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欧州でスタートアップシーンが活気付いている都市といえば、ロンドンやベルリン、パリを思い浮かべる方が多いだろうか。北欧ならストックホルムやヘルシンキかもしれない。
筆者も同様の認識を持っていたが、2ヶ月前にノルウェーの首都オスロを訪れて驚いた。いくつかのスタートアップやインキュベータを取材する中で、他では感じられなかったコミュニティの活気を、この街では感じた。
熱量高まるオスロのスタートアップシーン
実際、オスロのスタートアップシーンへの投資額はここ数年で急上昇中だ。オスロ市が発表したレポートによれば、昨年ノルウェーのテック企業に投資された件数は78件で、総額1億ドル(約110億円)を超え、前年より160パーセント増えているという。
オスロのスタートアップコミュニティの中でも、多くの起業家を惹きつけているスペースが 「StartupLab」だ。中心地から電車で10分の場所にあるオスロ大学内に構えるスペースには、80チームが入居しており、製品と事業の開発に日々取り組んでいる。
今回、StartupLabを拠点にしているスタートアップをはじめ、いくつかの企業を取材した。その過程でわかってきたのは、ビデオ関連スタートアップの強さだ。あるスタートアップは、オスロのスタートアップシーンを「ビデオバレー」と呼ぶ。
なぜ、オスロにビデオ関連のスタートアップが集まっているのか。どのようなイノベーションが起こりつつあるのだろうか。現地のスタートアップシーンを取材した。
小型の高性能ウェブカメラを開発する「Huddly」
まず取材したのは、小型の高性能ウェブカメラを開発するスタートアップ Huddlyだ。ミニマルなデザインで小型ながら、広いアングルと高解像度、そしてオートズームなどのスマートな機能を搭載している。
ウェブカメラのハードウェアからソフトウェアまで、ゼロから自分たちで開発しているという。彼らはオスロ大学内のサイエンスパークに入っているスタートアップインキュベータのStartupLabの一部を拠点に、数十人が日々開発に取組んでいる。
ウェブカメラを販売するライバルの大手企業をみても、このように自社でソフトウェアを開発するケースは珍しく、それこそがHuddlyのユニークな点なのだという。
ソフトウェアを自社で開発するのは、非常に難易度が高く、優秀な人材などのリソースが必要となる。だが、自社で開発できれば全体のシステムをコントロールできるようになり、ユーザーエクスペリエンス全体を俯瞰して設計できる点が強みとなる。
以下の写真は、左側がMacBookに搭載されているウェブカメラを使用した場合のFaceTimeの映像、右側がHuddlyのウェブカメラを使った場合の映像だ。右側のパソコンの上にクリップで留められているのが、Huddlyのプロトタイプである。カメラをHuddlyに切り替えると、会議室にいた全員の姿が鮮明に映った。
ビデオ会議後のワークフローも想定してエクスペリエンスを設計
「相手と対面で話しているような感覚を再現したいんです」
リンデCEOはこのように語る。画面の向こう側をよりよく理解し、世界のどの場所にいてもストレスなく人と人をつなぐことができる。相手の表情や、周囲の環境、そして人数の多寡に関わらず安定した映像を届けることが彼の目標だ。
高度な技術を最適な形で提供するために、ユーザーエクスペリエンスの設計にもこだわったという。たとえば、相手に説明するために会議中に立ち上がってホワイトボードに行き、ボードに書きながら説明をしたとしよう。対面の会議では当たり前の光景だ。
Huddlyは、人が立ち上がってボードにいったことをカメラが理解し、人を追って自動ズームしたり、さらにはボードの内容を撮影してSlackにハッシュタグとともに投稿するように設計されている。
ビデオ会議の最中だけでなく、そこで話された内容がどのように共有・活用されるのかという点まで想定して、ソフトウェアを設計している。
Slackなど、新しいツールを用いたワークフローや、リモートワークといった新しい働き方にも最適化されたエクスペリエンスの設計に注力。できるだけユーザーの生産性を高めたいという。
シスコのTandberg買収が契機となって、オスロに誕生した「ビデオバレー」
Huddlyはなぜ分野におけるトップレベルの人材を世界中から集め、数十名のチームでウェブカメラのハードウェアからソフトウェアの開発まで行えているのか。その背景には、オスロのビデオ関連のスタートアップシーンが国内外の注目を集めているという理由がある。
ビデオバレーの発端は、シスコシステムズがオスロの老舗企業Tandbergを買収したことなのだとリンデCEOは語る。
Tandbergは、もともとテープレコーダーとテレビの開発で知られる1933年創業の老舗企業。1990年代からビデオ会議の領域に注力し、関連分野の企業の買収なども通して、ハードウェア・インフラ・ソフトウェアの全般にわたって強みを築き、幅広いシーンに対応する製品を揃えていった。
業界を牽引するポジションを確立していったTandbergは、同様にビデオ会議システムを開発していたシスコの目に留まる。シスコは、Tandbergの強みであるビデオ会議システムの管理や、異なるシステム同士をつなぐソフトウェアなど、自社にない技術を獲得して製品のポートフォリオを広げることを狙って、Tandbergに買収の話をもちかけた。
交渉の末、2010年にシスコはTandbergを買収する。34億ドル(約3700億円)がキャッシュで支払われた。これがきっかけで、Tandbergの株式を持っていた人の中で、自らの資金を元に起業する人が現れた。
