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「健康」と「成果」はトレードオフではない──ウェルビーイングが企業価値を左右する時代

「働きやすさ」は、これまで企業にとって付加的な要素とみなされてきた。福利厚生の一部であり、企業側にとってコストとして扱われることも少なくなかった。

しかし今、その位置づけが大きく変わり始めている。世界経済フォーラム(WEF)は、従業員の健康や幸福度の向上が、世界全体で年間最大11.7兆ドル(約1,700兆円)規模の経済価値を生み出す可能性があると指摘している。

つまり、従業員がどのようなコンディションで働いているかが、企業の競争力を左右する時代になりつつある。本記事では、ウェルビーイングを福利厚生ではなく、経営戦略の中核として捉え、その重要性や企業経営に与える影響について検証していく。

なぜ「働きやすさ」は経営テーマになったのか

ウェルビーイングが経営テーマとして重視されるようになった背景には、働き方と価値創出の構造変化がある。

従来の企業では、価値は主に資本や設備、効率性から生まれていた。そのため、従業員は「管理すべきリソース」として扱われることが多かった。

しかし現在は、知識や創造性が価値の源泉となり、個人のパフォーマンスがそのまま企業価値に直結する構造へと移行している。

その背景には、技術の標準化やグローバル化がある。設備や仕組みそのものでは差がつきにくくなり、価値は次第に「何を持っているか」ではなく、「どう考え、どう意思決定するか」によって生まれるようになっている。

この環境では、従業員の心身のコンディションが、集中力や判断力、創造性に影響し、成果を大きく左右する。

さらに、リモートワークの普及や働き方の多様化により、従来のような「時間管理」だけでは従業員のパフォーマンスを測れなくなっている。その結果、企業は初めて、「従業員がどのような状態で働いているか」に向き合わざるを得なくなったのだ。

ウェルビーイングはなぜ重要なのか

ウェルビーイングが重要視される理由は、単なる健康管理の問題ではない。AIの普及や業務の高度化によって、人に求められる役割は変化している。定型業務は自動化され、人はより複雑で創造的な判断を担うようになった。

このとき重要になるのが、「従業員がどのような状態で働いているか」である。慢性的なストレスや疲労のなかでは、判断の質は低下し、創造性も発揮されにくい。一方で、心理的に安定し、エネルギーが保たれている状態では、より高いパフォーマンスが期待できる。

また、バーンアウトの増加や人材の流動化も、この問題を顕在化させている。人的資本経営が重視されるなかで、従業員の状態そのものが経営資源として認識され始めているのだ。

健康”と“成果”はトレードオフなのか

これまで多くの企業では、「高い成果」と「従業員の健康」はトレードオフの関係にあると考えられてきた。短期的な成果を追求すれば負荷は高まり、結果として従業員の健康や満足度は犠牲になる。逆に、働きやすさを重視すれば、生産性が低下するという見方だ。

しかし近年の研究では、この前提は必ずしも正しくないことが明らかになっている。個人・組織の双方のレベルで、ウェルビーイングと生産性の間には正の相関が確認されている。

心理的に安定し、エネルギーが保たれている状態ほど、集中力や判断の質が高まり、結果としてパフォーマンスも向上する傾向がある。つまり、ここで起きているのは、「健康」と「成果」の対立ではなく、両者の相関だ。

むしろ、過度な負荷に依存した成長モデルは持続しない。短期的には成果が出たとしても、バーンアウトや離職を招き、長期的にはパフォーマンスの低下につながる。「人を犠牲にする成長」は、構造的に限界を迎えつつある。

ウェルビーイングを“設計する”という発想

それでは、企業は何を変えるべきなのか。多くの企業では、ウェルビーイング施策は依然として「プログラム」として導入されている。福利厚生やメンタルヘルス支援など、個別の取り組みが中心だ。

