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2022年5月30日、イギリスで新たなビザ制度「High Potential Individual visa route(ハイポテンシャル・インディビジュアル・ビザ・ルート」(以下、HPIビザと表記)が開始される。
これは、世界トップクラスの大学卒業者に対して、ジョブオファー(現地企業の雇用契約)なしで、2〜3年の居住許可が与えられるというもの。高い潜在能力を活かし、自由に雇用主を変えたり、自身で事業を始めることも可能だ。
イギリス政府からの正式な情報はまだ発表されていないが、各社の報道によれば、世界ランキングトップ50位以内の大学卒業者が対象になる。また、扶養家族(パートナーと18歳未満の子ども)の滞在も許可され、扶養家族もイギリス内で自由に働けるという。
他国の大学卒業者に、ジョブオファーなしでビザが与えられるのは世界的に見ても異例であり、海外移住者やそれを望む人の間で大きな話題になっているようだ。同制度には、「グローバルの優秀人材を集め、イノベーションを促進したい」というイギリス政府の狙いがある。HPIビザの概要とイギリス政府のイノベーション戦略を伝えたい。
優秀大学の卒業者に2〜3年の滞在許可を付与
イギリス政府の正式な発表はこれからだが、移民向けにイギリスのビザを扱うRichmond Chambersなどの法律事務所各社は、HPIビザの詳細を一斉に報じている。
それらによれば、HPIビザが付与されるのは、世界ランキングで50位以内の大学卒業者だ。以下3つの世界の大学ランキングのうち、少なくとも2つで50位以内にランクインしている必要がある。学部は問わない。
- Times Higher Education World University Rankings
- Quacquarelli Symonds World University Rankings
- The Academic Ranking of World Universities
さらに、以下4つの条件が追加される。
- 申請から5年以内に大学を卒業していなければならない
- 世界ランキングは、卒業した年のものを参照する
- 英語を除く言語で学位を取得している場合は、認定された英語試験でB1レベルの合格が必要
- 1270ポンド(約21万円)の預金がある(海外から入国許可を申請する場合)
かなり優遇された条件であり、世界ランキング上位の大学卒業者、かつ若手人材であれば、多くの人が当てはまりそうだ。学士号、または修士号を取得した卒業生には2年間のビザが、博士号、または博士レベルの資格を持つ卒業生には3年間のビザが付与される。
扶養家族として滞在が許可されるのは、パートナー(配偶者、及び2年以上同居している継続的な関係)と18歳未満の子どもとなる。
扶養家族のビザを申請する場合は、パートナーのために285ポンド(約5万円)、最初の子どものために315ポンド(約5万円)、追加の子ども1人につき200ポンド(約3万円)の貯金が求められる(イギリス国外から申請する場合)。
HPIビザが付与されるのは一度だけで、すでに大学院のビザを保持する人は利用できない。また、HPIビザを利用してイギリスに滞在中に、別のビザに切り替えることもできる。その他にも細かい諸条件はあるものの、上記をクリアしていれば、概ね滞在許可が付与されるようだ。
「2035年までにイノベーションハブに」イギリス政府の狙い
イギリス政府は、2021年7月に長文の「イノベーション戦略」をウェブ上で発表した。そのなかで、HPIビザについて名言している。新型コロナによるパンデミックで打撃を受けた経済を回復させるために、イノベーションへの大規模な投資や大胆な制度改正が不可欠と判断したようだ。
同国のイノベーション戦略では、「2035年までにイギリスをイノベーションのグローバルハブにすること」をビジョンとしている。
イノベーションを促進するための燃料を供給し、イノベーション研究機関等のニーズに応え、イギリス、及び世界的な課題へのソリューションを探っていく。さらにイノベーション促進に欠かせない才能ある人たちにとって、イギリスをもっともエキサイティングな場所にしたいと意気込む。その具体的な戦略を一部、抜粋して紹介したい。
- 研究開発への年間公共投資額を過去最高の220億ポンド(約3兆6千億円)に増やす
