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アメリカと中国の「チップ戦争」がし烈化しているが、実はその要をオランダ企業が握っているのをご存知だろうか?オランダ南部の小都市フェルトホーフェンを拠点とするASMLは、チップ製造に不可欠な半導体露光装置を製造しており、世界のチップの85%は同社の製品を使って作られている。
最先端の非常に高度な露光装置に至っては、独占状態を享受。このたび、一部製品の中国輸出については、オランダ政府がアメリカの圧力を受けて制限をかけることになった。
国際政治にも影響を与えるほどの力を持つASMLとは、どのような会社なのだろうか?この記事では、ASMLの成り立ちや、競合のニコンやキヤノンを抜いて「一人勝ち」に至った秘訣について迫る。
「世界の最重要地点」はオランダ南部の小さな街
「フェルトホーフェンは世界の最重要地点です!」――オランダの作家・コメディアン、アーヤン・ルーバック氏は夜の人気番組『アーボンドショー』の中で、オランダ南部の冴えない地方都市を茶化しながら解説する。
「ここは世界の最重要企業ASMLの本拠地なんです。テレビ、ラップトップ、スマホ……これらの製品に使われるチップはすべて、ASMLの機械で作られています」
ASMLが生産する半導体露光装置とは、複雑で微細な電子回路のパターンを、光源を使ってシリコンウエハに焼き付ける装置だ。1台の市バスほどの大きさだが、原子レベルの精度で動作する。
中でも極端紫外線(EUV)を使った最先端の装置「EUVリソグラフィ」は、髪の毛1本の1万分の1の細さのパターンをプリントすることができる、最も高度なチップ製造装置で、世界市場を完全に独占している。「ASMLが一時休止したら、高速の新しいi-phoneは出ませんよ!」(ルーバック氏)
装置1台の価格は1億ユーロ(約140億円)以上。EUVリソグラフィに至っては、1台2億ユーロ(約280億円)に上り、現在これを買える資金力を持つのは、韓国のサムスン、SKハイニックス、台湾のTSMC(台湾積体電路製造)、アメリカのインテル、マイクロンといった世界大手のみ。これに加えて、中国の半導体最大手SMIC(中芯国際集成電路製造)が最新装置を購入する意向であることが問題視された。
最新装置の中国輸出、アメリカが圧力
最先端の半導体は武器などにも使用されるため、政治的にも敏感な問題だ。また、中国がASMLの最新装置を購入できなくなれば、同国は高度な半導体を台湾のTSMCに依存せざるを得ず、中台間の力関係にも影響を与える。オランダの公共放送NPOのニュース番組は、「チップ産業は台湾にとって、いわば『生命保険』のような役割を担っているのです」と解説している。
こうした地政学的な背景もあり、ASMLの最先端装置の中国輸出については、トランプ元大統領のころからアメリカが難色を示しており、同社のEUVリソグラフィは中国に輸出されていない。バイデン大統領はさらに、EUVリソグラフィの前に開発され、深紫外線(DUV)を使った最新製品についても中国に輸出をしないよう、オランダ政府に圧力をかけていた。
これを受けたオランダ政府は3月8日、ASMLの最先端製品について、中国への輸出を制限する方針を発表した。ASMLは同日付のプレスリリースで、「“最先端”の定義は政府によって明らかにされていない」と言及しながら、それは一部の製品に限られるため、「2023年の財務見通しや長期シナリオに重大な影響を与えるとは見ていない」と説明した。
中国は以前、ASMLから購入した装置を分解して、その秘密を探ろうとしたこともあったのだが、分解した装置をもう一度元に戻したら作動しなかったという実話もある。同社製品はそれほど複雑で精巧なため、出荷の際にはチームが同行し、機械の始動とメンテナンスに当たっているという。
フィリップス脇のプレハブ小屋でスタート
ASMLは1984年、オランダの大手医療機器・電機メーカーのフィリップスとチップ製造装置メーカーのASMインターナショナル(ASMI)との合弁会社として設立された。当初はフィリップスの社屋の外に建てられた、雨漏りのするプレハブ小屋で始まったという。この会社が世界の政治問題にまで影響を及ぼすようになるとは、当時誰が予想しただろうか。
当時のチップは、電子回路のパターンがコンタクトプリントでシリコン基板に貼り付けられていたが、1970年代からフィリップスが進めていた研究を元に、ASMLは1984年、光の投影により接触なしで精緻なプリントを施すことを可能にする「ステッパー」を開発した。
