働き方を大きく変えつつある、DXの急速な進展や生成系AIの台頭。データ分析や統計、ディープテックの知見は、DX担当者のみならず幅広い業種に求められており、多くの社会課題を解決に導くことも期待される。培ったスキルは、転職や起業を通じた自己実現においても大きな武器となるだろう。

海外ではどうだろうか。アメリカでは「MBAN(Master of Business Analytics)」が注目されている。「経営分析学」の修士号であり、従来型のMBAと異なるのは、経営に対しデータサイエンスからアプローチする点だ。経営者や起業家を志すビジネスパーソンに向けて、UCLAやマサチューセッツ工科大学がすでに同様のプログラムを提供している。

この流れに対し、日本において先陣を切る形で動き出したのが、滋賀大学だ。同大学は2024年4月、国内で初めて修士(経営分析学)を授与する「MBAN経営分析学専攻」を設置。さらに日本最大級の動画学習サービス「gacco」を運営するドコモgaccoと連携することで、幅広い社会人にリスキリングの機会を提供する方針だ。

経営分析学とはどのような学術領域で、実践的なスキルが身に付くのだろうか。滋賀大学大学院経済学研究科長・経済学部長の中野 桂氏、株式会社ドコモgacco代表取締役社長の佐々木 基弘氏、株式会社圓窓代表取締役の澤 円氏を迎え、滋賀大学の新たな取り組みを基軸としながら、次世代のDX人材に必要な能力を掘り下げていく。

データを総動員し経営を分析する、「経営分析学」という領域

「未来創生大学」を掲げる国立の滋賀大学は、実学重視の先進的な大学経営で知られている。2017年には国内初となるデータサイエンスの専門学部を設立し、DXの潮流に対して先駆的な教育・研究を進めてきた。そして今回、大学院経済学研究科内に「経営分析学専攻」を新設することを発表。同研究科長を務める中野氏は、「DX時代の次世代管理職や経営幹部に必要な力を育成したい」と意気込む。

中野氏「経営分析学専攻は、日本で初となる学位『修士(経営分析学)』を授与する専攻です。英語では『Master of Business Analytics(MBAN)』と訳されますが、『Analysis』ではなく『Analytics』である点が特徴といえるでしょう。つまり、ビッグデータなどを活用しながらデータサイエンスの知見を総動員し、経営というものを分析する。それが経営分析学という学術領域です」

今回滋賀大学が経営分析学専攻の設置に至った背景には、日本企業における経営人材とデータサイエンス人材との間の乖離に対する課題感があったという。

滋賀大学大学院経済学研究科長・経済学部長 中野 桂氏

中野氏「統計学などのデータを取り扱う専門家は、海外においては人材が豊富です。しかしそのノウハウやマインドをビジネスに取り入れようとする時に、必ずしも経営側の理解が追いついているとは限りません。そうした背景があるからこそ、データサイエンスと経営全般に関わる知識を備えた人材が求められ、経営分析学が注目されるようになったのでしょう。日本でも同様の課題が生じていると感じ、今回の専攻新設に至りました」

こうしたニーズに共感を示すのが、DXやサイバーセキュリティなど、幅広い領域でコンサルタントとして活躍する圓窓の澤氏だ。マイクロソフトでエンジニアとしてキャリアを積んだ澤氏だが、大学では経済学を学んだという。

株式会社圓窓代表取締役 澤 円氏

澤氏「当時は経済学部出身でプログラマーになる人材は珍しかったです。学生としてもエンジニアとしても、たいした実力はなかったのですが、両方を知っていたことには意義を感じます。現在も顧客企業の経営層と仕事をしていますが、経営とデジタルを橋渡しできる人材は、希少価値が高いのでしょう。私のキャリアが正解かはともかく、経営分析学には、強いニーズを感じます」

日本最大級のMOOC(Massive Open Online Coursesの略で、大規模公開オンライン講座を指す)サービス「gacco(ガッコ)」を提供するドコモgaccoの佐々木氏は、NTTドコモの人事部出身だ。人材育成を担当していた当時の課題感が、現在の事業にもつながっているという。

