小売、ロジスティクス、観光など19の産業で人工知能によって生み出される価値は3兆5000億ドル(約388兆円)〜5兆8000億ドル(約643兆円)。マッキンゼーが2018年4月に公開したディスカッション・ペーパーで明らかにした推計値だ。

各領域で年々増加する膨大なデータ。これらを解析し、異常を検知したり、プロセスを最適化したりすることで生まれる価値という。

こうした数値が示すように人工知能への期待は非常に大きなものになっているといえるだろう。

一方、期待が先走り、各領域で根深く残る問題の議論が十分になされておらず、その問題を含めた文脈の中でどのように人工知能を活用するのかが明確になっていない場合が多い。

ヘルスケア分野はその典型的な例だ。大手テクノロジー企業やスタートアップなどが、ベテラン医師より高い精度で診断できるアルゴリズムなどを開発しており、その成果は度々ニュースなどで話題となっている。一方、ヘルスケア分野では世界的に医師の燃え尽き症候群問題や、より深い構造的な問題が横たわっており、人工知能を導入すればすべて解決できるという状況ではない。

2019年3月に米国で発売された書籍『Deep Medicine: How Artificial Intelligence Can Make Healthcare Human Again』は、ヘルスケア分野の人工知能のあり方について一石を投じ、英語圏の主要メディアの注目を集めている。


エリック・トポル著『Deep Medicine: How Artificial Intelligence Can Make Healthcare Human Again』(アマゾンより)

著者は米国の心臓専門医であり、デジタルメディシンの研究者でもあるエリック・トポル氏。米国で最も影響力のある医師に選ばれたことのあるヘルスケア分野では著名な人物だ。

トポル氏が唱えるヘルスケア分野の人工知能のあり方とはどのようなものなのだろうか。

医師の燃え尽き症候群、米国では危機的状況に

トポル氏が同著で主張するのは、人工知能を活用することで目指すべきは、医師が医師らしくあり、患者との人間的なつながりを築ける環境を生み出すことだという。ニューヨーク・タイムズの取材ではトポル氏は「未来の技術(人工知能)を使って、過去を取り戻せることに大きな期待を寄せている」と語っている。

どういうことなのか。

トポル氏がこのように主張する背景には、世界的に医師の労働環境が危機的状況に陥っている問題がある。労働環境の悪化によって、燃え尽き症候群やうつ状態になる医師が急増しているのだ。

Medscapeの調査によると、米国で燃え尽き症候群になっている医師の割合は44%近くに達し、さらに15%がうつ状態ということが分かった。また医師の自殺率は、どのプロフェッショナル職業よりも高く、一般と比べると2倍も高いことが判明した。

職場でのストレス度合いが非常に高く、女性医師の38%がストレス解消のためにジャンクフードを食べ、男性医師の23%がアルコール飲料を摂取していることも判明。

ストレスを高める主な要因には、管理・事務作業での忙殺(59%)、長時間労働(34%)、電子カルテの入力(32%)などが挙げられている。

米国における医師の燃え尽き症候群問題は「公共医療の危機」だと警告を発する医療機関も出てきている。

ハーバード大T.H.チャン公衆衛生大学院やマサチューセッツ・メディカル・ソサエティーなどはこのほど連名で「A Crisis in Health Care: A Call to Action on Physician Burnout」というレポートを発表。医師の燃え尽き症候群が危機的状況にあり、同国のヘルスケアシステムを維持するには、この問題の解決が必須だと強調している。

同レポートが伝えたメリット・ホーキンス氏の2018年の調査によると、ときどき燃え尽き症候群の感覚を持つと回答した医師の割合は78%に上り、2016年比で4%増加したことが分かったという。

医師の燃え尽き症候群問題は米国だけの問題ではない。2018年12月に公開されたフランスの医師を対象にした調査では、49%が燃え尽き症候群の可能性があることが明らかになった。また、欧州12カ国の家庭医を対象にした調査では、65%が燃え尽き症候群の兆候があると回答している。

このような状況下、医師と患者の関係は悪化の一途をたどっている。トポル氏はVergeの取材で、医師と患者の関係悪化は「恐ろしい」状態になっていると指摘し、両者の間にアイコンタクトすらないこともめずらしくないと語っている。

管理・事務作業での忙殺や電子カルテへの入力、また近年では遺伝子データや医療機器データに目を通すことも増えており、患者とコミュニケーションを取る時間は大きく減っているのだという。さらには、データ量が増えていることも医師のストレスを高める要因になっているという。

人工知能で取り戻す医師と患者の関係

トポル氏は、人工知能はこうした問題の解決において、大きな効果を発揮すると考えている。

たとえば、管理・事務作業や電子カルテへの入力では、自然言語処理技術を活用した音声認識によって、キーボードを使わない環境を構築することが可能だ。実際、そのような取り組みを試験的に行っている医療機関もあるようだ。入力作業に使っていた時間を、患者とのコミュニケーションに充て、医療サービスのクオリティを高めることができるようになるという。

また、人工知能による医療スキャン画像の解析によって、医師の時間を大幅に節約することも可能となる。ニューヨーク・タイムズの取材で、レントゲン分野の人工知能活用が進んでいる中、この先放射線科医の需要は縮小していくのかという質問に対し、トポル氏は「それは絶対にない」と断言。人命が関わる分野で、すべてをアルゴリズムに任せることにはならないと語っている。放射線科医はスキャン室から出て、患者と直接コミュニケーションを取るようになるだろうと述べている。

人工知能の活用で生産性が上がった分、医師の負担が一層高まる可能性も指摘されている。一方、トポル氏は、医師・患者含め、人間が人間らしくあるために、医療コミュニティが声を上げ、事態改善に向け動きだすことが重要だと強調している。

危機的状況にあるヘルスケア産業は、人工知能の活用でどのように変わることができるのか。トポル氏が考えるような未来は実現するのかどうか、今後の展開に注目したい。

文:細谷元(Livit