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ここ数年で多様性が叫ばれるようになったことで、マイノリティである人たちにも光が当たり、多くの人が生きやすい世の中にしていこうとする動きがある。一方で、発信・発言する際には多様性への配慮が過剰に求められることもあり、窮屈さを感じる場面もあるのではないだろうか。世の中は今、多様性とはどうあるべきかを探る変革期にある。テレビやネットなど様々なメディアで表に立つタレントの田村淳さんは、多様性をどう捉え、どう向き合っているのか。一個人として、影響力のあるタレントとして、そして経営者の立場からお話しいただいた。
多様性に必要なのは自分軸で生きること
——ここ数年で盛んに言われるようになった“多様性”について、どう捉えていますか?
田村:それぞれの個性をお互いが認め合うこと。それぐらいザックリとした感じで捉えています。今“多種多様な生き方”とか言われていますけれど、昔からそういう生き方を肯定してきたので、世間で多様性と言われているからといって、自分の考えや軸が変わる感覚はないですね。
——その価値観は、幼少期や学校生活の中で育まれたものでしょうか?
田村:今は“同調圧力”という言葉で言語化できるのですが、昔からクラスの中で巻き起こる同調圧力には違和感がありました。「それぞれ何かしら個性がある。その個性を大切にしなさい」と母がよく言っていましたね。子どもの頃、障害のある人を目の前にしたとき、もしかしたら僕は指をさしていたこともあるかもしれません。でもそんな時、母はそれを注意してくれていたと思うんです。そういったことが経験としてあったので、物心がついた時には、例えばLGBTQの人がいて囃し立てられていたら周囲を諭していましたね。自分ではそれが正しいかどうかという感覚すらないぐらいです。ルールや法律を逸脱していなければ、僕はそれぞれの人生において多種多様な生き方を認めるべきだと思っていたので、みんながサラリーマンや大学進学を目指している時に、僕は僕の生きたい道を進んできました。
今すごく多様性と言われはじめているけれど、「なぜ今になって言われはじめているのかな?」という違和感があります。世界的な風潮に乗っかっているだけのメディアもある印象です……。世界の基準がそうだからみんな合わせようでは意味がない。もともと多種多様な生き方をしている人は違和感なく受け入れられる言葉や価値観でしょうけれど、そういう生き方をしてこなかった人もいるので、周りに合わせているだけの本質的ではない言葉だけの多様性が目立つ気がします。
ありがたいことに、僕は母の方針もあって自分の個性を大切にする軸を持って生きてこれましたけど、他人の評価や指標の中で生きてきた人は、心の中にある価値観を根底から覆す作業をしなくちゃいけない。だから、みんなが納得し合える多様性のある世界は、もう少し後の話になると思います。生まれた時から多種多様な空気感や言論の自由がある世代の子どもたちが育ったときに、世の中の当たり前になるんじゃないですかね。
チューニングされるお笑い。テレビ局も個性を打ち出す時代へ
——テレビにおける多様な表現について。バラエティやお笑い番組で見る容姿いじりから生まれる笑いは、今後どうなっていくと思いますか?
田村:容姿に関しては触れない方向でいくのだと思います。ちょっと前までは僕たち演者の信頼関係のもとに笑いにつなげてきましたけど、今はそれが認められない空気があるじゃないですか。僕はそれがハラスメントになる可能性もあると思うんですけどね。ただ、たくさんの人に観てもらうメディアが配慮するのは当然で、もう10年ぐらい前からその流れがあり、表現の幅が狭くなってきているのは体感としてあります。今後は、スポンサーがいて多くの人の目に触れるマスメディアと、表現の自由がある小さなメディアとでチューニングされていくと思います。
僕は今まで愛を持ってお笑いをやってきましたし、“一隅を照らす”ということで築いてきた信頼関係の中でやってきましたから、それが間違っているとは今も思っていないです。自分のYouTubeや小さいメディアではやるでしょうけれど、容姿いじりに関しては今後マスメディアではやらない方向です。どちらがいいかは観る人が決めればいいと思います。
僕たちは言ってみれば出入り業者であり、制作会社やテレビ局の意向に沿った仕事が求められます。でも、自分の表現方法と求められることが違うときは、今でも出演を断っているんです。
——容姿いじりをはじめとするメディアでの発言を、子どもが真似することでイジメにつながっていると言われることもありますが、その点についてはどう思いますか?
田村:僕はどんな番組を観ても、子どもへの教育において影響がないと思っている派です。それを言い始めてしまうと、殺人シーンとかヤクザ映画などはすべて観てはいけないことになってしまうので。そこに関しては表現の自由がある。もちろんR指定にすべき表現や作品はありますけど、結局観せるか否かの責任は保護者にあると思います。
テレビの中での表現は、総務省からのルールに則って流れているものです。ただ、それが害悪になることがあると言うならば、何をどう制限をかけるのかを話し合う必要がある。空気感や同調圧力の中で何かを縛っていくものほど危ういものはないので、この法律に触れているから放映してはいけないのだとルールを決めないと解決はしないですよね。空気感でジャッジするのはダメだと思います。
——実際に、世の中の流れを汲んで周囲の芸人さんたちが表現を模索している様子はありますか?