佐々木氏「gaccoは、大学教授をはじめとした講師陣の良質な講義を、誰もが受けられるオンライン動画学習サービスです。2014年にスタートしたのですが、近年は実務に生かせるスキルを学べる講座の人気が高まっています。政府のリスキリング支援、さらにはジョブ型雇用の浸透によるキャリアオーナーシップの注目もあり、“働くために学ぶ”ことが強く求められているのでしょう。学問とビジネス、双方の視点から知見を深める経営分析学は、そうしたニーズに応えるものですね」

中野氏「今回のプログラムは、経済学部の上に、大学院として専攻を設けている点に特徴があります。学部においては経済や経営の基礎はもちろん、DXやAIのリテラシーを一通り学ぶことができます。統計数学やプログラミング、情報科学といった領域も『応用基礎レベルプログラム』では習得が可能です。そこからさらに大学院進学を志す人材に、高度な知見を提供するのが経営分析学専攻。専門のデータサイエンティストに引けを取らない分析スキルを持ち、経営学とシンクロさせることのできる実践的な分析力を身に付けることを目指します」

より実学に寄り添ったカリキュラムにより、DX時代の次世代人材育成を目指す滋賀大学。大学院であることは、多様な社会人に門戸が開かれていることを意味する。次に、現役ビジネスパーソンが経営分析学を習得するメリットについて、滋賀大学とドコモgaccoの連携からひもといていこう。

変化し続けるプロトコルに、企業経営を対応させるeラーニング講座

滋賀大学はgaccoの中で「大学生のためのデータサイエンス」を提供するなど、かねてよりドコモgaccoとの連携を強めてきた。2022年には「社会人のための滋賀大学ビジネスサイエンスMOOC講座パッケージ」を開講しており、今回の経営分析学専攻新設に伴い、講座をアップデートさせる予定だ。滋賀大学の考えるMBANの構想の中でとりわけユニークな取り組みは、MBANの講義の基礎的な部分を動画講座として制作し、DXを進めていきたい企業や個人もドコモgaccoを通じて受講できるようにしている点だ。この取り組みにより、単に数人が大学で学ぶだけにとどまるのではなく、企業研修という形で多くのDX人材を育てることができる。こうしたプラットフォームの開発を大学と一緒にリードしたのが、今年で100周年を迎えるOB会組織である点も滋賀大学ならではの取り組みとなっている。

>>滋賀大学のMOOC講座についての過去の記事はコチラ

佐々木氏「2022年度のビジネスサイエンスMOOC講座では、マーケティング、リスク計量、ビジネス統計学などを提供いただきました。2023年度はそれらに加え、経営分析学の“入り口”として機能するよう、マネジメントなどが加わり、今後もどんどん講座が追加されていく予定です」

中野氏「今回は高校生でも分かるような入門講座も導入したいですね。データサイエンスも経営も、学ぶ上で年齢は関係ないはず。幅広い世代の方に学問の面白さを感じていただくためには、前提スキルを必要としない講座も必要だと考えています」

両氏が「入り口」や「面白さ」を重視するのは、eラーニングと大学院、それぞれが持つ優位性を最大限発揮する狙いがある。

株式会社ドコモgacco代表取締役社長 佐々木 基弘氏

佐々木氏「gaccoでは現在、115万人以上の会員に対し、年間約200の講座を提供しています。企業向けには『DX人材育成プログラム』も用意し、10万人以上の受講者に利用していただいているところです。コロナ禍におけるeラーニングの普及もあり、ユーザーは大幅に増加していますが、“豊富なコンテンツの中、実際に何を学べば良いかが分からず、学びが定着しない”という、新たな課題も見えてきました。eラーニングには限界があるのも事実で、gaccoではアウトプットやフィードバックを取り入れたワークショップを開催しています。一方、より深い学びにアプローチする上では、やはり大学院に行く選択肢も検討したいですよね。gaccoとしては、アカデミアの入り口として『面白い』『もっと追求しよう』と思ってもらうきっかけの提供を重視しています」

澤氏「“入り口”そのものにも学ぶ意味があるのでしょう。経営にしてもデータサイエンスにしても、最も重要なのはキーワードを体系的に把握すること。今ビジネスリーダーに求められているのは、現場レベルの細かなスキルではなく、物事の“理(ことわり)”をつかみ取るプロセスだからです。しかし、その“理”自体がすさまじい速さでアップデートされるため、先端スキルを習得してもプラットフォーム自体が変わってしまう。だからといって古典的な知識だけで経営に臨むのも危険です。マルクスとケインズの理論だけで会社を経営するのは無謀ですよね?実務に照らし合わせながら、今必要なプロトコルにマッチする知識を身に付ける。その点において、ビジネスサイエンスMOOC講座に魅力を感じます」

