2003年、13年間続いたヒトゲノムの解読が成し遂げられた。そこから約16年、遺伝子解析の世界は日に日に進歩を遂げている。

2001年には約1億ドル(100億円相当)かかるともとも言われた遺伝子解析も、今では数万円、個人でもできるようになった。唾液などの試料を企業に送れば、体質、祖先、病気のリスクなど多様な自分に関するありとあらゆる遺伝子情報が把握できる。

日本で初めて個人向けの大規模遺伝子解析サービスを開始、遺伝子解析の分野で日本のトップを走る企業の一つが「ジーンクエスト」だ。2013年に創業、2017年にはバイオベンチャーのトップランナー「ユーグレナ」のグループ企業となっている。

同社を創業したのが高橋祥子氏だ。彼女は学生時代から遺伝子について学び、その後起業したという。今回は起業の経緯やこれまでの歩み、そして遺伝子解析サービスの広がりが見せる新たな社会について、思うところを聞いてみた。

「起業をリスクに感じない」社会人経験ナシからの出発

「生命科学の根底にあるのは遺伝子、だからこそ、研究しようと思った」遺伝子について研究をするようになったきっかけを高橋氏はこう語る。

京都大学を卒業後、東京大学の大学院で生命科学を学び始めた高橋氏。同社を起業したのは2013年、博士課程2年時のことだった。何故研究をする傍ら、起業することに思い至ったのだろうか。

高橋「もともと研究者としてのキャリアを大学の中で積むつもりでいました。ただ、遺伝子の研究成果をもっと社会に還元しながら、研究自体をもっと加速するにはどうしたらいいかを考え、大学の中でそれを続けていくには限界があると気づきました。

そのためには研究の成果をもとにサービスを作り、そのサービスから得られたデータをもとに研究をより加速できるような仕組みを作る必要があったのです。どうすればそれができるのか、相談したのが当時の先輩、現在のジーンクエストの取締役を務めている斎藤(齋藤 憲司氏)でした。

斎藤は元々事業をおこしながら研究を続けていた人間。なので、自然な流れで起業をするという話になりました」

こうした経緯で起業に踏み切った高橋氏、学生、社会人経験がない中での起業ということで苦労もあったというが、経営の世界に足を踏み入れることに不安はなかったという。

高橋「不安がある中で、勢いで”えいや”と起業したわけではないんです。いろいろと要素を見てみたら、それほどリスクがなかった。仮に失敗しても学生に戻るだけでしたし、お金の面でも、数十億借金をしてというのであれば別ですが、それほど大きな問題はなかった。ロジカルに考えて起業のほうがリスクが少ないと考えたんです」

当時学生だった高橋氏は本庄国際奨学財団からの奨学金で生活していた。無償、返済義務のない奨学金、条件は学問に専念することだった、兼業はできない。起業をするために、辞退を申し出た高橋氏は「何を言われるのか」と不安を感じていたという。だが帰ってきたのは意外な言葉だった。

高橋「担当してくださっていた方に『辞退したい』と伝えに行きました。そうしたら『成功することを祈っている』と送り出してくれたんです。しかも『仮に失敗してもまた奨学金をだしてあげる』と言ってもらえたました。

奨学金を出してくれていた財団の代表も元々学生時代に起業していたということもあって、相談にも乗って頂いてくださり、これなら起業しないほうがリスクだな、と」

遺伝子解析によるビッグデータが今後の研究のカギとなる

遺伝子解析分野で最先端を行く、ジーンクエスト。同社の強みは何なのだろうか。

高橋「まず、一つ申し上げたいのは、遺伝子解析の業界はまだ発展途上だということです。どちらかというと業界全体で市場を作っていこうという動きがあります。その中でジーンクエストの特徴、強みが何か、それはサイエンス色が強いことだと思っています。

他社だと、遺伝子解析をしてダイエットなどのヘルスケアにつなげていく、といったライトなものが多いのですが、ジーンクエストは遺伝子解析から得られたビッグデータを活用して大学や国の研究機関と共同研究につなげていく、こちらの取り組みが圧倒的に強い。

しかも、そこから得られたデータはサービスにも生かされています。玉石混交でそもそも科学的根拠もないようなサービスもある中でこれは大きな違いです」

また、顧客へのフォロー体制も抜かりがない。

高橋「遺伝子配列の解読はすでに終わりましたが、研究自体は続いていて、新たな知識も毎年のように出て来る。その無償アップデートも行っています。これは他社さんでは行っていないものです。とにかく科学的な信頼性の部分には力を入れています」

