アートを手で触って、耳で聴いて、匂いを嗅ぐ。オランダ・アイントホーフェン市の「Van Abbemuseum(ファンアッベ美術館)」で開催されている展覧会「Dwarsverbanden(架け橋)」では、五感を使って楽しめる作品を展示し、視覚障碍者のみならず、すべての来館者に新しい体験を与えている。展示する作品も、西洋の著名アーティストだけではなく、多様な人や文化を包括する。すべての人に開かれた美術館を目指す、同館の試みを紹介する。
飲み屋街と美術館をつなぐ橋
「なんて辛気臭いんだ!」――ファンアッベ美術館のチャールズ・エッシェ館長は、2003年に館長に就任した当初、美術館の旧館部を見てこう言ったという。暗い館内は、つんとすました現代美術が整然と並び、数少ない美術愛好家やエリート学生たちだけが訪れる静かな空間だった。
同館は1936年に葉巻メーカーのオーナーで、現代アートの愛好家だったアンリ・ファンアッベ氏により創設された現代美術館で、そのコレクションは3,600点に及ぶ。作品数や従業員、蔵書の増加に伴い、2003年には新館を増設した。
新館のオープンとともに、エッシェ館長が努めたのは、美術館をできるだけ多くの人に開かれたものにするということ。彼はアイントホーフェンの建築家・アーティストであるジョン・クルメリング氏に依頼し、美術館の裏手にある飲み屋街と、新館の入り口を結ぶ地点に「橋」をつくった。
クルメリング氏がデザインした「brug(橋)」は「世界で最も短い屋根付きの橋」として、ポップなピンクで来場者を迎える。その屋根の上には「ECHT IETS VOOR U(本当にあなたのためのもの)」というネオンサインが光る。「美術館はみんなのためのもの」というメッセージを込めて。
視覚障碍者も楽しめる絵画
新館の入り口を入ると、展覧会「Dwarsverbanden(架け橋)」のカラフルなロビーが現れる。ここでは展覧会の主旨が手話付きのビデオや点字付きのテキストで解説されているほか、さまざまな模様がついた色とりどりのポンチョが壁にかけられている。どんなサイズの人にも合う、このポンチョをまといながらアートの間を歩けば、いつもとはちょっと違う気分を楽しめるかもしれない、という粋な計らいだ。
地下1階から地上4階まで、20世紀前半からの現代アートが年代別に展示されている。タイトルの横に「緑の手」のマークがついていたら、それは「触れる作品」であることを示す。といっても、作品そのものを触れるのではなく、作品の近くに展示されているレリーフや模型を触るのだ。
触れる絵画には、パブロ・ピカソの「女性の胸像」やチャーリー・トーロップの「劇作家ジラ・デュリューの肖像」などがある。色や陰影などを反映し、立体的につくられたレリーフを指でなぞると、人物の表情や服のテクスチャーが感じられる。
大きな立体オブジェを小型のオブジェにして触れるものもある。天井まで届くマイケル・ラコウィッツの大きな作品「白人に夢はない」(冒頭のカバー写真参照)は、手をぐるりと回せるぐらいの大きさに縮小され、車いすの人でも触れる低い位置に展示されている。ピート・モンドリアンがデザインした巨大な舞台装置も、立体のオブジェでその世界観が再現されている。
一方、嗅覚で楽しめる作品もある。マルク・シャガールの絵画「アポリネールへのオマージュ」など7点が並ぶ部屋では、作品タイトルの横に香り付きの紙が入った箱が据えられている。長細いその紙には作品をイメージした香りがついており、説明が書かれている。
例えばコンスタント・ペルメケの作品「The Sower(種をまく人)」には、「干ばつが続いた後、舗道や畑から立ち上る特徴的な匂い。これは水、つまり肥沃さを示す」
同館のコレクション責任者であるスティーブン・テンタイエ氏によると、レリーフや香りのインスタレーションの製作には、視覚障碍者や関連組織の協力を得た。これらの展示について視覚障碍者たちは、「ついに絵画を鑑賞する可能性が生まれた」と、喜びの声を挙げたという。
もちろん、これらの作品は視覚障碍者のみならず、すべての人が触れたり嗅いだりできるものだ。来館者たちはそれぞれ、いろいろな方法で独自のアート鑑賞を楽しんでいる。