中野氏「目まぐるしいゲームチェンジへの対応は、大学にとっても課題です。大学の運営サイドは学部や学科を新設する際、文部科学省に計画を提出する都合上、4年間はカリキュラムを固定する傾向にあります。しかしそれでは生成系AIといった新技術に対応できません。滋賀大学のデータサイエンス研究科は“未来志向の教養”を重視し、常に教育内容の更新に努めています。そのリソースとノウハウをフル活用できることも、本学の経営分析学専攻の強みだと考えています」

澤氏「ChatGPTが登場し、生成系AIを最適化する“プロンプトエンジニア”が注目されていますが、この言葉は2020年ごろから存在しました。当時は生成系AIの水準が高くなかったため認知されていなかったのですが、わずか3年で花形のポジションとして期待されるようになるわけです。しかし現状の日本の制度やDXの遅延を考えると、大学のカリキュラムも企業の中期経営計画も、そのスピード感に間に合うはずがありません。その点、滋賀大学のようにアカデミアの知見がスピーディーにアップデートされ、今回の取り組みで実現されている『企業人がMOOCを通じて気軽にアクセスできるサイクル』は、有効に働くと思います」

なぜDX人材に、データ分析スキル以外の知が必要なのか

テクノロジーや社会のルールが激しく変わる中、ビジネスパーソンには、どのようなスキルが求められていくのだろうか。リスキリングやキャリアデザインに対する経営分析学の必要性を、3人の視点から語り合ってもらった。

中野氏「例えば生成系AIのプロンプトを正しく書くとしても、プログラミングや統計学の知識だけで十分かといえば、答えはNOです。経済や経営の基本原理、社会の動向をしっかりと把握していなければならず、そこには幅広い領域の知識が必要になるでしょう」

佐々木氏「生成系AIがさらに発達すると、ITの素人でもプログラミングができる時代が到来します。そこではクリエイティブなビジネス創造力の方が重視されるはずです。幅広い学術領域を俯瞰的に学べる大学の重要性も、再び高まっていくのかもしれません」

澤氏「おっしゃる通りです。私の妻は美大出身の造形作家なのですが、『デザインは専門学校でも学べるが、大学で学ぶ意義は大きい』と言っていました。実務的な作業をこなす上では、専門学校卒の人材の方が強いのですが、大学でデザインを学ぶことで、『デザインとは何か?』という本質に近い部分を知ることができるからです。時代が変わっても色あせない根本的な考えを、大学では学ぶことができますね」

中野氏「大学内の経営協議会などで、私は“四つのD”を主張しています。『Data(データ)』『Diversity(多様性)』『Deviation(逸脱)』『Design(デザイン)』です。データというのは、生成された時点で過去のものになります。社会科学はもちろん、気候やウイルス、生態系などの自然科学データも同様のことがいえます。つまり、全てのデータは“歴史”といえるのですが、古いからといって無視していいわけではありません。剣道や茶道には『守破離(しゅはり)』という言葉があります。それをデータに当てはめて考えれば、過去のデータを守りながら、それを多様な発想で破っていき、最後には完全に離れて新たなものを創造していくことが必要になる。新しいものを生み出すプロセスにおいては、データだけでは成り立たないのだと考えています」

澤氏「まさにそのプロセスが重要なのですが、日本の企業はどうしても過去を分析することに時間をかけ過ぎる。確かにデータは礎になりますが、AIやPythonを使えば、過去は即座に可視化できるはず。その分、未来を創るビジネスにリソースを割いた方がポジティブな変化を期待できます。分析はあくまで手段であることを忘れてはなりません」

佐々木氏「滋賀大学さんとのビジネスサイエンスMOOC講座では、『新たなスキルを習得したい』『転職に活用したい』という声に加え、『エグゼクティブとして学んでおきたい』『理論を学びたい』といった声も寄せられています。経営やデータサイエンスにおいて、根底にある視点が求められているのでしょう。ドコモgaccoの特徴は、大学教授など専門家を講師陣に迎え、体系的なカリキュラムを提供していることです。当社は『教養の民主化』をミッションに掲げているため、理論から学び直したいというビジネスパーソンのニーズに応えていきたいと考えています」

