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電子国家エストニアの成り立ちや最新動向をお伝えしてきた本連載。今回は「公共交通無料化の試み」について、数少ない現地在住の日本人である大津陽子さんにレポートしていただく。
世界初、公共交通無料化を国土全域に拡大予定
環境汚染対策、交通事故の減少、交通渋滞の緩和等を目的とした公共交通無料化の試みが今、ヨーロッパを中心に広がっている。多くの都市ですでに行われており、フランスやベルギーの都市に加え、ドイツも公害対策を目的として5つの都市で公共交通無料化を決めている。
地球温暖化や大気汚染など車の利用が原因となる社会問題は多く、公共交通を無料にすることで、人々の移動の足を車からバスや電車にシフトさせることを目指しているのだ。また、日本では、金額としては大きくないものの、所得が低い世帯ほど無視できないのが生活費の中で占める交通費の割合だ。就職活動においても交通費の負担感が話題に上るように、公共交通の無料化は行動範囲や就労機会の格差の改善につながるという見方もされている。
そんな無料公共交通導入を行っている都市の中でも特に規模が大きいのが人口40万強のエストニアの首都タリンだ。国民投票の結果に基づいて、タリン全市民に対し公共交通の無料化が行われたのが5年前。そして今年2018年の7月、世界で初めて、エストニアは公共交通の無料化をその国土全域に拡大することを予定している。
いまだその効果や予算面から見た持続可能性は検証されている過程にあり、社会実験とも捉えられることの多い公共交通の無料化。率先してその導入を進めているエストニアの無料公共交通政策の現状をレポートする。
平均所得の7%を毎月節約、快適・便利な乗り心地
タリンでは2013年より市内の全種類の公共交通(トラム、バス、トロリーバス)の無料化が行われた。これはヨーロッパの首都としては初めての取り組みであり、当時同規模の都市での先行事例がほとんどない中、導入は進められたという。
市民の9割が支持したというこのプロジェクト、財政面での負担が気になるところだが、タリン市はこのシステムの導入がコスト増ではなく、住民の誘致による税収増などにより実際は年間2,000万ユーロの利益を上げており、同時にチケットの販売やチェックに必要な機械や人件費のコストも削減できていると主張している。
最初は政治家の人気とりにすぎないとも評されたこの政策だが、現在では成功事例として他の国に参考にされることもあるという。
タリンの市民はこの政策に対しておおむね肯定的な意見だ。30日の公共交通乗り放題チケットは23ユーロとそれほど高くないタリンだが、2018年3月のエストニアの平均所得が1,295ユーロであることを考えると、例えば4人家族であれば一月一家族あたり92ユーロ、平均所得の7%にあたる金額を毎月節約できることになる。
そんなタリン市内の公共交通は無料でありながら非常に快適だ。気温-20℃、積雪10㎝以上となる冬季を含めて、スケジュールに大幅な遅れもなく、清潔で、混みあうこともほぼない。Googleマップでバスを含む乗り継ぎ情報がすぐに検索できるため、初めて行く場所であっても乗り換えに迷うこともない。
私は日常生活での移動はほぼ全て公共交通の利用で済ませているが、シティ中心部においては、トラム、バスはほぼ10分おきに運行されているし、たいていの場合は座ることができて、駐車スペースを探さなければいけない車と比較しても利便性が高いと感じている。早朝・深夜の移動、荷物が多い時等、車での移動の必要があれば、配車アプリを使用して、タクシーを呼べばいい。
タリンのトラム
公共交通車内での飲食や喫煙は禁止だが、犬を連れて乗車することもできるし、赤ちゃん連れでもベビーカーをたたまずに利用できるスペースが確保されている。
公共交通の車内表示
現在も現金で紙のチケットをドライバーから購入することがまだ可能ではあるが、基本的にはグリーンカードと呼ばれるカードをキオスク等で購入することになる。その際2ユーロをデポジットとして支払うが、カード自体は無料だ。旅行者、短期滞在者などは、キオスク、あるいはオンラインでこのカードにチケット代をチャージして使用する。
タリンの公共交通パス「グリーンカード」
