地域活性化のために、コミュニティーの充実は重要な要素だ。防災や防犯といった基本的な生活の支え合いはもちろん、都市部への人口流出を緩和させるためには、地域の“つながり”に魅力を感じてもらえるような取り組みも、一つの手段になるだろう。一方、デジタル化の進展により、人と人とのコミュニケーションの形は大きく変化し、地域社会は新たな局面を迎えつつある。
そうした中、移動を通じた“つながり”の可能性を追求し続けているのが、JALグループだ。同グループでは空の移動が結んださまざまな縁に関わる人々にフォーカスし、その“つながり”について想いを語ってもらう「My ENJIN(マイ エンジン)」を始動。「My ENJIN」の「ENJIN」という言葉には、縁を紡ぐ人「縁人」、原動力を表す「エンジン」、そしてつながりの輪を表す「円陣」の三つの意味が込められている。
同グループが提供する移動を通じた“つながり”によって、社会課題や未来の可能性と向き合う人たちが原動力となり、人と人はもちろん、場所、モノ・コトと縁を紡ぎ、多様なステークホルダーと手を取り合うことで、さらなる“つながり”の輪を創出し、広げていく取り組みだ。
今回AMPでは、この「ENJIN」が生み出す、人々の多様な“つながり”の可能性を連載形式で探っていく。
連載第1〜5回は、鹿児島県・奄美群島の「ENJIN」を紹介。第4回の主人公は、奄美大島のコミュニティラジオ局でパーソナリティーを務める渡陽子(わたり ようこ)さんだ。島の歴史や文化、集落ごとの生活を、放送を通じて島民に共有している。「島で生活を営むシマッチュたち(※)の声、島で起きている出来事など、奄美に特化した情報を伝えたい」――。渡さんが日々感じる、“つながり”の魅力とは。
※「島の人」の意。
島を離れたからこそ気付いた、奄美の新しい魅力や絆
奄美大島の西部に位置する、宇検村(うけんそん)という小さな村。村内には「集落」として14のコミュニティーが点在するが、その一つである田検集落で、渡さんは幼少期を過ごした。住民全員が家族のように暮らす環境だったと当時を振り返る。
「伝統工芸品である奄美大島紬(つむぎ)の機織り工場で働いているおばちゃんたちと過ごすのが、保育園代わりでした。集落で暮らす全員が顔見知りでした。自然も豊かで、夏休みは川でエビを捕ったり、木を切って作った筏(いかだ)で遊んだりして、それを大人たちがさりげなく見守っている。のびのびとした環境だったと思います」
高校を卒業した後は、鹿児島市内でのアルバイト生活を経て、東京の企業に就職。当時急成長していたIT業界に身を置き、やりがいを強く感じていた。
「故郷のことを振り返ることもなく、多忙な毎日を過ごしていました。最先端の世界で、会社が大きくなるのが楽しかったんです。そうした中、奄美群島が日本に復帰して50年の節目の年に、たまたま帰省していました。ちょうど、島の青年団などが企画する『夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュッ!!(今宵はシマッチュに敬意を!)』というイベントが開催されていたので、家族と一緒に見に行くことに。ライブが好きで東京でもよく見に行っていた私は、軽い気持ちで参加しました」
イベントを運営しているのは同世代の若者たち。出演者も、島で活動を続けるミュージシャンから、メジャーデビューを果たした奄美出身の著名人まで、一丸となって地元を盛り上げようとしている。奄美を想う彼らのエネルギーを目の当たりにし、ハンマーで頭をたたかれたような衝撃を受けたという渡さんは、当時25歳。渡さんが「島にいつか帰ろう」と感じたのは、この時だった。そして3年後に帰郷し、新たなキャリアを歩み始めたのだ。
「帰郷後はビール会社の営業職で働き、奄美群島の飲食店を巡っていました。島ごとに言葉や気質の違いがあり、奄美にはまだまだ知らないことがあると気付かされましたね。この時、移動中の車内でよく聴いていたのが、“島ラジオ”の名で親しまれている『あまみエフエム』です。島の内側から情報を発信することに興味を抱き、『私も島ラジオで働きたい』と感じるようになりました」