澤氏「新卒一括採用の文化が根強い日本では、学歴や社歴で階層的に人材の能力を測りたがります。しかし本当の能力と一致していないステータスで人材をひとくくりにするのは、非生産的です。今の社会は課題がパーソナライズされている傾向にあり、それに応えるビジネスパーソンは幅広い知見と経験、一括型の育成システムから離れたところで得る成長が必要です。大学生が学びながらインターンシップをするように、社会人も働きながら学ぶ仕組みは、人為的に能力をパーソナライズできるので、個人にとってもプラスになると思います」

MBANという新たな学位とMOOCでの学びが、日本のDXを加速させる

滋賀大学とドコモgaccoの取り組みは、日本社会に対してどのようなインパクトをもたらすのか。最後に経営分析学の知が未来に与える可能性について、3人の私見を聞いた。

澤氏「日本がここまで凋落(ちょうらく)してしまったのは、多くの経営層がITに対しての知識が浅過ぎるからだと感じます。実際にChatGPTのアカウントを取得し、課金して利用している経営層は、ほとんどいないのではないかと感じています。これはスマホの時もドローンの時も同様でした。そもそも世の中の仕組みをプログラマーの視点から見るならば、全ては条件分岐処理を行う“if文”なんです。課題を解決するにしても、課題自体はifという条件で処理する発想ができ、データはそのプロセスでこそ力を発揮します。こうした発想をリーダーたちが持つことができれば、大きなイノベーションが期待できるでしょう」

中野氏「『課題もデータもあるけど、それを扱うスキルがない』というのが、企業の実情なのだと感じます。社内にデータサイエンスを習得した人材が一人でもいると、産学連携のプロジェクトが圧倒的にスムーズになるケースも多くあります。アメリカの大学院に留学してMBANを取ろうと思うと高額な費用もかかりますが、滋賀大学のMBANは日本の国立大学が提供するもので、安価にかつフレキシブルに学位を取得できます。企業価値を高める上で有効な手段として機能するはずです。現在のMBA(経営学修士)がそうであるように、次はMBANが一つのシグナルとなり、DX人材が経営にコミットすることで、日本社会のイノベーションが加速する。経営分析学専攻が、その第一歩になることを、私たちは望んでいます」

佐々木氏「そのためにまずはMBANの社会的な認知度を高める必要があり、MOOCがその一助になると期待しています。ドコモgaccoは、アカデミックとビジネスが越境し合える世界を目指しています。そして何より、新しいことを学ぶのって楽しいんですよね。私自身も理数系科目は大の苦手だったのですが、最近Pythonを学び、ChatGPTも駆使しながら使いこなせるようになってきました。徐々に楽しくなっていき、『もしかしたらデータサイエンティストになれるかも』と感じているほどで(笑)。そのように考えると、現代はまさに経営分析学が面白い時代。さらに先には、リベラルアーツが求められるフェーズに進むでしょう。今後も滋賀大学さんのMBANとの連携を強化していくことで多くの人がDXのエッセンスを学ぶ機会を増やし、そうした未来に貢献していきたいです」

澤氏「コンプライアンスやセキュリティのためにChatGPTやXを禁止する企業が多いですが、DXを推進するならば、本来はシステムも人材も機会も、もっと開放した方がずっと効果的なのは間違いないでしょう。若手も中堅も経営陣も、課題や疑問を抱いた際に声を上げなければなりません。アップデートに必要なのは言語とロジックで、そのためには学びが不可欠です。滋賀大学さんとドコモgaccoさんの取り組みは、その循環を加速させると思います。

そもそもプログラミングやITの知識って、ちょっと知るだけで問題解決能力が大幅に高まるんです。これまでIT音痴だった人も、リスキリングによって一気にキャリアを前進させられるはず。ぜひ気軽にチャレンジしてみてください」

ビジネスの現場に立ちながら学問を深め、経営とデータサイエンスの知見を融合させていく。そんな新しい時代の学び方は、DX時代の大きな武器になるのだろう。経営分析学を備えたビジネスパーソンは、社会をどのように動かしていくのだろうか。来年の新専攻開設に期待したい。