ベネッセアートサイト直島から探る「ウェルビーイングの循環モデル」。地域社会という場がもたらす、よく生きる社会とは

TAG:

個人のウェルビーイング(※1)を実現させる上で大きな役割を果たすのが、職場や学校、家庭といった環境要因である。社会におけるウェルビーイング向上への機運が高まる中で、多様な人・組織から構成される地域コミュニティーも重要な視点の一つだろう。私たちの生活や仕事と密接に結びつく地域社会は、どのような形で個人のウェルビーイングと関係し合っているのだろうか。

こうした問いにアプローチする企業が、ベネッセグループだ。同社は1990年にフィロソフィブランドとして「Benesse(よく生きる)」を導入して以来、教育や介護、生活など、“人”を軸にしたライフステージごとの課題を解決すべく、さまざまな事業・サービスを展開している。2022年には「ベネッセ ウェルビーイングLab」(以下、ラボ)を立ち上げ、対話を通じてウェルビーイングを探り続けているが、同社の活動の一つである「ベネッセアートサイト直島(なおしま)」において、京都大学・内田由紀子教授のチームが研究を開始した。ラボでは今後、同研究の情報発信など、より良い社会に向けた活動に取り組んでいく予定だ。

今回AMPでは、研究に取り組む内田教授を取材。ベネッセアートサイト直島での研究活動から、どのような知見が導かれるのだろうか。コミュニティー形成のヒントを得るべく地域、そして「場のウェルビーイング」を掘り下げていく。

アートを通じた活動に見る、場のウェルビーイング

ベネッセの社名である「Benesse」は、ラテン語の「bene(よく)」と「esse(生きる)」の造語であり、英語では「well-being(ウェルビーイング)」に当たる。ウェルビーイングが注目される以前から、幅広く社会に「よく生きる」ための商品・サービスを提供してきた。近年スタートした活動であるラボでは、専門家などと連携し対話を重ねることでウェルビーイングの方向性を探るプロジェクトであり、その知見を社会に広く共有している。そして今回、社会心理学・文化心理学を専門とする内田教授が、直島をフィールドにした研究活動を開始し、情報発信においてベネッセと連携していくことになった。

直島のシンボル 南瓜
「南瓜」草間彌生 2022年 ©️YAYOI KUSAMA 撮影 山本糾

ウェルビーイングにアプローチする内田教授は、なぜ直島に着目したのだろうか。その理由は、内田教授が提唱する「場のウェルビーイング」にある。

内田氏「社会全体のウェルビーイングを達成するためには、一人一人の多様なウェルビーイングを認め合い、包摂する“場”が必要です。場とは、学校や職場といったコミュニティーに当たりますが、地域もその一例です。私はこれまで、複数の地域でフィールドワークを行い、場のウェルビーイングにアプローチしてきました。そして今回、島という地理的特性と、ベネッセが続けてきた『ベネッセアートサイト直島』の活動に着目し、直島での研究をスタートしました」

香川県の北部に位置する「直島」は、岡山、香川両県とのアクセスが良好で、多くの人々が行き来する人気のエリアだ。海路が交通の中心だった時代から発達してきた歴史を持ち、独自性と開放性の両面を備えた地域文化が特徴となっている。

ベネッセと公益財団法人福武財団はこの地で、30年以上にわたりアート活動「ベネッセアートサイト直島」を展開。象徴的な草間彌生氏の『南瓜』をはじめ、安藤忠雄氏が設計した「地中美術館」、ホテルと美術館が一体となった「ベネッセハウス ミュージアム」、空き家などをアート空間として改修した「家プロジェクト」など、アートを通じた活動が進められてきた。さらに、学校・企業向けの体験型プログラムや瀬戸内国際芸術祭などのイベントも開催されており、アートが地域の再発見に寄与している代表的事例といえるだろう。

「ベネッセアートサイト直島」は瀬戸内海の直島、豊島(てしま)、犬島を舞台にベネッセホールディングス、公益財団法人福武財団が展開しているアート活動の総称

内田氏「直島がユニークなのは、現代アートを主軸にしている点です。鑑賞方法や作品定義が固定化されておらず、自由な解釈が可能な現代アートは、見る側に根源的な問いを突きつけるインパクトを持ちます。またベネッセアートサイト直島では、島の自然や文化との調和も図られており、訪れる人に発見やウェルビーイングをもたらしてくれます。そうした力が地域住民のウェルビーイングにどう作用するのか。その両方を探ることが、今回の研究目的です」