田村:みんな何かしら新しい表現方法で楽しませようとしていると思います。僕自身もそうです。もう容姿はいじらない方向しかないですよね。すでに波が押し寄せていて、これがどのぐらいのスピードで砂浜を侵食するのかはわからない。満ちるけど引きはしないでしょう。ただこちら側の砂浜をどう形成していくかです。
テレビ局も「A局はここまで戻してやります」「B局はやりません」と、それぞれの個性を出す時代になってくると思います。その中で小さなメディアでは表現の自由が担保されるはずなので、その表現方法が認められればマスメディアも真似していくでしょうね。
今はテレビ東京さんとNHKさんが色濃く自分たちの個性を出せているテレビ局だと思っています。あとは、どこまで表現していいのかの基準が定まらないので、自分たちのカラーの打ち出し方は横一線の印象です。今はどの辺りの表現がいいのだろうと探り合っていると思います。
価値観が異なるときは、譲歩できる部分を見つける
——田村さん主宰のオンラインサロン『大人の小学校』では、“世代も国籍も仕事も環境も価値観もまったく異なるひとたちが日常的に集うコミュニティ”と、まさに多様性を掲げていると思います。その中でも価値観の異なる人と対峙するのは大変だと思いますが、その際に心がけていることはありますか?
田村:「100%思い通りになるコミュニティはない」とサロンメンバーに伝えています。価値観が真逆になることもあるし、ぶつかり合うことも、平行線のときもある——。それはどのコミュニティにおいても起こり得ること。その中で合意形成を図るには何が必要かを考えたときに、どこまで意見を譲歩できるかが大切なので「譲歩と寛容と博愛」という言葉を打ち出しています。
僕は人の意見を聞くときに、譲歩できる部分を聞くんです。例えば、右翼思想と左翼思想が交われないのは譲歩できる部分がないからですよね。国を思う気持ちは同じベクトルだったとしても、歩み寄れないことで手を組める部分すら機会を失うのはもったいない。だからコミュニケーションを取ります。でもコミュニケーションを取ったとて、交じり合えないのは大前提です。ただコミュニケーションを取る間に相手の思いがわかってくるので、そうすると譲歩できる幅が見えてきます。
問題を解決するにはコミュニケーションを取りましょう!とよく言われるけれど、どんなコミュニケーションを取るかが大切。双方の意見を聞けるファシリテーターがいて、相手を思いやる言葉で議論できているかをジャッジできる人が必要です。僕を含め、なかなか中立の人はいないですけれど、僕のオンラインサロンではなるべく中立を保てる人をファシリテーターに立ててます。
ビジョンや信念を明確に、歩む道を広げてゴールへ向かう
——最後の質問です。多様性への配慮が必要な中で、企業や経営者など影響力を持って情報を発信する側はどんなことに気をつける必要があると思いますか?
田村:こんなことを言ったら炎上するとか、そういうリーガルチェックは二の次。もし炎上してしまったら誠心誠意対処すればいい。でもそういう危機管理が上手くない企業が多いから怖いんだろうなと思います。悪いことをしてしまったらきちんと謝る。シンプルなことですね。
企業理念が曲がっているならそこから変えないといけないですけれど、マイノリティや少数派の人たちを傷つけないようにと思いはじめると何もできなくなってしまうので、自分たちの企業理念に則ってやっているのであれば堂々とすること。何かイノベーションを起こす人は、法律やルールに関係なく「これがやりたい!」と道をつくる。でもルールを知っている人は「あれもこれも抵触する」と言って道を狭くしてしまうんです。でもその先に求めているビジョンがあるならやればいい、ないなら考え直す。自分たちが歩みたい道は、なるべく広くしておかないとゴールに近づかないと思うんです。なぜなら道が狭いと大勢の人が歩けないですからね。
「それぞれの個性をお互いが認め合うこと」が多様性であるならば、まずは自分の個性を理解し、それを認めてあげることから始まるのかもしれない。それが田村さんの語る“軸”であり、他人と比較したり優劣で判断したり、すべてを一辺倒にカテゴライズするような窮屈な価値観を手放す一歩となる。これだけ多様性という言葉を耳にするのは、多様性が未成熟な世の中であることの裏返しなのではないだろうか。多くの人が生きやすい世の中にするために、まずは真の多様性とはどうあるべきかを考える必要がある。そのために、今後も考えるキッカケづくりを行っていきたい。