黒人、女性、非西洋のアーティストにもスポットライト
同展では、来館者の身体的な能力だけでなく、展示する作品にも多様性を反映させている。
例えば、パブロ・ピカソの作品が展示された部屋には、同年代に活躍したキューバ出身のアーティスト、ウィルフレド・ラムの作品が並ぶ。ピカソとラムは友人同士で、互いに影響を与え合ったというが、ラムにはこれまでほとんどスポットライトが当たってこなかった。この美術館では、アーティストの出身地や知名度に関わらず、影響を与え合ったものが同列に展示されている。
20世紀前半に活躍したオランダの画家、ピーテル・ウボルグの作品が展示された部屋には、彼がインドネシア滞在中に影響を受けたというジャワ島の面も展示されている。完成作品だけでなく、その作品に影響を与えたモチーフが展示されている点がユニークな上、これまで民族博物館に置かれてきたジャワ島の面が、アート作品として展示されているのも注目される。
一方、肖像画にも多様性が意識されており、黒人の姿が多く見られる。女性の権利のために立ち上がった人たちのパワフルな肖像画や移民の置かれた複雑な状況を反映する作品も印象的だ。複数の肖像画の背後には棚があり、その人物にまつわる歴史やバックストーリーを紹介する写真や文書なども展示されており、鑑賞者はそこからさらに想像を膨らませることができる。
これらの展示についてテンタイエ氏は、「マルチプルボイス(多様な声)を反映させました。さまざまなバックグラウンドを持つ鑑賞者が、それぞれ作品のストーリーとつながれるように工夫しています」と説明する。「私たちはみんな違っていて、みんな平等であるということを、アートの美を通じて伝えたい。多様な見方でオープンな関係をつくり出す場を与えることは、美術館が果たせる役割だと思います」(テンタイエ氏)
アートを見ること=自分を見ること
アムステルダムの美大、「Reinwardt Academy(ラインワルトアカデミー)」のマスターコースで博物館と文化遺産について研究する佐藤麻衣子氏は、同展を訪れた印象を語る。
「入口で着るポンチョとか、カラフルな壁の色とか、子どもが這ってくぐれるような壁の穴とか、人の心を刺激するような仕掛けがたくさんあります。肖像画の近くには、その人物のストーリーが展示されていて、いろんな角度でアートを鑑賞できるのがすごくいいな、と思いました」
佐藤さんは以前、水戸芸術館現代美術センターで、教育普及の学芸員として働いた経験があり、現代アートの自由な楽しみ方を伝えてきた。中でも、会話をしながら美術を楽しむ「会話型美術鑑賞」を提案しており、全盲の美術鑑賞者・白鳥建二さんと共同で『しゃべりながら観る』という冊子も発行している。「美術鑑賞には知識が必要」と一般的にはいわれているが、そこで見えたものからどう感じるか、という主観でも見られるということを伝えたいという。
「主観によって思ったことは、どれも正解です。その人が生きてきた証とかバックグラウンドとかが、その見方や言葉に含まれているから、誰も否定できないし、優劣もつけられないですよね。だから会話をしながら鑑賞すると、ヒエラルキーがなく、フラットな関係がつくれるんですよ」(佐藤氏)
佐藤氏の考えは、エッシェ館長の考えと一致する。彼はコロナ禍でオランダがロックダウンに陥ったとき、オンラインビデオで美術館の作品を見せながら、アートの楽しみ方を解説した。「アーティストが与える文脈がどうであれ、美術館が与える文脈がどうであれ、あなたはいつでもその文脈から自分を解放することができるのです」
鑑賞者が自分の価値観や経験を照らしながら、自由にイマジネーションを膨らませる――美術を鑑賞するということは、結局は自分を映し出すことにほかならない。
展覧会の最後には、入口でポンチョを着たロビーに帰ってくる。ここには大きな鏡が据えられており、来場者が自分の姿を映してみることができる。自分はどんな作品になにを感じたのだろうか?美術館の小さなジャーニーを経た自分の姿は、鑑賞後に少し違って見えるかもしれない。
取材・文:山本直子
編集:岡徳之(Livit)