テストドライバーと聞いて、その仕事内容を具体的に思い浮かべられる人は少ないかもしれないが、新車の開発に際し、さまざま試験を担当するドライバー、であることくらいは、想像がつくと思う。しかし、レーシングドライバーのようにサーキットでラップタイムを追い続ける仕事……と思っているなら、それは間違いだ。

加藤博義さんは、日産自動車が抱えるテストドライバーたちの頂点。間もなく定年を迎える加藤さんだが、開発車両をトータルでチェックする車両性実験という仕事だけでなく、日産アカデミードライビング&テクノロジーという社内アカデミーなどを通じ、後進の育成にも取り組んでいる。日産自動車がこうした機関を設け、人材育成を図る理由とは?

<プロフィール>加藤博義:1957年生まれ。日産自動車実験開発本部 車両実験部 テクニカルマイスター。1976年、日産自動車に入社、セドリック、ブルーバードなどの実験に携わる。後にスカイライン、フェアレディZ、GT-Rの開発ドライバーを担当するほか、すべての日産車の車両実験を統括。2003年、厚生労働省により卓越した技能者を表彰する「現代の名工」に選出される。2004年には「黄綬表彰」を受賞。

 

テストドライバーに求められる素養とは?

日産自動車で車両試験を担当するには、社内資格の取得が必要。それらは対応できる最高速度やドライビングスキルに応じて、AS、A1、A2…と、6段階にグレード分けされている。最高速度300km/hを超えるGT-Rから、コンパクトカーや軽自動車、商用車まで幅広いラインナップを展開する日産自動車だけに、資格制度のグレード分けは当然のことのように思われる。しかし加藤さんは、テストドライバーに要求されるのは“速さ”を追求するためのドライビングテクニックではない、といい切る。

「テストドライバーに要求されるスキルは、大きく分けてふたつ。“運転”と“実務”です。まずドライビングスキルですが、上位グレードの資格を獲得する際には、パイロンスラロームやジムカーナといった実地訓練を1年間かけて行います。

対する実務スキルは、パラメータースタディなどを通じ、冷静にクルマの状態を観察できる能力です。走行データを採る際、何かがおかしいと感じても、絶対にクルマを壊さないこと。そして、どんな風におかしいのか、音や振動、さらには臭いなどに至るまで、それらがどうして生じているのか、危ないのかどうかといったことを把握し、状況を的確にエンジニアたちへ伝えられるか、という能力ですね」

つまりテストドライバーには、正確な運転操作はもちろん、客観性や表現力も必要というわけだ。

 

会社が必要としているのはデータだけではない

ひと口にテストドライバーといっても、多彩なモデルを手掛ける日産自動車には1000人を超える資格保有者がいる。その中で、加藤さんと同じ最高位“AS”資格の保有者は、片手ほどの人数に過ぎない。それに順ずる“A1”グレードの中から次世代を担う“AS”ドライバーを育成するために、加藤さんはスーパーバイザーとして、テストドライバーの育成を務めている。

「GT-Rのように速さを求めるクルマなら、プロのレーシングドライバーに開発を依頼すればいいのでは、と思われるかもしれませんが、それでは日産自動車にデータは残っても、人材という財産は残らない。クルマによっては運転も実務も、高度なスキルが要求されます。私の仕事は、若手がどこまでできるのか、それを見極めることですね。

もちろんアカデミーでも指導を行っていますが、それはごく一部の状況・場面に限られます。でも、生産開始間近の車両の仕様を最終決定するとき、つまり、新車発売の1年くらい前になると、若いドライバーたちと接する機会が多くあります。仕様決定に苦労しているようであれば、一緒に開発車両に乗り『加藤ならこういう部分をチェックする』という姿を見せています。手取り足取り教えることもできますが、テストドライバーとして独り立ちするためには、やはり自分で考える必要があると思いますので」

“ワザは見て盗む”とか“徒弟関係”というと、前時代的と捉える人もいるだろう。だが日産のような大手自動車メーカーでは、車両開発に際し、最先端テクノロジーの導入はもちろん、彼らテストドライバーも重要な役割を担っている。