無料交通の恩恵を受けるタリン市の住民がグリーンカードを無料交通パスとして有効化する際は、専用のウェブサイトにアクセスし、自分のグリーンカードの番号にエストニアの居住者全員に割り振られているID番号を紐づけるだけだ。時間は5分とかからない。
この操作により、タリンの公共交通のカードシステムを管理している企業Ridango社が、タリン市の住民登録を管轄する部署が保有している住民登録データに基づいて、グリーンカードを無料公共交通乗り放題パスへとパーソナライズする。
タリンの公共交通ウェブサイト
この必要時に安全かつスムーズに企業や行政など、各機関の保有情報の共有を電子的に行うためのプラットフォームが、2001年よりエストニアで導入されている分散されたデータベースの連携を行う「X-Road」だ。X-Roadの導入により、エストニアの居住者は、証明書の取得や提出など煩雑な事務作業から解放されており、行政サイドの労働時間も1年間あたり820年分の削減を達成したそうだ(2016年の実績)。
なお、エストニアの電子サービス全般に言えることだが、オンラインサービスの操作が難しく感じる人たちのために、対面でのサービスも現在はまだ提供されており、公共交通カードの場合は郵便局の窓口が有料で対応してくれる。
バス、トラムに乗車した際は、乗車時に車内に設置された読み取り機にグリーンカードをかざして使用する。
車内の読み取り機
公共交通無料化はタリン市民だけが対象だが、タリンの観光客はほとんど公共交通を使用せず、バスやタクシーのチャーターや配車アプリを使うため、訪問客からの不満はあまり聞かれないようだ。
経済的には一定の成果も議論・検証の継続が必要
居住者の立場からは、メリットが強く感じられる公共交通の無料化だが、実際その導入の大義名分であった社会的な課題の解決、経済的な効果に関してはどのような成果が得られているのだろうか。
実は公共交通機関の無料化をこれだけ積極的に国をあげて推し進めているエストニアの先行事例であったタリン市の事例においてもこの点は議論がある。
まず車から公共交通へ移動手段がシフトしたのかという点だが、たしかに公共交通の利用者は増加し、その理由を運賃撤廃と答える住民は半数近くを占めていた。しかし、狙いであった車の利用者ではなく、歩行あるいは自転車の利用者が公共交通をより利用するようになっていた。一方で、失業者や低所得者の移動の機会均等の確保に関しては、この政策の成果としてある程度の合意が得られているようだ。
無料化による経済的な影響については、移動の足の確保による都市中心部の労働力の増加、また住民登録の増加による税収増が得られたが、消費行動の促進については期待されていたほどの効果は認められなかった。
このように環境問題への対応策としてはともかく、主に経済的な側面で一定の成果を上げているといえる公共交通の無料化だが、無視できない課題は、そもそも持続可能な政策であるのかという点だ。
他のヨーロッパの都市では導入後に、財政面の理由から継続を諦めた都市もある。タリンのケースでは住民登録者の増加による税収増がコストをカバーしているとされるが、住民の誘致やすでに居住している人々の住民登録の促進については長期的に期待できるものなのか疑問である。
加えて、タリンでは、公共交通運転手の給与は基本的に上がり続けているものの、より高い給与が得られる、隣国フィンランドの首都ヘルシンキへの運転手の流出が問題となっており、無料化と運転手へのより魅力的な給与の提示をどのように両立していくかも課題といえる。
環境問題への対策、移動の機会均等の保証、経済効果・・・何を効果として期待できるのか、各都市のどんな要素がその効果に影響を与えるのか、そしてどのような形で持続可能性を保証するのか、公共交通の無料化政策については議論が尽きない。知人のエストニア人の中でもクリティカルな見方をする友人たちは、無料で快適な公共交通に驚いていたタリンに引っ越してきたばかりの私たちに「次の選挙後も無料かは分からないけどね」と話していた。
いずれにせよ、エストニアはまずは試みてみるのが基本的スタンスの国。今年、ヨーロッパ圏内の首都として初めての公共交通無料化から、世界初の国全域公共交通無料化へ踏み出すエストニアは、日本を含む多くの国や都市に興味深い先行事例を提供してくれるはずだ。
文:大津陽子
編集:岡徳之(Livit)