あまみエフエムは、地元住民の支援により運営される、奄美大島のコミュニティラジオ局だ。「シマッチュのシマッチュによるシマッチュのための島ラジオ」をコンセプトに、方言で発信されているのが特徴で、島唄などの音楽や島の生活情報に触れることができる。営業のノウハウを生かせば、島ラジオの運営に貢献できると考えた渡さんは、あまみエフエムに入社を直談判したという。
「快く受け入れてくださり、入社できたものの、『しゃべって』と言われたんです。営業職が希望で、しゃべった経験などほとんどなかったので、衝撃的でした。経験ゼロからラジオパーソナリティーを始めたわけですが、以来13年間、島ラジオでの活動に従事してきたことになります」
生活情報に特化した島ラジオで、世代を超えた文化伝承を
あまみエフエムが開局したのは、2007年。当時の奄美には、新聞やケーブルテレビはあったものの、交通情報などをリアルタイムで発信する地元メディアは存在しなかった。台風が頻繁に訪れる奄美大島では、情報を即座に入手できないという問題は深刻であり、あまみエフエムの開局に至ったのだ。
「県本土や全国区のテレビ局では、台風が近づく情報は発信されるものの、いざ上陸すると中継などが困難であり、島民は測候所に連絡するなどして情報を得るしかありませんでした。停電も起こるため、テレビそのものが使用できず、携帯電話もバッテリーが持続しません。気象や交通、避難、物資の情報を常時発信できるラジオの整備は必要だったのです。現在も台風の際には24時間体制で放送し、住民の方々から集まった情報を、安全の確保に役立てるように発信しています」
もう一つの大きな役割が、歴史や文化の共有だ。奄美大島では多くの人が高校卒業後に島外へ進学・就職するものの、地元に対する理解が深まっておらず、歴史や文化を語れないケースも少なくない。あまみエフエムは天候や自然災害関連の情報だけでなく、文化を楽しく共有すべく、島で生活を営む人々の声を集めながら、日々和やかなムードで番組がつくられているのだ。
「集落のおばあちゃんから保育所の子どもたちまで、さまざまな人をゲストに呼んで、ありのままの生活を伝えてもらっています。奄美大島には151の集落があるのですが、自分の育った集落以外の風習や言葉は、意外と知らなかったりするんですね。そうした部分を比べながら発信するだけでも、面白がってもらえます。行事の伝承方法など、知恵を交換することで、文化の保存にもつながると考えています」
特に最近、渡さんが力を入れているのが、世代を超えた声の伝承だ。かつて営まれていた先人たちの生活について、取材を通じて発掘していく番組づくりを行っているという。
「島で暮らす一人一人にはたくさんのエピソードがあり、番組で取り上げなければ表に出ないものも多いです。特に私が生まれる以前のお話は興味深いものが多いですが、伝承していかなければ、いつの日か忘れ去られていくでしょう。島唄も同様で、掛け合いの即興形式で成り立つ唄も多いため、単に音源を残せばいいわけではないんですね。スタジオに来て唄ったり話したりしてもらったり、私が集落に赴いたりして、できるだけ多くの人の声を届けるようにしています」
日頃の緩やかな“つながり”が、災害時のネットワークになる
聴く人、話す人、伝える人が一体となり、多様な文化を共有しているあまみエフエム。渡さんが仕事をする上で大切にしているのは、常に人を探し“つながり”をつくることだという。
「日々の暮らしでは常に、人との接点を大切にしています。おじいちゃん・おばあちゃんには自分を孫のようにかわいがってもらい、下の世代のみんなにも気軽に『陽子姉』と呼んでもらいたいです。擦れ違う人にも『最近何があったか?』『どこの集落出身か?』と聞きながら、仲良くなるようにしています。井戸端会議的なコミュニケーションの中で島での出来事が見えてくるからです。こういったことが番組出演に結び付くこともあり、“つながり”は大事だと感じます」