アートと地域、地域と個人の関係に、ウェルビーイングの視点からアプローチする内田教授。そこから私たちは、どのような知見を得られるのだろうか。

個人とコミュニティーが相互に作用する、ウェルビーイングの『循環モデル』

まず、個人のウェルビーイングと地域社会はどのように関連し合っているのだろうか。

現代社会においては、職場や家庭と比べ、ウェルビーイングの拠点として普段意識されることが少ないのが「地域」である。しかし生活の拠点としてウェルビーイングには多くの影響を与えていると、内田教授は説明する。

内田氏「引っ越しなど居住地を住み替える際は慎重になるものです。しかし、そこで生まれ育った人からすると、当然の環境でもあるのが『地域』です。生活物資の調達から、社会関係、安全な暮らし、学びや仕事の場など、地域にはさまざまな機能があります。例えば疫学の研究では、地域が個人の健康に影響を与えることが、近年明らかになりつつあります。千葉大学の近藤克則教授が代表を務めるJAGES(一般社団法人 日本老年学的評価研究機構)は、地域活動が盛んな場所に住むことが高齢者の健康状態にプラスの効果を与えるという調査結果を報告しています。社会全体のウェルビーイングを実現する上で、地域が果たす役割は大きいといえます」

個人と地域の関係を、内田教授は「循環モデル」という概念で示す。「自分の状態」「他者の状態」「場の状態」が円を描くように、ウェルビーイングの好循環がもたらされるという考えだ。

内田氏「笑顔の人と接していると自分も幸せになれるように、個人の行動・言動は他者へと影響します。さらにそれが幅広く伝播していくことで、集合体としての場にもウェルビーイングが拡大します。いったん出来上がった場の空気感や価値観は、再び個人へと影響し、個別の最適化にもつながるというモデルです。職場に置き換えると分かりやすいと思いますが、地域やまちづくりなどにおいても応用できると考えています」

内田教授が示すウェルビーイングの「循環モデル」

この循環モデルが実現されている地域を分析し、好影響をもたらす要因を探ることができれば、他の地域にも展開できる。応用可能なモデルの構築が、直島での研究の目指すところなのだ。

内田氏「特に直島では、島外からの来訪者と、住民の方々の意識が、どのような相互関係にあるかに着目しています。単純に観光客が増えれば地域が幸せになるわけではないことは、近年課題視されるオーバーツーリズムの例からも明らかです。直島は、そうした方向へと進まずにウェルビーイングを実現していますが、一つの要因として想定されるのは、来訪者が自然と融合した現代アートの鑑賞を通じて、直島に対する共感あるいは畏敬の念を抱くことができることではないかと思います。コンテンツとしての現代アートは容易に他地域が導入できるものではないですが、モデル化に向けては、『共有価値を生み出しやすい場所』という、より抽象化した要因を見つけ出す必要があるでしょう」

先端テクノロジーの導入で、ウェルビーイングを分析

2024年2月、内田教授のチームは初回の現地視察を実施。ミュージアムや島内のアートの鑑賞、直島町長や住民へのヒアリング、島での情報伝達手段の確認などアンケート調査に向けた情報収集などが行われた。

内田氏「アートを通じたまちづくりが、実際に地域の方々へプラスの影響をもたらしている可能性を確認することができました。まちの景観が褒められると地元への愛着心が高まるように、地域住民の幸せは外部評価からも影響を受けるため、好循環が生まれているのかもしれません。直島では2025年に『瀬戸内国際芸術祭2025年』が開催され、多くの人が訪れる予定です。そこに向かっての有意義な調査ができるよう、今回は事前準備を進めました」

直島へ視察に訪れた時の様子

研究活動の中で内田教授が重視するのは、テクノロジーの導入だ。人文科学の垣根を越え、他領域の研究者と協働しながら最新技術を取り込むことで、ウェルビーイングにおける定量的な要因測定が可能になる。

内田氏「直島では、アーバンセンシング(※2)の技術を活用し、人流調査を行いたいと考えています。人の流れは一定方向に進みがちですが、穏やかで美しい景観や自然を保つためには、人流の分散を促す都市工学的な設計が求められます。その際に有益な情報を提供できるのが、観測技術です。また、自然言語処理を専門とする研究者にも協力いただき、現地で人がどのようにSNSを利用しているかをテキストデータから分析し、言語との関係性も探りたいと考えています。一連の調査には計測機器が必要であるため、地域内に複数設置する予定です。心理学によるアンケート調査だけでなく、人流や言語も含めた総合的分析により、ウェルビーイングの要因を精緻に把握したいと考えています」

