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2009年にアイルランド・ダブリンで開催が始まった「Web Summit(ウェブ・サミット)」。初年度にはたった1500人だった参加者が、今では開催期間中に7万人もの人びとが集まり、テクノロジー、インターネットの主要イベントとしての地位を確固たるものにしている。
このイベントとともに注目されているのが、現在の開催地であるポルトガルのリスボンだ。
欧州のテック起業家の移住やスタートアップエコシステムの急成長により、リスボンを称して「欧州のシリコンバレー」の名があがる一方、現実はそれほどでもない、メディアハイプだと冷静な声も聞かれるなど、業界をざわつかせている。
日本ではあまり聞かれない土地、ポルトガル・リスボンで今何が起きているのか。
世界最大級のカンファレンス「Web Summit」
Web Summitは2009年、ダブリンで開催された欧州のいちイベントに過ぎなかった。当時カンファレンスへの参加者はわずか1570人。
その後、2014年にはアメリカ版Collision、2015年にはアジア版RISEの開催がスタート、また、2023年にはブラジル版Web Summit Rioの開催も決定している。
ダブリンの会場は、2016年にポルトガルへと変更になり、2018年にはポルトガル政府の誘致によりリスボン市での開催に関する10年契約を締結した。また、2022年9月には東京での開催も予定されていたが、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、2021年12月にキャンセルが決まっている。
このイベントは「デジタル・セレンディピティ」と称して、人と人とをつなげるソフトウェアをバックボーンに開催。データ分析とネットワークサイエンスを通じて、参加するCEOや投資家、メディア、政治家といった「世界を変革する人びとやアイデア」のつながりを目的としている。多くの人が集まる中で、自社開発のソフトウェアを駆使した効率的なミーティングや展示会場の移動、人と人とのめぐり合わせを手配している。
いわば7万人ものテック関係者、すでにビリオネアであるCEOクラス、投資家、そして将来のビリオネアになり得る人たちが7万人も集まるとなれば、開催地の経済も当然大いに潤う。
ポルトガル政府が誘致を進めた理由には納得が行くが、スタートアップがなぜポルトガルを選んでいるのだろうか。
ポテンシャルがあったポルトガルとユーロ危機
欧州全体を巻き込んだ2010年の欧州債務危機(ユーロ危機)で、ポルトガルの失業率は2011年に18%近くまで上昇、そのうち約40%が若者という危機的状況に陥っていた。
それでも、2014年に国際支援から脱却を図ると、2016年には起業家を支援する国家戦略「プログラム・スタートアップ・ポルトガル」を整備。スタートアップエコシステムを整え、国内外のスタートアップの拠点となることで国内経済と雇用の活性化を図る意図があり、同年開催のWeb Summitをリスボンに誘致したことが追い風となった。
日本ではあまり知られることのないポルトガルだが、スタートアップや外資系企業の開発拠点としての注目だけでなく、定年後の移住地として、もとより欧米から注目が集まっていた。
英語を話す人が多く、温暖な気候で晴天が多い、海の幸をはじめとする美味しい食材が豊富、物価もEUと比較して20%以上安いポルトガル。不動産投資やファンド投資をすれば、「ゴールデンビザ」と呼ばれる長期滞在ビザと、5年後には永住権や市民権も取得できたため、定年後の悠々自適な生活拠点を探す人たちに人気があった(このゴールデンビザ措置は2022年に変更があり発給が終了している)。
また近年では、ブレグジットによる移民も急増。他の欧州諸国とは異なる魅力として、ビーチがあることと、スタートアップの税制優遇が真っ先に挙げられている。巨額の不動産投資をしなくても、ビザが発給されるスタートアップ向けの「スタートアップビザ」もまた、若い層を惹きつけている。
ハードルの低いスタートアップビザ
このスタートアップビザは、若い起業家向けの居住ビザで、条件は(1)革新的な商品やサービスを主幹とした事業展開、(2)革新的な商品開発を見込んだテクノロジーや知識に特化した企業やプロジェクトの開業ないし移転、(3)従業員雇用の予定、(4)5年後に年間32万5000ユーロ(約4500万円)および/ないし資産価値が32万5000ユーロであることが条件。
