大量の遺伝子情報を電子データ化し、解析するゲノム解析。遺伝子が関わっているとされる数多くの疾病の診断・治療、そして予防を格段に進歩させるこの新しい技術により、個別の患者の疾患リスクを評価し診断に役立てる他、個人差がある医薬品・治療の効果を考慮したオーダーメイドの医療を提供することができるとされている。
より効率的で効果的な医療の重要性が世界的に高まる中で、北欧の小さな国エストニアではこのゲノム解析を国家プロジェクトとして進めている。
本プロジェクトの狙い、また遺伝子情報というセンシティブなデータのセキュリティに、最先端の電子国家で知られるエストニアがどのように取り組んでいるのかを紹介する。
2001年にある科学者の発案により始まったエストニアのゲノム解析プロジェクトは、2018年には保健省と国立健康開発研究所との協働の元に進められる世界的に類をみない大規模な国家プロジェクトへと発展した。
最初の数年を資金調達と関連法規の整備、人材の確保に費やしたこの計画は、2007年にはタルトゥ大学にその本部を置き、EUのサポートを受けるまでに成長、エストニア人口の約5%にあたる52,000人以上からのデータ集積が完了した2017年からは、被験者に健康管理に関するフィードバックを提供するという新たなステージへと進んだ。
今年、2018年には国家レベルのプロジェクトとなり、さらに幅広く被験者を募集、現在では人口の10%強にあたる約15万からのゲノムデータの収集・分析が行われている。
このプロジェクトの最終的な目的は、エストニアにおいて個々人にパーソナライズされた医療が提供されることだ。
これまでの医療は基本的に患者を集団として捉えた治療が行われてきたが、ゲノム解析によって個々の患者の体質や疾患特性を医療従事者が把握できれば、より正確な診断、的確な治療が行えるようになり、最小の副作用・医療資源の投入で最大限の効果をもたらす治療を提供することが可能になると言われている。
また、私たち自身が自分の遺伝上の疾病リスクを把握していれば、疾患の予防、早期発見に役立てることができる。
今年、新たに国庫より500万ユーロが追加投資されるこのゲノム解析プロジェクトだが、もしこのような狙いが達成されれば、より優れた医療の提供という利点だけでなく、エストニアの財政上も有益な投資になることが期待されている。
もしゲノム解析に基づいて疾患を事前に予防、あるいは早期に治療できれば医療費の削減につながるからだ。また労働力人口の疾病による離職率も低下させることができれば、税収の確保という意味でもメリットは大きい。
このようなゲノム解析には、大量のデータ収集によるデータベースの構築を成功させることが不可欠であり、エストニアゲノムセンター広報担当者のAnnely Allik氏は、「遺伝子のデータが多いほど、研究精度は高くなり、疾患に関連する遺伝子変異をより早く発見することができる」と語る。
何をインセンティブにして多くの被験者からデータを集めるかは、同様のプロジェクトに取り組む各国で課題となっているが、前述したように、エストニアのゲノム解析プロジェクトは2017年末より被験者に疾病予防のためのパーソナライズされたフィードバックを返す試みを開始し、これがゲノムデータを提供する側のメリットとして捉えられている。
そして今年、2018年からはフィードバック機能をさらに充実させ、エストニア電子政府の医療情報管理ポータル「e-health」を通じて、ゲノムデータを提供者に対してだけでなく、医療従事者にも提供されることが予定されており、日々の臨床で医師がその情報を診断に活用する方法が模索されている。
今年2018年5月まで保健大臣を務めたJevgeni Ossinovski氏は、「現在、私たちは複雑な疾患の遺伝的リスクと、薬剤の効果の個人間での差異の両方に関して、日々の医療における体系的な利用を開始するための十分な知見を蓄積している」とメディアに発表した。
ゲノム情報の分析によりわかる医療関連情報は、遺伝性心疾患、2型糖尿病、緑内障、乳がん等の遺伝的リスク、過食または喫煙に中毒するリスク、抗うつ薬や鎮痛剤といった特定の薬の効き目等、幅広い。ついに、数年にわたるこのプロジェクトの成果が、臨床現場や市民の健康管理に実際に活用される段階になりつつあるのだ。
このプロジェクトにおけるエストニア市民からのゲノム情報の提供は現在、志願制となっており、被験者はインフォームドコンセントの後、最寄りの医療機関、あるいは提携研究所等で40mlの血液を提供し、300の質問からなるアンケートに答える。
このアンケートには、生年月日、国籍等の基本データ、4世代にわたる家族歴、教育および職歴、生活習慣に関する項目(身体活動、食生活 、喫煙習慣、アルコール消費量、生活の質)が含まれている。
被験者になるにあたって、個人情報の漏えいや、知りたくない疾患リスクが知らされるといった懸念があると考える人も少なくないかもしれないが、エストニアにおいては本プロジェクトへの参加は人気のようだ。
被験者の追加募集が始まった今年4月中には36,344人がオンラインで同意書に署名して被験者となり、同月中に10,654人が実際に遺伝子サンプルを提供した。最初の数日は血液サンプルの収集ポイントに行列すらできていたらしい。
究極の個人情報とも言われる遺伝子情報の提供には、データセキュリティ、プライバシー保護が課題としてつきまとうが、このゲノム関連研究に最先端のセキュリティ技術を提供しているのがCybernetica社、最先端の電子国家と呼ばれるエストニアを支える同国発のIT企業のひとつだ。
タリン工科大学の敷地内にオフィスを置くCybernetica社は、これまでXroadと呼ばれる政府および関連機関のデータベース連携システム構築、また電子投票システムの開発を担ってきており、暗号化技術の開発・コンサルティングのスペシャリスト集団として、国際的に知られている。
電子国家エストニアの骨格を支えてきた同社が提供する新しいソリューションが、タルトゥ大学の研究者と共同で開発しているSharemindだ。様々な分野で活用されているこのデータセキュリティサービスは、ゲノム解析のプライバシー保護に対しても活用が期待されている。
Sharemindは、特定のデータを保有する複数の団体、例えば研究機関等がデータベースをそれぞれアップロードすることで、データの分析者が元のデータベース自体にアクセスせずに、複数のデータを統合した結果だけを分析することを可能にするサービスだ。
暗号化技術がデータベースのアップロードと、分析の際の情報の取出しどちらにも活用されることで情報の機密性を守っている。
この技術の活用により、被験者のプライバシーを確保しながら、複数のゲノムバンクが協力しあい、それぞれの保有する被験者の集団をあわせてよりデータのサイズを大きくすることで、ゲノム分析の精度をより高めることもできるようになる。
エストニアのゲノムプロジェクトによって得られたデータは、エストニア市民の健康増進に用いられるだけでなく、世界中で数百のプロジェクトで活用されているという。
多くの国において、医療のフォーカスが、伝染病の治療からがんや生活習慣病の克服・予防にシフトしているが、特に医療費がすでに40兆円を超え、毎年増え続けている日本においては、ゲノム分析による医療革新、効率化は大きなインパクトをもたらす。
エストニアゲノムセンター代表のAndres Metspalu氏は、エストニアゲノムプロジェクトに投じられた数百万ユーロを「経費」ではなく「未来への投資」だと語っている。
高齢化と医療費の増大、がんや生活習慣病の克服といった、日本をはじめとする多くの国が共通して抱える課題に、このゲノムプロジェクトは多くの知見を与えるだろう。
文:大津陽子
編集:岡徳之(Livit)