実際のサービスの利用状況や主なユーザー層についても尋ねてみた。

高橋「ジーンクエストでは300項目以上わかる遺伝子解析キットを提供しています。大きく分けると、病気のリスク、お酒が飲めるか飲めないかといった体質、そして祖先の三つがわかり、体質にあった生活習慣の見直しのヒントもチェックできるようになっています。

男女問わず、30代~50代の方に多く利用していただいています。自分の家族が病気になった、子供が出来たから遺伝的なリスクを知っておきたい、といった目的の方が多い印象です」


ジーンクエストが提供する遺伝子解析キット

最先端な技術ほど“リテラシー”を意識しなければならない

遺伝子解析の分野は日夜着実に進歩している。とはいえ、高橋氏が語ったように、まだまだ業界自体も発展段階、一般の理解も決して正しい形で進んでいるとは言い難い。業界全体の課題について高橋氏は「誤解が多いことが問題」だと語る。

高橋「遺伝子を調べれば100%なんでもわかってしまうという誤解。逆に遺伝子を調べるというのは占いのようなもので、結局何もわからないだろうという誤解、大きく分けて二つの誤解があります。
 
そもそも一部の遺伝性疾患を除いて、遺伝子を見て100%何かがわかるというものは基本的にはありません。病気であれば、遺伝要因だけでなく、環境要因もかかわります。また、遺伝要因がかかわる割合も病気によって大きく異なります。家族性の乳がんだとほとんどが遺伝要因といわれていますが、肺がんであれば10%程度です。

加えて、検査でわかる各項目のエビデンス自体も大きく異なります。例えば、お酒が強いか弱いかという話はヒトゲノムが解析されるかなり前から研究がなされてきました。逆に遺伝子が性格にかかわるという話がありますが、これはここ数年で調べ始められたことです。すべてを同じ土俵で語ることは出来ません」

こうした課題がある一方、自らの「遺伝子を知ること自体は有益である」と高橋氏は語る。ジーンクエストとしても正しいリテラシーを広めるための活動を続けているそうだ。

高橋「医療の分野では抗がん剤の選択でどんどん連携が進んでいます。それ以外にもヘルスケア領域では食事や睡眠などいろいろな分野で利用され始めている。社会が生きる方向で技術が利用され始めているのです。ですが誤解がされたままだとおかしな方向に向かいかねません。

新しい技術が社会に入ってくるとき、最先端のものほど『人間とは何か』という疑問につながってきます。この時に思考停止してしまうのではなく、しっかりと考えるべきだと思うのです。そのためのリテラシーが広まってほしい。

ジーンクエストでも生命科学分野のセミナーを開いていますし、私自身もツイッターで情報発信をしたり、オンラインサロンを開くなど、正しい知識を広めるための活動をしています」

近い未来、医療と非医療の“境界線”はなくなる

研究は日々ちゃくちゃくと進み状況も変わっていく、日本の最先端を行く、ジーンクエストの代表である高橋氏は行く末をどう見ているのだろうか。

高橋「今のところ、遺伝子解析の分野は医療と非医療で分けられています。管轄する省庁も厚労省と経産省で違う。でも今後研究が進めば、この境目があいまいになってくると考えています。

今、私たちの分野では差別にもつながりかねない、精神疾患や遺伝性疾患についてはサービスをお出ししていないのですが、今後は技術的には簡単にわかるようになってきます。こうしたリスクをどう乗り越えるかということを考える必要が出てくるはずです。

そのうえで本人の知りたい権利、知りたくない権利をどう担保していくのかということも考えなくてはいけなくなると思います」

こうした課題を解決した先に何があるのだろうか。

高橋「医療以外にヘルスケアのありとあらゆる分野に遺伝子がかかわってくるようになると思います。“遺伝子×何か”、というのが増えてくる。さらに遺伝子の配列だけでなく様々な生体情報が調べられるようになり、なんとなく精神的な状態が悪い、体の調子が悪い、あるいは自覚症状がなかった何かが可視化されるようになってくる。

そして、来るべき未来を予測してコントロールできるようになってくる。しかもこれが健康分野だけではなくて、美容などいろいろなヘルスケア領域で応用できるようになってくると考えています」

高橋自身は今も現役の研究者だ、さらにその先を見据えた大きな目標があるという。

「生命の仕組みそのもの自体はまだ大きな謎に包まれています。そこを解明していきたいです。法則性がわかればそれを治療の開発や医療などに生かしていける。生命の謎を解明していきながらそれを社会に応用していくということがやりたいんです」

取材・文:小林たかし
写真:西村克也