【前編】地銀出身の“堅実”な男性がスペインで見つけた、いい塩梅な生き方

人生の分かれ道を、消去法的に選択したことはあるだろうか?

国立大卒業後、地銀に就職。周囲から見れば“堅実”にキャリアを一歩一歩踏み締めてきたように見える男性がいる。スペイン・バルセロナで、金融やサッカー関係で請け負った仕事をこなす渡邉宗季さんだ。

ずっと「すべき」を中心に物事の選択をしてきた彼はいつからか、「やりたくないから、やらない」と人生の選択をするようになった。もちろん、やらなければいけないことがあるのも分かっている。その狭間を縫うように歩む、彼の生き方に迫る。

撮影:Kazumasa Horiuchi
渡邉宗季さん(わたなべ・そうき)、大阪府出身。36歳。スペイン・バルセロナ在住。大阪外国語大学卒業後、大阪の地銀に就職し営業を担当。その後、医学予備校で講師、運営を6年担う。現在は金融関係、サッカー関連、教育関連の仕事に携わる

多忙かつ時間の融通がきかず自分の時間が少なかった銀行員時代

太陽に海が輝く、スペイン・バルセロナ。建築家・ガウディが設計したサグラダ・ファミリアが見下ろすその街の魅力は、あらゆる国籍、人種の人間を受け入れる懐の大きさだろう。

その街で暮らす渡邉さんは金融関係の仕事をメインに、夕方ごろからサッカー留学プロジェクトの現地コーディネーターなど、スペインサッカー関連の請け負った仕事をこなす。最近は自分の立ち上げた事業も進め、活躍の場を広げたい人をサポートする環境づくりに精を出している。

「7歳の時からサッカーをずっとやっていて、今でも毎週、仲間とボールを蹴っています。サッカーのない日は、ジムでトレーニングをしたり走ったり。そういうのができない生活は嫌だなと思って、今の仕事スタイルにたどり着きました」

日本にいた時のほうがお金は良かったけど、自分で受注しながら仕事ができるのは心地がいい。必要なお金を稼ぎながら、やりたいことをできている充実感に浸っている。

撮影:Kazumasa Horiuchi

新卒では大阪の地方銀行に入社した、渡邉さん。銀行を選んだのは、就活が早く終わるからだった。

「海外で将来的に働いたり、大学で勉強したいと思っていたんです。きっかけは大学4年生の時のアメリカ語学留学でした。自分は英語を長年勉強していたし、外語系の大学に入学していたし、それなりの自信はあった。だけど、いざクラスに入ると中南米、アジア、ヨーロッパなどからの留学生はもっと英語がうまかったし、複数の言語を操っていましたし、医者やエンジニアなどすでに専門的な知識を備えている人も中にはいて、『自分は何物でもないな』と衝撃を受けました。就活生当時はサッカー部に所属していたため生活も忙しかったので、海外へ行くためのステップとして社会人の基礎が学べて環境に身を置けて、かつ、就活が早めに終わる会社、というのを重視しました」

銀行には朝8時前に出勤。6時ごろに起床し、7時の電車に乗る。早起きと満員電車が辛かったという1年目は、主に個人ローンなどの融資関係の書類の手続きなどの事務作業が中心だった。2年目からは法人と個人、両方の営業を担当。銀行員としての肩書きは、20代前半では普段お目にかかれない人々との出会いの場をもたらした。

「中小企業の偉い方や、北新地で事業をする企業の社長とか、いろんな方とお話しました。そうした方と接する中で、本当にすごい人もいれば、実は大したことない人もいるんだということを知りました。いろんな人と出会えたのは、銀行に入ってよかったことの1つです」

絶え間なく訪れる”すべき仕事”。その中にやりたいと思える仕事は正直少なかったけれど、将来を見据えた上で、金融知識や業務スキルなどの必須スキルが身についた。

「ノルマや自由の効かない勤務体系など、多少のストレスはあったけど納得はしてました。週末はフットサルをしたり、仕事以外でやりたいことをやってましたしね。一方で本当にやりたいことが漠然としていたので、やりたいことはやってるつもりでしたけど、どこかに『これで良いのかな』というのが常にありました」

そんな時、友人から持ちかけられた医学予備校での仕事。そこで現在の仕事スタイルへのヒントを得ることになる。

渡邉さんが代表を務めた社会人フットサルチーム

時間の制約が少なさが大きなヒントに

3年勤めた銀行を辞め、その医学予備校で英語講師として働き始めた。徐々に学校運営にも携わるようになると、働く時間を自分自身で決められるようになった。

「昼間ジムに行ってから、午後出社したり、フットサルの練習試合の直前は練習をしたり。生活の中心がボールを蹴ることになりました。もちろん仕事はきっちりやっていましたけど、自由度は高くなりました」

当時熱を入れていたのが、競技フットサル。中学時代のサッカー部の仲間を中心に結成されたチームで、渡邉さんは代表をまかされた。試合を検証し、練習して、勝ったり負けたり。予備校の仕事と掛け持ちしながら好きなことができるところに充実さを感じた。

「このままずっと予備校で働きながら、ボールが蹴れたら」

しかし、現実は甘くなかった。予備校の経営が傾き始めたのだ。運営に携わっていたからこそ、緊迫感がよく伝わってくる。

人生の選択が再び訪れる予感。渡邉さんは大きな賭けに出ることにした。スペインでサッカービジネスを学ぶため、MBA挑戦を決めた。

選手やコーチが世界で経験を積む中、ビジネスサイドにいる日本人はまだまだ少ない。日本サッカー発展のために自分ができることを模索したいと思った。

スペインの強豪サッカーチーム・FCバルセロナと提携し、ビジネスを学べるMBAを発見。講師はサッカー関係者で、”バルサ”のスタジアム・カンプノウ内で授業が実施されることもあるという。

MBA在籍時、カンプノウスタジアムで撮影

「サッカービジネスの一般知識だけでなく、バルサの内側に入って学びたい」

そして予備校を退職、バルセロナへ渡った。

大学時代のアメリカ留学を時折思い出しながら、各国から集まった学生たちと切磋琢磨する新鮮な日々。一方で予備校時代の安定した収入が途絶えて、ゼロになった収入は恐怖だった。

「でも大丈夫、MBAは1年で卒業できるプログラムだ。卒業までに仕事を探せばいい」、そう自分に言い聞かせて勉強に励んでいた。が、新型コロナが猛威を振るった。

「卒業するときになにかあると思っていたものが、なにもなかったんですよね。むしろMBAの同期たちが母国に帰っていく姿を見ることになって。じゃあ自分はどうしようかと考えたときに、僕はスペインにとどまりたいと思ったんです」

そこでMBAをさらに1年延長することを決める。クラブ訪問などの課外授業はじめ、コロナで未実施の授業を受けることにした。

卒論や課題は終えていたので、初年度より空き時間が増えたことから、サッカーのコーチングスクールに通ったり、育成年代のアシスタントコーチや自分のスポーツや教育のプロジェクト「にゅーびだ」を立ち上げるなど、活動の幅を広げた。

無事にスペイン滞在を延長できたのは嬉しかったが、計画外だった留学延長に、貯金もさらに減っていく。不安に駆られながらも、コロナが収まるまで辛抱強く待った。その中で、1つ気づいたことがあった。

[取材・文] 星谷なな
[編集] 岡徳之(Livit

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