シスコ買収時のTandbergのエンジニアは500名程度だったというが、買収後にさらにエンジニアは増え、現在では1500名を超えるほどの規模になっているとリンデCEOは話す。
ノルウェーの産業構造の変化も影響、石油業界から新興産業に優秀な人材が移動
7年でエンジニアの数が500名から1500名に増えた背景には、ノルウェー国内の産業構造の変化がある。数年前の石油価格の下落から、国内における石油産業の比重が低下。それまで、新卒や若いエンジニアに最も人気があり、高給エリートコースとみなされていた石油業界の企業の採用力は落ち、優秀なエンジニアが石油業界から新興の業界に流れていった。
「石油業界の衰退」というキーワードは今回ノルウェーのスタートアップをいくつか取材した中で、何度も耳に入ってきた言葉である。それまでノルウェー国内の産業の大きな柱であった石油産業が傾いて、多くの人が「次のオイル」を探すことに必死だ。その変化は人々の起業家精神に火をつけ、投資家は次の成長産業を模索し、エンジニアは石油産業に代わる自分のスキルを活かせる場所を探している。
また、シスコによるTandbergの買収は、自分たちの強みを客観的に理解するきっかけにもなったとリンデCEOはいう。
競争力のある製品をつくることができれば、米企業に買収される可能性があることは業界の人々のひとつの希望になったようだ。リンデCEO自身も元々はTandbergに在籍していたが、買収後には会議ソフトウェアを開発するAcanoというスタートアップに移籍した。
Tandbergの元社員が創業したAcanoは3年で社員数200名規模にまで成長し、2015年にシスコが7億ドル(約800億円)でキャッシュで買収した。その後、リンデCEOはHuddlyを創業した。
シスコによるオスロ企業の積極的な買収は、米企業のオスロへの注目度が高まるきっかけにもなったという。Tandberg元社員が創業した、小型ドローンの監視システムを開発するProx Dynamicsというスタートアップは、昨年末に米企業のFLIRに1億3400万ドル(約150億)で買収された。
こうしたスタートアップの売却事例に後押しされ、ビデオ関連のスタートアップが増え、オスロの「ビデオバレー」は成長していった。
ビデオ関連といっても、それが対象とする技術の範囲は幅広い。レンズやセンサーなどを含めたカメラの構造理解、光を処理するアルゴリズムの設計、それらをパソコン上で最適な形で提供するためのアプリケーションの設計、サウンドの処理、システム同士をつなぐインフラの設計…。Huddlyは各領域に強みを持つエンジニアやデザイナー、プロダクトマネジャーなど、さまざまな人材で構成されている。
技術的チャレンジ・豊かな自然…強みをアピールして世界の人材をひきつける
とはいえ、ビデオ関連のスタートアップが集積する場所としては、まだまだシリコンバレーには敵わないとリンデCEOは付け加える。世界的には、ビデオ関連の企業が集まる場所の規模では、シリコンバレーが最も大きく、そしてオスロとテキサス州オースティンが続くという。シリコンバレー、オスロ、オースティンがいわば世界の三大ビデオバレーで、業界ではよく知られてるそうだ。
HuddlyのCTOを務めるケーシー・キング氏はオースティン在住であるが、過去にはAppleでシニアエンジニアとしてQuickTimeの開発に関わった経験をもつ。ビデオ業界のつながりで、Huddlyの創業メンバーのことを知っていたキング氏は、そのビジョンと哲学に共感してHuddlyに参画することを決意したそうだ。
米企業のシスコによるTandbergの買収などもあり、この業界は国境を越えたネットワークが築かれている。だからこそ、ノルウェーに移住してでもビデオ関連の分野でやりがいのある取り組みに挑戦したいと、国外の優秀な人材が応募する。
シンプルなUIと使いやすさを売りにするビデオチャットアプリのappear.inもまた、オスロ発のスタートアップだ。大手テレコムのTelenorのハッカソンで誕生し、プロトタイプが爆発的な人気を見せて、急遽チームが立ち上がった。Telenorは過去にTandbergとともに世界初のVoIPサービスをローンチした経験があり、ビデオ関連技術にも強い。
関連記事:ビデオ会議ツール「appear.in」開発チームから学ぶ、完全リモートワークを成功させる方法
Huddlyもappear.inも、国外の優秀な人材を惹きつけており、社内の公用語は当然英語である。appear.inは、ブラウザ間のビデオボイスチャットを可能にするWebRTCに関して優れた技術をもつシリコバレーのエンジニアを、説得を重ねてひっぱり、オスロに移住してもらったという。最終的に決め手となったのは、そのエンジニアの趣味であるスノーカイトがノルウェーなら存分にできることだったそうだ。
技術的に最先端の取り組みができること、ノルウェーの豊かな自然を味わえること、ライフワークバランスが取りやすいこと。個々人の動機はさまざまだが、採用する側も強みやユニークさを打ち出して優秀な人材を惹きつけるのに必死だ。
多くの人が流暢な英語を話し、社内の公用語も英語であることは世界の人材を引っ張る上で大前提だ。ノルウェーは人口500万人強の小国ゆえに、グローバルなマーケットを目指すことが必要だと多くの企業が考えている。ビデオバレーの企業も同様だ。
世界の優秀な人材を惹きつけ、世界で勝てる製品をつくることで、石油産業に代わる新興産業を成長させるべく、オスロのビデオバレーの挑戦が続いている。