センシング技術によって人流を解析し、研究へとフィードバックするイメージ

ベネッセと直島が築き上げた、住民一体の理念共有

領域横断的なアプローチにより、直島という地域を分析する今回のプロジェクト。2月の現地調査を終えた内田教授は、「住民の方々の意識と行動に、一つのヒントが隠されている」と、現段階での見解を述べる。

内田氏「住民の方々との対話を通じ、『アートは外から来たものではない』という意識を感じました。例えば『のれんプロジェクト』という、特徴的なモチーフを染色したのれんを住居の軒先にかける活動は、住民の参加があって成立するものです。アートを活用した景観づくりに自ら貢献するという、主体的な行動が見られます。まちづくりが住民の心を動かし、実際の行動も生まれているのは、非常に興味深い発見です」

『のれんプロジェクト』:2001年の企画展を機にスタートし、20年にもわたり継続。当初、14軒だった参加者は現在50軒以上を超え、直島の文化の一つとして定着しているという

また今回の調査では、島へ移住した方へのヒアリングも行われた。移住により直島での生活を始めた人の行動にも、一つの特徴があるという。

内田氏「意志を持って移住をされる方々は、直島のアイデンティティーに共鳴していると思いました。現地で店舗を運営したり、子ども向けのプログラムを構築していたりと、地域活動に対しても積極的です。移住者も含む住民全体に、共有されている理念があるからでしょう。昨今、企業でビジョン共有などが注目されていますが、地域においても理念共有が機能することを、直島のケースは示唆しています」

ではなぜ、アートを通じたまちづくりは、ここまで地域に根付いたのだろうか。その要因の一つとして内田教授は、ベネッセグループと直島の理念が、アート活動の初期から一致していたことを挙げる。

内田氏「ベネッセアートサイト直島は、福武書店(現在のベネッセホールディングス)創業者である福武哲彦氏と、当時の三宅親連町長の出会いから始まったプロジェクトであると伺いました。フィロソフィブランドとして『よく生きる』を掲げていたベネッセと、健康的・文化的な直島を目指していた町の思いが一致したことをルーツにしています。当初から理念を一つにし、長年にわたりアート活動を持続してきたことで、住民の方々にも思いが共有されてきたのでしょう。『自然を保護する』『景観を守る』といった具体的な目標は他地域でも見られますが、さらにその先にある目的が描かれていなければ、なかなかまちづくりは前進しません。『よく生きる』という上位概念が共有されていることが、直島の特徴なのだと思います」

直島モデルのウェルビーイングが持つ、未来への可能性

モデルケースを分析し、ウェルビーイングの要因を探ることで、社会全体のより良い地域づくりを実現していこうとする、内田教授の研究活動。その可能性は国内のみならず、海外にも広がっているという。

内田氏「同じウェルビーイングでも、例えば北米では、個人の自由な選択や競争の中での自己実現が重視される、“獲得的幸福感”が特徴として見られます。一方の日本でよく見られるのは、他者とのバランスや細やかな幸せを重視する、“協調的幸福感”。人とのつながりや穏やかさに重きを置く傾向があります。今後、世界は経済的・物質的成長の限界を迎え、人口減少や環境破壊などの課題にも直面するでしょう。そんな時、直島のようなミクロな事例から優良なモデルを抽出できれば、新しい時代の共生的なウェルビーイングに役立てられるかもしれません。実際に日本を訪れる海外の研究者の多くが、直島を視察したいと話しています」

ベネッセアートサイト直島が地域社会に影響し、最終的に個人のウェルビーイングにも効果をもたらすならば、企業が果たすべき役割も大きいのかもしれない。

内田氏「『企業城下町』というワードに見られるように、従来の地域における企業の位置付けは、経済的側面が中心でした。しかし今後は企業が持続可能な事業活動を模索する時代。魅力的な地域には人材も集まるなどメリットもあるため、企業と地域は一蓮托生(いちれんたくしょう)の関係に置かれるはずです。両者が共生し、まちに関わる人々のウェルビーイングを実現する。そうした方向において、ベネッセと直島の関係は、優れたモデルケースといえるでしょう」

京都大学 人と社会の未来研究院 教授・院長 内田由紀子氏

まち全体のウェルビーイングが、個人に幸福をもたらす「循環モデル」を、直島は体現している。そのモデルを可能にしているのは、理念の共有なのだろう。内田教授の研究からは、今後どのような発見が共有されるのだろうか。次なる展開に期待したい。

モバイルバージョンを終了