水素が今、世界のエネルギー議論の中で再び注目を集めている。水素は二酸化炭素の排出を抑えるクリーンなエネルギー源として、以前から話題には上がってきたものの、輸送や貯蔵の難しさから現在まで規模化することはなかった。

しかし2018年に入り、水素エネルギー社会の到来を予感させる動きが、オーストラリアを中心に起こっている。オーストラリアは国を挙げて水素サプライチェーンの開発に取り組み、この産業において世界のリーダーになるという野心的な計画を明らかにしている。オーストラリアの取り組みを中心に、水素エネルギーの近未来像を探ってみたい。

オーストラリアが掲げる水素サプライチェーン実現へのロードマップ


CSIROが試算する 水素コストは2025年に分岐点を迎える見通し(CSIRO発表資料より)

2018年8月、オーストラリアのCSIRO(オーストラリア連邦科学産業研究機構)は水素エネルギーにまつわる新たなロードマップを発表した。世界の水素エネルギー市場は2022年までに1,550億米ドル規模に達すると試算されており、水素の原料となり得る天然資源を豊富に持つオーストラリアは、水素の一大輸出国となることを目指している。

水素をエネルギーとして利用するためには、輸送と貯蔵の工程で、高圧圧縮や低温液化、他の物質への変換といった技術が必要になり、その難しさやコストの高さがこれまで水素エネルギーの実用化・規模化を阻んできた。しかし各工程での技術の成熟により、「水素エネルギー産業は研究・開発フェーズから、マーケティング・販売フェーズに移っている」とCSIROは明言。2025年には水素エネルギーの供給コストはキロ当たり2ドル程度にまで下がり、他のエネルギーと並ぶ競争力を持つという未来図を試算している。

アンモニアからの水素抽出技術がブレイクスルーとなるか

水素サプライチェーン実現のキーポイントとしてCSIROが挙げているのが、アンモニアから水素を取り出す新技術だ。

アンモニア(NH3)は1分子中に多くの水素を含み、20℃・約8.5気圧で液化するため、水素に比べ容易に輸送や貯蔵ができる。この特性を利用して、水素を一旦アンモニアに変え、必要な場所で再度アンモニアから水素を取り出しエネルギーとして利用するという方法が以前から研究されてきた。しかしアンモニアから効率良く高純度の水素を取り出すことが難しく、水素サプライチェーン構築のボトルネックとなってきた。


アンモニアから高純度の水素を取り出す際に使われる金属の筒

10年に渡る研究の末、今回CSIROが発表したのが、金属の筒を使って水素を抽出する技術だ。触媒を使ってアンモニアを窒素と水素に分解し、水素以外を通さない金属で作られた細い筒状の膜に接触させると、水素だけが筒の内側に入り込み99.99%という高純度の水素を取り出すことができるという。この技術を使えば、水素の輸送コストを大幅に抑えることができるため、水素エネルギーの価格競争力が引き上げられる見通しだ。

2018年8月に行われた技術発表時には、世界で初めてアンモニアから抽出された水素エネルギーが、トヨタの燃料電池自動車(FCV)MIRAIなどに注入される様子も公開された。電気自動車業界の活況と比較して現在のFCVを取り巻く環境は厳しく、ダイムラー、フォード、日産・ルノーが撤退し、トヨタの孤軍奮闘が続いている。しかし今回CSIROが発表した水素抽出技術は、FCVの普及にも大きく寄与すると目されており、発表に立ち会ったトヨタ豪州法人の担当者も「この技術がエコカー業界のゲームチェンジャーになる」とコメントしている。

オーストラリアが水素エネルギーの輸出先と見込む日本


オーストラリアの水素エネルギー開発拠点を示すマップ

CSIROのロードマップの中で、オーストラリアの水素エネルギー輸出先として一番に挙げられているのが日本だ。オーストラリアにとって日本は、エネルギー・資源分野において長年に渡る強固な貿易関係があり、さらに同じく水素社会の実現を目指す国(日本政府が2017年末に策定した「水素基本戦略」がロードマップ内でも紹介されている)として重要な位置づけがなされている。

既に日本とオーストラリアは、褐炭(かったん)から水素を取り出し、冷却液化して日本に運ぶという世界初の水素サプライチェーン構築事業を進めている。褐炭とは水分や不純物を多く含む低品質な石炭で、輸送効率とエネルギー効率の悪さから世界市場ではほとんど取引されていない資源だ。オーストラリア南東部のビクトリア州には大量の褐炭があり、そこから得られる水素エネルギーは日本の総発電量の200年分以上にも相当すると言われている。

このプロジェクトでは川崎重工業、電源開発、岩谷産業、丸紅そしてオーストラリアの大手総合エネルギー企業AGL Energyがコンソーシアムを組み、2019年からパイロット設備の建設、2020年に最初の水素製造と輸送試験が実施される予定だ。2018年4月、ターンブル前首相は「オーストラリア連邦政府・ビクトリア州政府が合わせて1億豪ドルを当事業に投資する」という声明を発表し、産業・雇用の創出源として大きな期待を寄せている。CSIROは褐炭を原料とするこの水素サプライチェーンも2030年代には商業化が可能で、オーストラリアに80億豪ドル以上の経済効果をもたらすと見込んでいる。

オーストラリアの国を挙げた水素戦略が世界を動かすか


オーストラリアの水素生成~活用マップ(ABCニュースより)

これまで国際社会では、水素エネルギー活用を掲げる国としてアメリカ、ドイツ、イギリス、北欧諸国などが知られてきた。しかし一番の先導役であったアメリカはオバマ政権時代に水素関連予算を縮小。さらにトランプ大統領は地球温暖化対策自体を否定し、化石燃料産業の規制緩和をするという状況で、現在はカリフォルニア州が単独で水素ステーションの整備などに取り組むのみになってしまった。

ヨーロッパ各国は水素エネルギー開発を継続しているものの、企業の撤退や計画の後ろ倒しなどが相次ぎ、世界市場に大きなインパクトを与える規模感には育っていないのが現状だ。

水素エネルギーには製造~輸送~貯蔵~利用の各工程で高い技術力や大規模な投資が必要となるため、企業や自治体の個別アプローチでは、商業化への道筋が見える前に資金や人的資源が尽きてしまう。オーストラリアはその危険性を踏まえた上で、技術面での成熟を迎えたこのタイミングで一気にリソースを投入し、水素エネルギーの実用化・規模化に動いたように見える。

国を挙げて水素エネルギー社会を実現しようと動き出したオーストラリア。その本気度が世界のエネルギーマップを動かすきっかけとなるだろうか。そしてオーストラリアから、水素サプライチェーン構築のパートナーとして期待されている日本の動きも、今後の水素エネルギー産業を左右する重要なものとなりそうだ。

文:平島聡子
編集:岡徳之(Livit