日本で医療費増大問題が叫ばれて久しいが、医療費増大は世界各国共通の問題だ。
デロイトの調査によると、2015年世界の医療費は7兆ドル(約777兆円)だったが、2020年には8.7兆ドル(約965兆円)に増加する見込みだ。2020年には世界の医療費の50%が、心血管疾患、がん、呼吸器系疾患の治療に充てられるという。このほか糖尿病患者の増加に加え認知症を患う高齢者の増加が医療費を増加させる要因として挙げられている。世界の65歳以上の高齢者は2015年の5億5,900万人から2020年には6億人に増加する見込みだ。
こうしたなか、国民の健康増進プログラムの拡充や医療分野へのテクノロジー導入によって、医療費の抑制を試みる国が増えてきている。「スマート国家」構想を掲げるシンガポールだが、高齢化が進む同国でも医療費増大が懸念されている。人口は600万人以下、少子高齢化により十分な医療人材を確保するのが難しい状況に直面している。
そこでシンガポールはヘルステックをフル活用し、国民の健康増進だけでなく、医療現場の効率化や治療精度の向上を試みようとしている。また、さまざまな分野の人材をヘルステック分野に集める施策も実施。テクノロジーが医療にまつわる問題をどのように解決するのだろうか。シンガポールのヘルステック最新動向をお伝えしたい。
チャットボットに全国医療プラットフォーム、シンガポールの医療改革
今後3~5年で高齢者の増加によりシンガポールの医療費は大幅に増える公算が大きい。2017年末、シンガポールのヘン・スウィーキート財務相はこのよう述べ、2020年までに現在の医療費に30億シンガポールドル(約2,400億円)を追加する必要があることを説明した。2017年の医療費は100億Sドル(約8,000億円)。2020年に30億Sドル追加された場合、計130億Sドルとなり、2010年の医療費40億Sドルから3倍以上増加することを意味している。
高齢化が進むシンガポール
医療費の増加を最小に食い止めたいシンガポール政府は対策の1つとして、ヘルステックによる医療改革を目指している。
シンガポールのヘルステックシーンを主導するのは、同国保健省系列のテクノロジー企業インテグレーテッド・ヘルス・インフォメーション・システムズ(IHiS)だ。
IHiSは、全国電子診療記録システム(NEHR)をシンガポール中の医療機関に普及させる取り組みを実施。現在はまだ一部の医療機関のみの利用だが、シンガポールの全医療機関が参加すると、どの医師でも患者の医療情報にアクセスできる包括的な医療ネットワークが構築され、初期診療から専門治療へのスムーズな移行が可能となる。
この取り組みはシンガポールの政府が掲げるマスタープランに沿ったもの。マスタープランでは2021年までに医師、患者、医療従事者がつながる全国医療ネットワークの構築を目指している。プランには、モバイル利用も盛り込まれており、たとえば在宅ケアで必要なときにスマホアプリで看護師を呼び出せるシステムの導入などが計画されている。
またIHiSは最近、ヘルステック普及を促進するためのイベント「ナショナル・ヘルステック・チャンレンジ」を開催。このイベントは、課題を抱える医療関係者と課題解決を役目とするテクノロジー企業とをマッチングさせるプラットフォームとして位置づけられている。このイベントでは53チームが構成され、20チームがファイナリストとして選出、2018年7月に開催された「ナショナル・ヘルスITサミット」で公表された。ファイナリストには、VRを活用した若手医師のトレーニングシステムや自動薬局システムなどが選ばれている。
さらにIHiSは、医療分野にチャットボットを導入する計画を進めている。このチャットボットは、症状と医療記録から利用者の症状を診断し、適切な医療機関を紹介することができるほか、症状が深刻な場合病院での優先順位を高めるなど、待ち時間を短縮することなども可能という。2018年末までに医療分野のチャットボットを開発できる企業のリストを公開する予定で、企業と医療機関が共同でチャットボットを開発していくことになる。
IHiSを通じてすでにいくつかのヘルステック取り組みが実施されている。2015年に開始された「ナショナル・ステップ・チャレンジ」はその1つだ。この取り組みは、ウェアラブル・トラッカーとスマホアプリを利用し、リワードを付与することで利用者の運動を促進させようというもの。これまでに110万人が参加したという。
スマホアプリ「ヘルス・ハブ」もIHiSが関わるヘルステックの取り組みだ。このアプリは、病院の予約や医療情報の検索ができるワンストップの医療ポータル。2015年に開始され、2018年6月時点で登録者は27万人に上り、このアプリを通じて38万件の診察予約が行われたという。病院側は予約受付の時間を削減でき、その分の時間を医療サービスの向上に使うことが可能となる。
このように国を挙げてヘルステックの活用を進めるシンガポール。同国の主要病院でもテクノロジーを導入する動きが加速している。タントクセン病院では、書類や医療サンプルを運ぶロボットやIoTを導入し、医師や看護師の生産性を高める試みを実施している。また今後、患者への配膳や見回りをロボットで行う計画もあるという。
この先シンガポールがヘルステック普及の取り組みを加速させるためには、人材の確保が急務と考えられている。シンガポール政府によると、2020年までに高齢者は61万人以上となり、現在比で3万人以上の医療従事者が追加で必要になるという。またヘルステック分野では今後3年で1,200件以上の求人が掲載される見込みだ。
将来の人材需要を見込みシンガポール政府は、ヘルステック人材プールを拡充するための人材育成プログラムを開始。この取り組みは、IHiS、情報通信メディア開発庁、労働力開発局が共同で行っているもので、特にミドルキャリア層の医療分野への転職を促すことを目的としている。
またシンガポール経営大学(SMU)では、「医療経済学&マネジメント」という新しい学位を設置し、ヘルステック人材の育成を目指す。このコースでは医療に特化したデータ解析などを学び、ヘルステック分野で活躍するために必要なスキルを習得することが可能という。
以前お伝えしたように、シンガポールでは行政、交通、農業などさまざまな分野でテクノロジーを導入し、生産性改善を試みている。ヘルステックはその一環で捉えてられており、他の分野でのテクノロジー開発・導入の進捗とともに、普及していくことになるはずだ。政府は、高齢者がスマホを使いこなせるような取り組みも実施しており、他国に比べスムーズにヘルステックの導入が進んでいくのかもしれない。
文:細谷元(Livit)