英国のEU離脱(ブレグジット)が迫る中、ホンダの英国工場閉鎖が発表され世界中を動揺させた。同じく引き上げに悩むトヨタと共に、その動向は大きく注目されている。

しかしその裏では、英国の家電メーカー最大手「ダイソン」が、グローバル本社をシンガポールに移すことも話題を呼んでいる。ダイソンは2018年10月に電気自動車(EV)の製造開発に参入すると発表し、製造工場をシンガポールに作ることを決めた。本社移転が伝えらえたのはそのわずか3カ月後である。同社は本社移転理由を「ブレグジットとは無関係」としている。

メーカーが海外に工場を持つことは珍しい話ではないが、本社まで移転させることはあまり聞いた話ではない。ダイソンの狙いは何なのか? なぜシンガポールなのか? ブレグジットは本当に関係ないのか? 様々な憶測が飛び交う中、3つの側面から考えてみた。

特許出願は約9,000。「発明」で世界を驚かせてきたダイソン


ダイソンが開発した、髪が勝手に巻きつくカーラー「エアラップ

その前に、ダイソンについて簡単に説明しよう。ダイソンはジェームズ・ダイソン氏が1993年、英国ウィルトシャーのマルムズベリーに創業。サイクロン式掃除機を世界で初めて発表したことを祖にしている。それまでは紙パック式が当たり前だった掃除機の常識を覆し、世界を驚かせた。

同社は常に時代の一歩先を行く独創的な技術開発・研究に取り組んでおり、最近はヘアケア家電にも進出。髪を吸いつかせて自動的に巻き上げる、手巻き要らずのカーラー「エアラップ」を発売した。一式数万円と高額にも関わらず、世界中の女性が飛びついている。

ダイソン氏によると、同社の特許出願数は9,000近くに上り、その数は英国のどの大学よりも多いという。ダイソンは「発明」「新しい技術開発」という印象の強い、英国のテクノロジー界を牽引してきたリーディングカンパニーなのである。

そんなダイソンが電気自動車の製造開発に乗り出すことは、珍しい話でもないのかもしれない。では、なぜ彼らは本社まるごとシンガポールへ移転するのか?

1. マーケット、地理的な利点


2020年までに完成予定。シンガポールのEV製造工場

ダイソンはアジアを「最大の成長市場」と位置づけ、中国や東南アジアを主力マーケットに設定している。実際、同社のジム・ローワンCEOは本社のシンガポール移転の理由を「アジアにおける収益の観点から、より成長できる場所であるため」と説明している。

ダイソンは、2018年末までの1年間で、44億ポンド(57億ドル)の売上高に達したことを発表。過去2年間で68%増加し、その50%以上はアジアからであるという。純利益に関しても過去最高の11億ポンドを達成。同社の利益が10億ポンドを超えたのは初とのこと。内容的にはヘアケア家電など、新しく開発した商品が主であるという。

現在、EVのメインマーケットは中国だ。中国における販売台数は70万台に達し、その数は米国と欧州における販売数を足したものに準ずるという。部品のサプライチェーンは日本や韓国、タイなどのアジア諸国に固まっており、輸送コストや利便面においても、アジア拠点にすることは理にかなっている。また、シンガポールの貿易港は世界第二位の貨物取扱量を誇り、スピーディーかつ大容量の輸送が期待できる。

2. 人材、高度な技術開発面での利点


TODAYonlineより

人材という面でも多くの利点がある。シンガポールは教育レベルが高く、高度な人材が容易に調達できることは大きな魅力だ。特に科学技術分野において、アジアのエンジニアは数、質とともに躍進的に向上している。シンガポールのみならず、アジアのハイレベルなマンパワーは引く手あまただ。ダイソンはすでにシンガポールに工場(デジタル電気モーターの製造)やテクノロジーセンターを持っているが、今後は研究開発により力を入れ、これまでの2倍の投資をすると発表している。