その他に、シェンゲン協定国外の居住証明書、借金がないことの証明、犯罪歴がないこと、18歳以上であること、1人あたり5146.8ユーロ(約72万円)の貯金があることを証明、とゴールデンビザに比べてもハードルは低い。
繰り返しになるが、治安の良さ、理想的な生活環境、憧れのビーチサイドライフが叶うのもポルトガルの魅力だ。
実際にオランダからリスボンへ移住したAIデータ分析会社の共同創業者でもあるTim Kock氏は、事前にリスボンへの移転など想像していなかった。ある年に出張で訪れたリスボンでの仕事を終え、同僚たちと一緒にテラスでビールを飲んでいる時に偶然の出会いがリスボンへの移転を決意させたとしている。
隣席にいたコワーキングスペースの経営者と知り合い、その友達の大学教授を紹介され、人材確保の解決方法をひらめく。オランダではたった1つのポジションを埋めるのに6カ月もかかるのにかかわらず、リスボンでは8つの仕事に応募する人たちが120人。高学歴の若い人たちが、豊富に揃う市場だったのだ。大学の教育レベルが高く、機械学習がカリキュラムに含まれているため、現地での採用はスムーズで、海外から人を呼び寄せるにもポルトガルの暮しやすさはアドバンテージになると語っている。
一方で、経験のある人材の確保が難しく、特に会社を立ち上げた経験のある中間管理職以降の人材が不足しているのも事実。それでも相対的に、暖かく、熱心でフレンドリーなビジネス環境が整っていると満足そうに語る。
同じくリスボンへ移住した船会社の共同創業者Mark Bastiaanssen氏が、オランダからスペインではなく、ポルトガルに移住した理由を「英語を話す人の割合がスペインより高かったため」と答えている。たしかに、英語能力ランキングでもポルトガルはスペインよりも上に位置している。
他にも、リスボンやポルトガルの各都市の新しいものを受け入れる姿勢が魅力的だと語る人も多い。電動スクーターが街のいたるところに設置されていたり、デリバリーサービスが充実していたり、最新テクノロジーを取り入れた町の雰囲気がスタートアップに居心地の良さを提供していると言われている。また、リスボンと他のテック都市を結ぶ空路の便利さも移住のポイントらしい。
慎重論もありつつ住めば都?
政府をあげてスタートアップや移住者を歓迎しており、「欧州のシリコンバレー」という名称まで飛び出しているリスボンはたしかに魅力的だ。しかしながら、こうしたブームに慎重な意見も少なくない。
ビザを取得する際の手続きが煩雑だとする声も多いほか、ポルトガルの投資家の間では、人びとは古風な考えが主流で、スタートアップへの資金集めに苦労をしているという声も聞かれる。ゼロからの海外ネットワークの構築や投資の呼び込みもなかなか困難で、国外に親会社を設定する必要があると言うスタートアップも。
VRでの脳トレーニングを提供するスタートアップを経営するAmir Bozorgzadeh氏は、「リスボンのテックハブとしてのブームは派手な宣伝」だと警告。スタートアップのハブとしての成長と継続的な発展の確固たる兆しを見せないかぎり、このブームは終わるとしている。
氏はまた、Web Summitがリスボンで開催された際の熱狂は、イベント後に起業家たちが結果を得られなかったため沈静化したと見ており、イベントから派生したプロジェクトは一つもなかったため、関係者の間でストレスがたまっていると2020年に発言している。
それでも、リスボン移住はベストな選択で、人びとと仕事のカルチャーがリスボンを特別な町にしているうえに、すばらしい気候とあたたかい人びとの積極的な姿勢、ワーク・ライフバランスのエネルギーにあふれており、実に理想的な状況にいると称賛している。
Googleやシスコ、Uber、フォルクスワーゲン、メルセデスベンツなどのビッグネームも続々とテック部門をリスボン近郊に移動させている。メディアハイプに賛否両論ありつつも、移住した人たちは結局のところ満足していると口を揃えて絶賛しているのも興味深い。リスボンは本物のスタートアップのハブとなるのか、これからの動向にも注目が集まる。
ウェブサミットについての記事はこちら。
文:伊勢本ゆかり
編集:岡徳之(Livit)