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ナイツといえば、いま最も人気がある漫才師のうちの1組だと言っていいだろう。彼らの漫才は若者からお年寄りまで幅広い世代に支持されている。浅草の演芸場で鍛えた漫才の技術には定評があり、芸人など同業者からの評価も高い。
タレントとしての好感度も年々上がっている。ナイツは2019年の『日経エンタテインメント!』の「好きな芸人ランキング」では10位、『週刊文春デジタル』の「好きな芸人ランキング」では8位に入った。
日経エンタテインメント「好きな芸人ランキング」
ナイツの塙宣之(はなわ のぶゆき)は現在、一般社団法人漫才協会の副会長も務めている。名実ともに東京の漫才界を背負って立つ存在となっているのだ。ただ、彼らがこれほどの地位を確立したのはここ数年のことだ。デビューしてからしばらくは、自分たちの漫才の形を模索して試行錯誤していた。
現役最強の漫才師「ナイツ」はどのようにして生まれたのか。その過程を振り返っていきたい。
例えるなら「希望していない部署」への配属。陽のあたらない日々での苦悩
塙宣之と土屋伸之(つちや のぶゆき)は大学の落語研究会でコンビを結成した。2人はウッチャンナンチャン、出川哲朗らが所属するマセキ芸能社に入った。土屋の母親が演歌歌手としてこの事務所に所属していたからだ。
彼らは芸人としてテレビに出て売れることを夢見ていた。だが、当時、マセキ芸能社の社長だった柵木眞は、ナイツの漫才はテレビよりも舞台に向いていると考えて、浅草行きを命じた。漫才協会に入れて、浅草で修業をさせることにしたのだ。
同じくマセキ芸能社に所属する内海桂子に弟子入りするという形で、ナイツは浅草演芸界の門を叩き、浅草の東洋館という演芸場に毎日通い詰めることになった。
ナイツが入った頃の浅草は完全に時代に取り残された場所になっていた。演芸場の客席は連日ガラガラだった。彼らはそこで師匠の世話をしたり、演芸場の前で呼び込みをしたりしながら、舞台に立って漫才の腕を磨いた。普通の若手芸人が若い女性客中心のお笑いライブで黄色い歓声を浴びている中で、ナイツは日の当たらない道を歩んでいた。
これは、夢を抱いて会社に入ってきた新入社員が、希望していない部署に配属されたようなものだ。「自分はこんな仕事がやりたくて入ってきたわけじゃない」「なんでこんな遠回りをしなきゃいけんだ」などと思ってしまうのが普通だろう。
だが、ナイツはその環境でも腐ることなく、コツコツと地味な努力を続けていた。2000年にコンビを結成した彼らは、2001年に始まった『M-1グランプリ』にも毎年出場していた。
最初のうちは早い段階で予選敗退していたのだが、少しずつ勝ち上がれるようになり、2007年には初めて準決勝に進出。その後、2008年から2010年までは3年連続で決勝に進んだ。
リスクを取り新しいことに挑戦する姿勢が成長の糧に
飛躍のきっかけは、ナイツの代名詞とも言える「ヤホー漫才」を発明したことだ。塙がインターネットの「ヤホー」で調べた知識を披露したいと切り出すと、土屋伸之がすかさず「ヤフーね」と訂正する。そこから塙は間違いに間違いを重ねて、際限なくボケを繰り出していく。
この漫才ができるまで、ナイツはさまざまな形の漫才を作り続け、試行錯誤を重ねていた。その過程の中で、塙は自分たちの漫才の映像を見返して、どこがウケていて、どこがウケていないのかを確かめようとした。
すると、1つのことに気付いた。それは、ちょっとした言い間違いの小ボケのところで客が一番笑っている、ということだった。例えば、雨の日にライブをやるとき、漫才の冒頭で塙が「今日は皆さん、足元の臭い中ありがとうございます」と言うと、土屋が「いや、足元の悪い中、でしょ」とツッコミをいれる。こういうところで客がドッと笑う、ということが分かったのだ。
そこで塙は「こういう言い間違いのボケばかりを重ねた漫才を作ればいいんじゃないか」とひらめいたのだ。新たに作った「言い間違いを連発する漫才」は、事務所のスタッフには酷評された。だが、反対を押し切っていざ舞台で演じてみると、大きな笑いを取ることができた。
この形の漫才をやるようになってから、彼らの評価は上がり、2007年には初めて『M-1』の準決勝に進んだ。さらに、この時期に彼らを勢いづけたのは、2007年に落語芸術協会に入ったことだ。
漫才協会に加えて、落語の方の協会にも入ったことで、落語を中心にした演目が組まれている寄席にも出られるようになった。寄席に出るようになって、日常的に舞台に上がる回数はさらに増加した。同世代の芸人の誰よりもたくさんの舞台を経験することで、ナイツは順調に成長していった。
浅草修業の日々が「ナイツ」というブランドを生み出した
2008年には『お笑いホープ大賞』『NHK新人演芸大賞』で立て続けに優勝して、一気に若手漫才師の注目株となった。『M-1』では決勝に進み、NON STYLE、オードリーに次ぐ3位という結果に終わった。
浅草での修業は無駄ではなかった。観客の年齢層が高い寄席や演芸場で漫才を演じることで、幅広い世代に通用するネタができるようになった。また、同世代の芸人の多くはライブに出る回数が限られてしまうのだが、ナイツは常設の寄席や演芸場で毎日舞台に上がることができた。ほかの芸人よりも人前に出てネタをする回数を重ねることで、漫才の技術がどんどん上がっていった。
テレビに出るようになってからは「浅草で修業をしていた」ということが1つのキャラクターになった。そんな若手芸人はほかにいなかったからだ。彼らは浅草の師匠たちのエピソードをテレビで披露して、世間に知られていない浅草演芸界の実像を浮き彫りにして笑いを取った。
今では浅草も活性化して賑わっている。ナイツがテレビに出始めた直後の2010年には、Wコロンのねづっちがなぞかけネタで大ブレーク。浅草の演芸場で腕を磨くために、漫才協会に入る若手芸人もどんどん増えていった。こういう状況になったのはナイツがその礎を築いたからだ。浅草演芸界を復興したナイツは「浅草の星」と呼ばれるようになった。
ナイツの現在の華々しい成功の要因は、浅草修業の中で腐らずに努力を続けたことと、トライアル&エラーの末に自分たちの強みを見つけて、それを徹底的に伸ばしていったことだ。悪い状況でもくじけずに、目標に向かって一歩一歩進んでいれば、その道の先に成功が待っているのだ。
文:ラリー遠田