しかし本質的に重要なのは、ウェルビーイングを“設計”することである。たとえば、業務量や役割の設計そのものが、従業員のコンディションに大きく影響する。過度に分断された業務や、常に緊急対応が求められる環境では、安定したパフォーマンスは維持しにくい。

評価制度も同様だ。短期成果のみを重視する評価制度では、長時間労働や過度な負荷が生まれやすい。一方で、プロセスやチームへの貢献を含めた評価制度にすることで、より持続可能な働き方を促すことができる。

また、マネジメントのあり方も重要な要素になる。たとえば、業務の優先順位を明確にする、不要な会議やタスクを削減する、個人に裁量を持たせるといった日常的な意思決定が、結果として従業員のストレス軽減や生産性向上に大きく影響する。

さらに、ウェルビーイングは測定可能な指標として扱うこともできる。エンゲージメント、離職率、欠勤率などを通じて、組織の状態を可視化することが可能だ。

重要なのは、ウェルビーイングを単なる付加価値として扱うのではなく、成果と接続された経営指標として位置づけることである。つまり、ウェルビーイングは施策ではなく、仕事の設計・評価・運営に組み込まれた経営システムとして捉える必要がある。

日本企業にとっての意味

ウェルビーイングを経営戦略として捉える動きは、もちろん日本企業にとっても無関係ではない。

近年、日本では人的資本開示の義務化や「健康経営」の推進など、人材への投資を重視する動きが加速している。企業は従業員のエンゲージメントや離職率といった指標を開示し、その状態を外部に説明することが求められ始めているのだ。

これは、ウェルビーイングが社内向けの施策にとどまらず、投資家が企業を評価する際の判断材料にもなりつつあることを意味する。

一方で、実装の面では課題も多い。多くの企業でウェルビーイングは依然として「施策」にとどまっている。福利厚生や制度は整備されていても、それが業務設計や評価、マネジメントにまで一貫して組み込まれているケースは多くない。

その背景には、日本企業特有の構造もある。たとえば、長時間労働や同質性の高い組織運営、年功的な評価といった慣行は、短期的な効率や安定には寄与してきた一方で、個人の状態や多様な働き方を前提とした設計にはなりにくい。

また、成果よりも「働いた時間」や「プロセスへの関与」が評価されやすい環境では、「どれだけ長く働いたか」が暗黙の評価軸となりやすく、結果としてウェルビーイングと成果を切り離して捉えやすい。

その結果、企業としてはウェルビーイングの重要性を認識しながらも、既存の評価や業務設計と十分に接続されず、個別の施策は進んでいるものの、全体としては働き方や成果の出し方が変わらない状況が生まれている。

つまり、ウェルビーイングを「測ること」は始まっているが、「設計すること」はまだ十分ではない。このギャップを埋めるためには、単に施策を増やすのではなく、成果の定義を見直す、評価と働き方を接続する、マネジメントの前提を変えるといった、より根本的な見直しが求められる。

ウェルビーイングを「配慮」ではなく、パフォーマンスを生み出す設計要素として捉えられるか。それが、日本企業にとっての分岐点になりつつあるのだ。

企業は“人材をどう扱うか”で競争する時代へ

ここまで見てきた変化は、企業競争の軸そのものの変化を示している。これからの企業間競争は、単にプロダクトや価格だけで決まるものではない。従業員の力をいかに引き出し、能力を発揮できる環境を整えられるかが、競争優位を左右する。

ウェルビーイングは、コストではなく、企業価値を生み出す源泉へと変わりつつある。人的資本の重要性が高まるなかで、「働きやすさ」は単なる魅力ではなく、企業の持続的成長を支える要素になるだろう。

そのとき問われるのは、ウェルビーイング施策の有無ではない。従業員をどのような存在として捉え、どのような組織や働く環境を設計するかである。

あなたの組織は、「働きやすさ」をコストとして扱っているだろうか。それとも、競争力として設計しているだろうか。

文:中井 千尋(Livit

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