運用が日本より柔軟、寛容だからだ。

90年代までは韓国は権利にずさんで後進的だと見られていたが、「バズったもの勝ち」となったこの10数年では、日本の商慣習の方が時流に合っていない状況にある。

本書の史観では、インディロックブームとストリーミング台頭によって日本ではCD量販店や音楽雑誌の洋楽離れが進み、フェス/大型イベント映えする邦ロックやアイドルが台頭した、ということになる。

一聴するとわかりにくい理屈だが「資本の流れ」「テクノロジーの発達」「国・地域ごとの商慣習」の3点を押さえれば理解できる。

断っておけば、筆者は日本のガラパゴス化を悪いとは思っていない。たとえばトルコやイスラエルの音楽が過度なアメリカナイズを逃れてユニークなサウンドになっているように、たとえば日本のアニソンや一部のロックも海外の人間からは興味深いものに映っている。「違い」をうまく売り出せばビジネスチャンスになる――その最たる成功例がK-POPであり、日本のアニメだ。

コロナウイルスの影響で変化する日本のエンタメビジネス

おそらく現在起きているコロナの影響はしばらく続き、エンタメ事業者の収益に決定的な影響を及ぼすだろう。

「資本の流れ」は必然的に変化するだろう。資金難にあえぐ企業の買収を中心とした合従連衡の動きは避けられない。

この危機に乗じてディズニークラスのグローバルプレイヤーが国・地域ごとに存在するローカルチャンピオンを吸収する動きが生じれば、「国・地域ごとの商慣習」にすら影響が及ぶかもしれない。そしてそれと併行して「カネを使わず新たなヒットの手法を編み出す」新規プレイヤーも必ず現れる。

事態が長期化すればするほど外出・集合困難な状況を前提とした「テクノロジー」を駆使した娯楽が伸長するだろう。

たとえばすでにNintendo Switchは本体が長く品切れ状態が続いているが、次に起こるのはおそらくSwitchのようなデバイスや各種ソフトウェアを思わぬ方向に使った表現・流行の台頭だ(「『どうぶつの森』を使ってリモートワークをしよう」といった行動はその入り口に過ぎない)。

「国・地域ごとの商慣習」もそれぞれに異なる(収束の時期も異なれば、自粛度合いなども異なる)。日本はもともと芸術に対して公的セクターの補助が弱かったが、今後も政府の補償は見込みづらいだろう。

これにより、「いざというときは自分たちで守らなければいけない」という意識は、日本のエンタメ産業の従事者の振る舞いにも、そして当然ながら表現の端々にも今後表れてくるだろう。それは諸外国の感覚とは決定的に異なるはずだ。

ともあれ、本書を片手に今は自宅で本書を片手に2010年代の復習をすることでコロナ疲れを癒し、ポストコロナの時代の空気を体現する新たな作品やスターが生まれることを願おう――それが日本で流行るかどうかは未知数だが。

文:飯田一史