「現在は、コンピューターによる解析、シミュレーションも進化していますから、普通に乗って困るようなクルマが出来上がることはありません。とはいえ、クルマはエンジンやブレーキ、サスペンションなど、多くの部品で構成されている工業製品ですし、各分野の専門家が開発・設計を行っています。

例えば、開発中に『これでいいのだろうか?』と感じることがあった場合、皆が同じ意見なら、問題はありません。でも、それをジャッジするとなると、専門知識も必要になります。クルマの開発は総合力ですからね」

開発中の車両がコンセプトやキャラクターにマッチしない挙動などを示す場合、開発担当者やテストドライバーの認識が同じであれば、修正は容易。でも、それに対する意見が割れた場合や、別の部位に原因がある場合は、テストドライバーが収集したデータや、彼らの分析が大きな意味を持つ。クルマという製品は、何かが欠けていても、逆に何かが突出していても、バランスを崩してしまうのだ。

 

評価基準は私見ではなく、数値を重視

テストドライバーには、運転と実務の両スキルに加え、センスや経験も必要だと加藤さんは続ける。その一方、車両を評価する際は、徹底してデータに基づくと断言する。

「エンジニアとの共通言語はデータや数値です。誰が見ても違いなどが一目瞭然ですからね。データに基づかない何かを主張しても、それはただの“好み”でしかありません。

もちろん、データを補完するために、言葉を使ったり、同乗してもらったりすることもありますよ。例えば、コンパクトカーのマーチとスポーツカーのGT-Rとでは、ステアリングの重さが違います。GT-Rを同じ操舵力をマーチに採用したら、多くのユーザーは『重い!』と感じることでしょう。でも、何をもって操舵力の重さを決めているのかといえば、やはり数値しかありません。

操舵力が15ニュートンなら合格、20ニュートンでは重い、といったような判断は、あくまでデータを踏まえて決定します。そして、それがクルマのコンセプトに合っているのか、日産自動車のクルマとしてOKなのかを最終的に検討するわけです。私が『このクルマならこれくらいの重さがいいよ』と主張したところで、それはただの好き嫌いに過ぎませんからね(笑)」

エンジニアとの共同作業により、部品の集合体であるクルマは、キャラクターにふさわしい“味付け”が施され、製品として世に出る。こうしたクルマづくりのプロセスは、今後も変わらないと思われるが、一方で、性能はもちろん、採用されるテクノロジーは、5年前や10年前とでは、大きく異なっている。

例えば10年前、スポーツカーの最高出力は300馬力前後が標準だったが、最新のGT-Rでは600馬力に達している。またトランスミッションも、3ペダル式のMTやトルコン式ATは減少し、2ペダル式MTやCVTを採用する車種が増えてきた。さらには、ハイブリッドやEVなど、動力源も急速な変化を遂げている。こうした現状を踏まえ、加藤さんはこれからのテストドライバーのあり方を、どのように捉えているのだろうか?

「後進の育成というと『第2の加藤博義を育てているのですか?』と聞かれることがあります。でもそれはナンセンスですし、意味がないことです。私が現場で開発を担当していた頃は、ガソリンをどんどん燃やして走るようなクルマもありましたが、今は時代も環境もすっかり変わりましたし、新車開発に求められるスキルも変わりました。

実験部に配属され、テストドライバーを目指しているスタッフの中には、ナンバー2を狙うような人間はいません。みんなナンバー1を目指しています。しかも、周りは全員プロ中のプロですから、ただ運転が上手いだけではダメだ、という自覚も芽生えています。私は今、次世代を担うテストドライバーの育成、その土壌づくりをお手伝いしていますが、結局のところ、次の時代にふさわしいテストドライバーは、彼らの中から自然と傑出してくるものだと思っています」

日産車とはどのようなクルマなのかを左右する、羅針盤としての役割を担うテストドライバー。時代が変わり、テクノロジーが進化しても、加藤さんをはじめとする匠たちが培ってきた経験とノウハウは、次の時代に継承していくべき偉大なる財産だ。日産自動車が加藤さんに敬意を持って接し、後継者育成に積極的に取り組んでいるのは、テストドライバーの価値を十分認識しているからこそ、なのだろう。