こうした“つながり”は、災害時における重要なネットワークにも変わる。緊急時には特番に切り替え、役所など関係機関からの情報を発信するが、それだけでは量もスピードも足りないため、リスナーからの情報提供が欠かせなくなるのだ。
「普段からつながりがあるリスナーの方々から、『○○で土砂災害が起こっている』『○○トンネルが停電している』などの情報を頂き、『リスナーの○○さんから寄せられた情報によると……』という形で発信しています。日頃から話をすることで培った関係性が、島ラジオにとっても大切な情報源になっているんですね」
近年はソーシャルメディアで災害時の現地情報が投稿される世の中になったが、地方には高齢者やドライバーなど、スマートフォンを使えない人も多い。電波に重要な情報をのせることで、救える命もあるのだ。そのためには災害時にラジオをつける習慣が根付かなければならないが、平時の番組でリスナーとの距離を近づけ、信頼関係を育むことがポイントになるという。
「台風の形もさまざまで、『今回の台風は〇〇だから…』と、自己判断で避難するかを決めてしまう住民も多いです。たとえ何もなかったとしてもまずは避難することが重要なのであり、そうした空気と信頼をつくることが、島ラジオの役目だと考えています」
島外からの視点も大事に、奄美をもっと住みやすい島へ
日頃からラジオで“つながり”を築きながら、いざという時に支え合う。渡さんの活動は、地域コミュニティーの維持に欠かせない存在になっているのだろう。こうした“つながり”において重要な役割を果たしているのが航空機だ。番組では近年、JALの飛行機で島外から奄美を訪れた人をゲストに招き、出身地や来島の目的を尋ねる番組も企画されている。
「奄美で島の外の人と交流が生まれる時、飛行機が起点になっていることは間違いありません。他にも、あまみエフエムでは、JALさんからお知らせがある際には出演してもらったり、一緒にイベントに出展したりと、徐々に関係を強めてきました。奄美群島の日本復帰の日に当たる12月25日のクリスマスに『メリークリ島ス』という番組を放送していますが、リスナー向けプレゼントの一部を提供していただいており、JALさんからのプレゼントは皆さんも楽しみにしているようです。また、JALさんが毎年開催する『感謝の夕べ』は、地元の関係者の皆さんと行うビーチバーベキューなのですが、私はそこで運営と司会を務めたりもしています」
渡さん本人にとっても、飛行機の存在は大きい。若い頃に島を離れる時も、帰省、帰郷の時も、他の島の文化に出会ったビール会社の営業時代も、人生の節目には常に飛行機がつきものだった。
「島外にいた時代、奄美空港に到着して、島独特の湿った風を感じ、家族が迎えに来てくれた瞬間に、『奄美に帰ってきたな』と感じていました。今も空港の到着ゲートにいると、出会う人、再会する人、帰ってきた人、迎える人など、奄美で生まれる物語のスタート地点なのだと実感します。これらも飛行機で生まれる新しい“つながり”なのでしょう」
観光や移住により、新しい人との出会いが生まれる奄美群島。渡さんは今後も地元に貢献するため、「外の人を巻き込みながら島おこしをしていくことが大事」だと考えている。
「島の中にいると、どうしても自分たちを客観視できず、新しい魅力に気付けないことがあります。Iターンなどの移住者を巻き込みながら、住みやすい街、奄美の良さについて改めて考えることで、地域をさらに活性化できるのではないでしょうか。それが最終的に、若者が戻ってきたり、地元で子どもを育てたりしてくれ、集落文化の伝承などにもつながっていくと思います。だから今後は、よりオープンなマインドで、外から見た奄美の魅力もラジオで発信していきたいですね」
アットホームな“つながり”を育み、現地で役立つ情報を共有しながら、明日への可能性を広げていこうとする渡さん。島ラジオが発信する多様な声は、一つ一つが未来へのかけ声になるのだろう。小さなコミュティラジオで生まれる“つながり“は、少しずつ輪を広げながら、やがて大きな「ENJIN」になっていくはずだ。
取材・文:相澤優太