半導体産業の発展に伴い、米半導体メーカーのアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)やコンピュータ大手のIBMが顧客についたものの、同社製品の開発と製造にはリターンを上回る巨額の投資資金が必要だった。90年代に入ると、同社はいよいよ資金難に陥ったが、親会社のフィリップスの奔走でなんとか倒産を免れる。
そして、1990年代、同社は後述する画期的な技術開発に成功。1995年にはフィリップスから完全に独立し、ニューヨークとアムステルダム市場に上場した。株式公開で調達した資金で、同社はさらに技術改良を進めた、という経緯がある。
現在、ASMLは世界60数カ所に事業拠点を持ち、143カ国からの従業員3万9,000人を抱えるグローバル企業に成長した。2022年の純売上高は212億ユーロ(約3兆円)で、粗利益率は50.5%と高水準。3月10日時点の時価総額は2330億ユーロ(約33兆5000億円)と、フィリップスの16倍以上に上る。
本拠地フェルトホーフェンには世界中からASML人材が集まっており、住宅供給が追い付かないほど急ピッチで成長を続けている。
競合キヤノンとニコンに欠けていたもの
ASMLを成功に導いた画期的な技術は、1990年代に市場に投入した「液浸リソグラフィ」だ。これはレンズとウエハの間に純水を満たすことで解像度を高める露光プロセスで、これにより従来の装置よりもさらに微細な電子回路をプリントすることが可能となり、さらに高性能のチップを製造できるようになった。
80~90年代の前半にかけて、半導体製造装置業界はニコンとキヤノンで世界市場の70~75%を占めていたが、90年代半ば以降はASMLがぐんぐんと市場シェアを伸ばし始める。
そして2010年には過去20年に渡る研究が実を結び、「EUV」という極端に波長の短い光源を使う「EUVリソグラフィ」を市場に投入。これは真空で動作し、レンズの代わりに鏡を使う高度な機械で、競合を完全に置き去りにした。
ASMLが成功した理由について、一橋大学名誉教授の野口悠紀雄氏は著書『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(日本経済新聞出版)の中で、ASMLが「中核部品を外注した」点を挙げている。
同社はレンズと照明系をドイツのカールツァイスに、制御ステージはフィリップスに外注する一方、自社では複雑な露光装置を制御するためのソフトウエアに注力した。また、顧客であるTSMCやサムスン、インテルなどと連携しながら知識を蓄積していったことも奏功した。
翻って、キヤノンとニコンはレンズや部品をすべて自前で製造。このため過去の仕組みへのこだわりが生まれ、開発スピードの減退や開発コストの増加を招いたと言われる。
このほかに野口氏は、2000年代のはじめにASMLが露光装置に注力した一方で、ニコンとキヤノンが新興国の中産階級の台頭を前に、デジタルカメラに注力したことが敗因となったことを指摘している。ASMLはビジネスモデルの「目利き」であったのだ。
オランダが得意なオープンイノベーションの恩恵
他社との協働で革新的な技術イノベーションを生み出すというスタイルは、実はASMLだけではなく、オランダが得意とする手法だ。オランダの現在のオープンイノベーションの形は、1980年代の苦境から生まれている。
当時、オランダは資源価格の高騰と製造業の不振、そして失業率の増加に直面。オランダの製造業を代表するフィリップスはさらに、大きくなりすぎた弊害と日本の家電メーカーなどとの競争より、経営危機に陥っていた。同社は事業を大幅に縮小するとともに、その再建プランでは地元の企業や大学、政府と協力しながらビジネスを発展させるスタイルが模索されたのだ。
フィリップスは90年代、オランダ南部のアイントホーフェン市にある同社の研究開発拠点「ハイテクキャンパス」の敷地を地元の企業や研究機関にも開放した。
同キャンパスは現在、フィリップスからは独立した第三者によって運営されており、世界280社以上、100カ国からの研究者1万2,500人が集まるオランダ屈指のイノベーションハブとして機能している。この中でASMLが重要な役割を果たしていることは言うまでもない。ASMLがアイントホーフェンの隣町であるフェルトホーフェンに拠点を置き続けるのも、カールツァイスをはじめとする重要なパートナー企業が近隣に集積していることが大きい。
同社は2022年、EUVリソグラフィを中心とした研究開発に33億ユーロ(4800億円)を投資した。これは前年を28%上回る水準である。最近のインフレ率高騰と中国への輸出制限のニュースは同社株価を押し下げたが、長期的には高付加価値製品の販売増で、一段の粗利益率向上を予想するアナリストが多い。今後も当面はASMLの「一人勝ち」状態が続きそうだ。
文:山本直子
編集:岡徳之(Livit)