未来を担うエネルギーとして期待されながらも、ほとんど普及が進んでいなかった水素エネルギーが、ここ数年のうちに一気に発展期を迎える可能性が高まっている。
二酸化炭素(CO2)を排出しないクリーンな水素を用いた水素経済・水素社会の実現に関してはこれまで、期待値の高さとは裏腹に、非現実的、夢物語とする懐疑論が根強くあったが、主要各国の積極的な関与と技術的な進歩により、ついに転換点を迎えた模様だ。
中でも脱炭素化のカギを握るとされるのが、再生可能エネルギーを用いた「グリーン水素」であり、この分野で先行しているのは再エネの普及が進む欧州。米国も最近になって「水素大国」を目指す方向に明確に舵を切った。また、中国も参戦し、22年3月にはグリーン水素を中核とする「水素エネルギー産業発展中長期計画(2021〜35年)」を策定。中東や南米諸国は地の理を活かし、水素エネルギーの大規模生産戦略を進める。
クリーンエネルギーとして水素が注目された1970年代から半世紀を経て、「水素覇権」をめぐる各国の争いが幕を開けた。
その背景にあるのは、世界規模での気候変動への危機感と、ロシアのウクライナ侵攻を受けた安全保障意識の高まり。独立系金融調査会社の米InvestorPlaceは、今この時が「11兆ドル(約1460兆円)規模の水素経済が離陸する前夜だ」と指摘する。果たしてその予想通りに、水素エネルギー市場が劇的成長を遂げるのか、注目されるところだ。
究極のカーボンフリー「グリーン水素」がカギに
水素は原子番号1の「H」。宇宙一軽い物質であり、元素としての水素は宇宙でもっとも大量に存在する。ただ、水素エネルギーとして利用するためには、化石燃料や水など、他の物質から取り出さなければならない。
自然界にある石油や天然ガス、太陽熱などの一次エネルギー源とは異なり、水素は転換・加工というプロセスを経て作られる二次エネルギー。主に、「グレー」「ブルー」「グリーン」などの種類がある。
現在、世界的に生産されている水素の9割超は石炭や天然ガスなどの化石燃料を改質して取り出す「グレー水素」だが、これは製造工程でCO2を排出するから、「脱炭素」という視点ではほとんど意味がない。
たとえ水を電気分解して水素を作ったとしても、その工程で使う電気を化石燃料でまかなうなら、やはりCO2は排出されてしまう。
一方、化石燃料を使いながらも、製造工程でCO2を回収・貯留し、排出を防ぐのが「ブルー水素」。風力、太陽光などの再生可能エネルギーを利用し、水を電解して作られるのが「グリーン水素」だ。
世界的に脱酸素化の切り札と目されているのは特に、このグリーン水素。製造から利用まで全工程において、CO2排出量はゼロ。排出するのは水だけという究極の「カーボンフリー」なエネルギーであり、将来の水素経済・水素社会化を担う存在としての期待が大きい。
先進国と中東・南米を巻き込む「水素覇権」争いが幕開け
水素の利用や技術で先行してきた日本もグリーン水素に目を向けており、太陽光発電を使った水素製造の実証プロジェクトを行う「福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)」は世界最大級。ただ、日本企業が開発・導入を進めているのは主に、ブルー水素の分野とされる。
半面、風力や太陽光発電の導入で先行している欧州が照準を合わせているのはグリーン水素であり、開発と市場の両面から、この分野では「欧州が先行している」(日本経済産業省資源エネルギー庁)。
EUや英国は実際、ロシア・ウクライナ戦争を受けたエネルギー安全保障政策の一環として水素戦略を強化しており、うちEUは2030年までに、域内のグリーン水素製造量を年産1000万トン、域外からの同輸入量を年間1000万トンとする目標を設定済みだ。
また、「脱炭素覇権」を目指し、再エネの導入を急ピッチで進める中国も、グリーン水素の中長期発展に向けたロードマップを策定した。2060年の「カーボンニュートラル」(CO2排出実質ゼロ)の実現に向け、まずは2025年までに燃料電池車の保有台数を約5万台に引き上げるとともに、年産10〜20万トン規模のグリーン水素製造体制を構築するとの目標を掲げている。
米国も本格参戦、技術開発支援に巨額の資金投下へ
さらにここに来て、「水素大国」への動きを加速させているのが米国だ。
2021年11月には、民主・共和両党がクリーンエネルギー技術向けに620億ドルの投資を可能とする「超党派インフラ法案」を可決。2022年8月には、バイデン大統領が「インフレ抑制法」に署名した。この法にはエネルギー・気候変動対策に4000億ドル弱(約57兆円)を投下する方針が盛り込まれており、その多くがグリーン水素に振り向けられる見通しという。
