法務分野におけるAI活用、トムソン・ロイターが仕掛ける戦略
Menlo Ventureの調査が示すように、企業の法務(Legal)部門における生成AI活用は、他部門に遅れをとっている状況だ。しかし、この1年で1,400%ものユーザー増加を達成した法務AIアプリケーションが存在する。トムソン・ロイターの「CoCounsel」だ。
トムソン・ロイターといえば、一般的にはロイター通信を運営するメディア企業として知られるが、実態は大きく異なる。同社の2020年の収益構造を見ると、最大の事業は「リーガルプロフェッショナル」で、収益全体の42%を占める。一方、ロイター通信事業の収益は全体の11%にとどまり、実質的には法律サービス企業としての顔を持つ。
同社は2023年6月、生成AI投資戦略の一環として法務AIスタートアップCasetextを6億5,000万ドルで買収。これにより、Casetextの主力プロダクトCoCounselを獲得した格好となる。
買収されたCasetextは、2013年にカリフォルニアで設立。当初は法律関連情報の配信と法律専門家向けの知識共有コミュニティ運営を行っていたが、その後、企業法務チームや法律事務所向けのAIツール開発へと軸を移した。OpenAIの当時の主力モデルGPT-4への早期アクセスが許可された数少ない企業の一つでもある。
CoCounselの早期版はOpenAIのGPT-4をベースとしつつ、トムソン・ロイターの膨大な専門データを組み合わせることで、高度な法務支援を実現。AIはプロフェッショナルの業務フローを模倣するよう設計されており、人間が行う作業と同等の成果物を生み出す能力があるとされた。特徴は、GPT-4の推論能力を活用しつつ、その知識ドメインをトムソン・ロイターが有する専門データに限定している点にある。これにより、社内の法務専門家が生成された情報を容易に検証できる体制を整えた。
同社は、この買収を長期戦略の一環と位置付けている。2023年6月時点の報道では、2025年までにAI企業を中心とするM&Aに100億ドル(10 billion USD)を投じ、主要プロダクトへの生成AI実装を加速させる方針と伝えられていた。
OpenAIのo1-miniモデルがもたらす法務AI革新、CoCounselの実力
当時GPT-4が登場したことで、特に法務など専門性の高い分野での生成AI活用が進むと思われたが、実際は課題も多く実務に投入されるケースは限定的であったと推察される。冒頭で示した法務部門におけるAI支出の少なさが、この状況を物語っている。
たとえば、スタンフォード大学の研究者らが分析したところでは、主要な法律系AIツールでさえ、検索補強生成(RAG)手法を採用していながら、質問の17〜33%でハルシネーションが観察されたという。一般的にRAGを活用することで、ハルシネーションリスクを抑えられるとされるが、完全に排除できない状況が浮き彫りとなった。要因の1つとして指摘されたのが、これらのツールが依拠していたGPT-4の限界だ。
この課題を踏まえ、トムソン・ロイターはOpenAIの最新モデル「o1-mini」のカスタム版の実装を開始した。大企業における初のカスタム版o1-miniモデルの実装事例となる。
以前のようにGPT-4のみに依拠するのではなく、最新のCoCouselでは異なるAIモデルを法務タスクの特性に応じて使い分ける工夫も施されている。Venture Beatが伝えたところによると、要約や対話ではOpenAIのモデル、長文の法務文書処理ではグーグルのGemini、税務やコンプライアンス関連のワークフローではAnthropicのClaudeが使用されているとのこと。
今回新たに導入されるo1-miniモデルが強みを発揮するのが、法務文書における微細な用語や誤りの検出だ。たとえば、特権メール(法的に保護される通信)の検出において、o1-miniは、GPT-4では見逃されていた状況依存的な微妙な特権事例も識別できたという。
また、法的文書のレビューや分析においても、従来のGPT-4では検出が難しかった契約書の微細な表現の違いや、判例における文脈依存的な解釈の違いなども正確に把握できるようになった。このような精度の向上により、文書レビュー、法務調査、文書の作成・修正といった実務において大幅な改善が見られたとトムソン・ロイターは報告している。これにより、法務専門家は、より付加価値の高い業務、たとえば複雑な法的戦略の立案や重要な判断を必要とする交渉などに注力できるようになると期待されている。
AIモデルの活用から開発へ、トムソン・ロイターの戦略的転換
トムソン・ロイターは、既存のAIモデルを活用するだけでなく、独自のAI開発にも乗り出している。その第一歩が、英国のSafe Sign Technologies(SST)の買収だ。SSTは法律分野に特化した言語モデルの開発を手がけるスタートアップ。この買収は、トムソン・ロイターのAI戦略における重要な転換点として注目を集めている。
OpenAIやグーグルなどの外部AIモデルを活用するだけでなく、自社開発を並行して進めることで、安全性や柔軟性を高める狙いだ。自社モデルを併用することで、機密性の高い法務データの取り扱いをより安全に制御できるほか、法務特有のニーズに合わせたカスタマイズが容易になり、長期的なコスト削減も見込める。さらに、同社が保有する膨大な法務関連コンテンツや、社内の法務・税務専門家による知見を、より効果的にAIモデルの開発に活かせるようになるという利点もある。
複数のAIモデルを管理するには、高度なインフラも必要だ。同社はAmazon Web Servicesと提携し、AWS Sagemaker HyperPodの早期顧客となることで、計算処理需要の増加に対応する構えだ。これにより各AIモデルへのタスク割り当てを最適化し、コストを効率的に管理することが可能になる。
この動きは、AIモデルの活用方法に関する重要な示唆を含むものと言えるだろう。従来、企業におけるAI活用は、単一の汎用モデルに依存する傾向が強かったが、トムソン・ロイターの戦略は、複数のモデルを組み合わせながら、さらに独自モデルも開発するという新しいアプローチとなる。特に、1つの誤りが巨額の損失につながりかねない法務分野では、このような多層的なアプローチが重要となる。OpenAIのプラットフォームセールス部門も、この取り組みを企業向けAI展開の新たなモデルケースとして注目しているという。
文:細谷元(Livit)