- イギリスのライフサイエンス企業が直面している成長段階の資金ギャップをターゲットに、2億ポンド(約330億円)を投資する
- 5900万ポンド(約98億)の産学官の投資により、企業主導の研究プロジェクトを立ち上げ、変革的な新技術を開発する
- HPIビザ等を導入し、世界的に活躍するイノベーション人材を引き付け、維持する
パンデミックで得た教訓を踏まえ、イノベーションを政府の中心に置き、リスクを負って投資する覚悟だ。ヨーロッパを中心に国内外のイノベーション事情を追っている筆者は、以下の文章からイギリス政府の本気度を感じ取った。
「イノベーションにおけるポートフォリオ・マインドセットとは、多少の失敗は不可避であることを受け入れて、大きな成功を生み出すことを意味する。そのような失敗は『ムダ』ではなく、むしろ成功のための諸経費だ」
Meta(元Facebook)の新規プロダクト実験責任者を務めるIme Archibong(イメ・アルチボング)氏も、以下の通りカンファレンスで同様の発言をしていた。
「失敗すればするほど、学びを得て、うまく機能するものに近づいている。実験を繰り返すアプローチこそが、イノベーションにつながっている」
オランダはトップ200までの大学卒業者にビザ付与
イギリスのHPIビザは異例の制度といえるが、実はオランダにも似たようなビザ制度が存在している。
2016年3月に発効されたオランダの「orientation year residence permit(オリエンテーション・イヤー・レジデンス・パーミット」は、世界の大学ランキングで200位以内の大学卒業者に1年間の居住許可が与えられる。
参照しているランキングはイギリスとまったく同様で、3つのうち2つで200位以内にランクインしている必要がある。卒業・修了日、または博士号取得日のランキングを対象とする。
英語、またはオランダ語ではない言語で学位を取得した場合は、IELTSの6.0以上のスコアが求められる。加えて、卒業後3年以内に申請しなければならない。扶養家族については説明が見当たらなかったため、本人のみを対象としているのかもしれない。
コロナ禍でグローバル人材競争はより激しく
イギリスのイノベーション戦略に表れているように、世界的な人材獲得競争はますます激しさを増している。新型コロナやロシアのウクライナ侵攻による影響も少なからずあるようだ。
例えばアメリカでは、他国に暮らしながらアメリカ企業に所属する「テレマイグランツ(デジタル移民)」の流れが加速しているという。特に、インド人エンジニアにその動きが多く見られ、インドで暮らしながら米国企業に所属するエンジニアが急増しているようだ。
会計、法律等のインド人専門家も、国境を超えたリモート勤務が一般化しているとか。また、インド人を多く雇うアメリカ企業のコールセンターが、事実上インドに移転したという動きもあるという。
また、ウクライナの近隣諸国では、ロシアによる侵攻の影響も見られている。日本貿易振興機構(ジェトロ)のレポートによれば、イスラエルの「タイムズ・オブ・イスラエル」紙(2022年3月22日付)は、同国のハイテク産業の主に研究開発(R&D)部門の人材供給がひっ迫していると報じたという。
イノベーション大国といわれユニコーン企業を多く排出するイスラエルでは、国内の人材獲得競争が厳しく、国外で優秀な人材を多く雇用する傾向がある。北米や欧州などの主要都市の営業拠点での雇用を進めており、ウクライナもその一つだったようだ。
アメリカの「ウォールストリート・ジャーナル」紙(2022年2月24日付)によれば、ウクライナには8万5000人から10万人ほどのソフトウエア開発やIT関連の技術者がおり、イスラエル企業もウクライナ人の技術者を多く雇用しているという。そのため、現在の情勢が長引くと、イスラエルのハイテク産業にも悪影響を及ぼしかねない。
デジタル移民の流れはアメリカ以外でも見られ、筆者がヨーロッパで参加したカンファレンスや現地企業への取材でも、国境を超えて働くリモートワークが当たり前になっている印象があった。ただし、時差が大きすぎると円滑なコミュニケーションが困難になり、チームビルディングや効率化に支障をきたすことがあるという課題も聞かれた。
そんな背景を踏まえると、国として優秀な移民を受け入れる柔軟な制度を整えると共に、各企業がデジタル移民として働ける環境を整えることも求められそうだ。
文:小林香織
編集:岡徳之(Livit)