こうしたバイデン政権の方針を受け、米エネルギー省は12月16日、クリーンな水素や燃料電池の技術開発支援に7億5000万ドルを拠出すると発表。技術レベルの向上とともに、コストダウンを強力に推進する姿勢を明確にした。
2035年までに発電部門の温室効果ガス排出をゼロとし、2050年までには経済全体の実質ゼロエミッションを達成するという、バイデン大統領のコミットメントの達成には、こうした支援が不可欠だとしている。
米国の本格参戦で、世界の主要国・地域がそろって、水素エネルギーの土俵に乗った。米国の水素戦略はグリーン水素とブルー水素を組み合わせたハイブリッド型だが、いずれにせよ、世界を水素社会にシフトする推進役として強力に機能しそうだ。
コストダウンが課題、大規模化と技術開発で克服へ
グリーン水素の場合、風力、太陽光発電などの再生可能エネルギーをそのまま使わず、わざわざ水素の製造に回すことから、一見効率が悪そうに思える。しかし、自然由来の再エネは余ったり足りなくなったりと、発電量の振れ幅が大きい。
そこで、再エネの余剰電力を有効活用する形で水素を製造すれば、液化して貯蔵しておくことが可能となり、輸送もできる。脱炭素化に向けては、再エネと、再エネから作られる水素との「両輪」体制が欠かせないという。
ただ、カーボンフリーで貯蔵もできるというメリットとは裏腹に、高コストという大きなデメリットを抱える。この先、本格的な普及を目指すためには、大規模化と技術刷新によるコストダウンの実現が不可欠なのだ。
この点に関しては最近、楽観的な見通しがかなり目立つようになっている。水素燃料電池のコストが過去10年で約60%低下したという前例もあり、水素発電に関しても、再エネの低コスト化と技術刷新によるコストダウンは十分可能というのが、最近の予測だ。
また、安価でグリーン水素を製造できる他地域からの輸入も、コストダウンの手段の一つ。再エネの普及が進むドイツなどのEU主要国は自前の開発と並行して、中東や南米からのグリーン水素の調達に照準を合わせており、特にアラブ首長国連邦(UAE)と連携を強めている。水素を輸入するだけではなく、自らが電解設備などの技術開発をリードするというのが欧州の「水素戦略」だ。
一方、水素の供給側に目を向けると、UAEを筆頭に、サウジアラビア、オマーンなど、中東の産油国が主役級の存在。「石油後」を見据え、国有エネルギー会社を通じて海外企業と連携している。
産油国であるがゆえに、石油や天然ガスから産出するブルー水素の分野でアドバンテージがあり、日本企業との提携は主にこの分野。半面、灼熱の砂漠は太陽光発電に最適であり、長い海岸線は風力発電に向く。このため、欧州向けに膨大な需要が見込めるグリーン水素においても強みを持つ。石油・天然ガスに加え、グリーン、ブルーの両輪で水素プロジェクトに取り組むという全方位型の戦略を採ることが可能なのだ。
このほか、グリーン水素の大規模生産基地として台頭しているのが南米のチリ。国土が南北に細長く、風力資源と太陽光資源を兼ね備えたチリは技術的にも優れ、低コストという点で突出しているとの評価を得ている。
盛り上がる投資界、「2050年に市場規模11兆ドル」の予想も
一方、水素エネルギー関連企業への株式投資はこれまで、先行き不透明感から敬遠される傾向が強かったが、有力投資銀行のアナリストはここ2年ほど、一気に強気に転じている。
バンク・オブ・アメリカは2050年までに、11兆ドルという膨大なグリーン水素市場が形成されるとの予測を発表。モルガン・スタンレーも水素について、この先数十年で11兆ドル規模の市場機会を見込む。
また、ブルームバーグ・ニューエネルギー・ファイナンス(BNEF)は「水素経済見通し」と題した20年の報告書で、強力かつ包括的な政策が実施されるとの前提の下、2050年までに世界のエネルギー需要の24%をグリーン水素がまかなうようになるとの見通しを明らかにした。
今後は水素発電だけでなく、インフラ不足などからさっぱり普及していない燃料電池車(FCV)の可能性にも注目されるところ。前出の米InvestorPlaceは「2020年代のうちに水素経済は飛躍する」との見方であり、水素が世界を再構築し始めた年として、2022年が歴史的に記憶される可能性があるとさえ指摘している。実際そうであれば、我々は向こう数年で、水素社会への変化を目撃することになりそうだ。
文:奥瀬なおみ
編集:岡徳之(Livit)