人材面における期待の裏には、英国への失望が伺える。国民投票で英国のEU離脱が決まってから、研究者を中心に優秀な人材が他国へ流出し続けている。もともと英国では科学技術分野での人材枯渇が懸念されていた。サッチャー首相時代に金融産業が偏重されてきたこともあり、テクノロジー分野での人材育成は置き去りにされた。そこへ来てブレグジットが決まり、EUからの研究助成金も断たれるという懸念から、研究者はドイツをはじめとしたEUの他大学へ移り始めている。ブレグジットの影響があるとしたら、この辺が大きいかもしれない。英国の人材流出については、こちらの記事も参照して欲しい。

3. 税制、実利的な利点

最も注目されているのが税制面である。シンガポールでは法人税率が17%と英国のそれより安く(英国は19%)、本社移転の主な理由はそこにあるのではという説が有力である。

シンガポール政府はハイテク製造業に力を入れており、積極的に外国のテクノロジー企業を誘致している。ロールスロイスは2017年、同国に大規模な航空用ジェットエンジン工場を作ることを発表。テクノロジー企業には様々な支援政策が施され、延長可能な税制優遇措置やプロジェクト費用の政府一部負担なども含まれる。ダイソンがこれらの優遇を受けるかどうかは明らかではないが、何らかの実利的な恩恵を受けることは確かだろう。

シンガポールは多くの国とFTA(自由貿易協定)を結んでいることも大きい。米国、中国、EUとも締結しており、ダイソンがシンガポール企業となれば、関税面で大きな利点がある。

なぜ中国ではないのか?


テスラの乗用車

これまでシンガポール移転の良い面を挙げてきたが、当然「不利な点」もあり、むしろ利点と同じくらい存在するとも言える。それゆえに、「なぜシンガポール?」の声は後を絶たない。

まずは人件費の高さと少ない工業用地だ。シンガポールは「人材の国」。教育レベルが高く、それゆえに人件費の高さも屈指である。また国土は極端に狭く、既に建築物で埋め尽くされている。土地の値段も当然高く、工業用地も僅かしかない。

さらに、シンガポールには自動車産業の土壌がない。米自動車大手のフォードがシンガポール工場を閉鎖して約40年。それ以来、同国での自動車生産は皆無だ。EV開発大手、米国のテスラは「シンガポールは自動車製造に適さない」と述べている。テスラは大規模なEV製造工場を中国で稼働しており、今後は上海に86万平方メートルの巨大工場「ギガファクトリー」の建設も予定している。

先にも触れたように、世界最大のEV市場は中国にある。中国政府は自国で製造している車の販売支援もしている。いくらシンガポールが中国に近くとも、輸入車であればそれは適用されない。中国にはテスラはじめ多くの自動車工場があり、生産土壌も整っている。これだけ考えると、なぜ中国にしないのか?という声が聞こえるのは当然だ。これに対し、創業者のダイソン氏は「シンガポールではエンジニアを容易に採用できるため、コスト要因を相殺できるだろう」と述べている。

もうひとつ、知的財産保護という懸念材料がある。ダイソン氏は、企業の成長における知的財産を、非常に重要なものとして捉えている。シンガポールでそれが厳格に守られていることは、安心材料のひとつであろう。

人材と開発にプライオリティ。ダイソンならではの選択

最後に、ダイソンという会社の独自性も忘れてはならない。ダイソン氏は、会社の創業者であるだけでなく、発明家、工業デザイナー、王立美術大学の学長と複数のユニークな肩書を持っている。

人材育成にも力をいれており、2017年には工科大学に相当する独自のエンジニア養成機関「ダイソン・インスティチュート・オブ・エンジニアリング・アンド・テクノロジー」を設立した。彼にとって「高度な人材と技術」「新製品の開発」は、何よりもプライオリティが高いことは確かであろう。シンガポ-ルへの移転も、誰もが考えつかないようなユニークな発明をしてきた、ダイソンならではの算段があるのかもしれない。

いずれにせよ、ダイソンはシンガポールを選んだ。新しいEVの発表は2021年を予定している。世界を驚かせてきたダイソンの新製品、今から目が離せない。

文:矢羽野晶子
編集:岡徳之(Livit

eye catch:ダイソンの創業者、ジェームズ・ダイソン氏
https://gas2.org/2018/10/27/dyson-electric-car-to-be-built-in-singapore/