生物多様性が理解できない企業は生き残れない? 2023年からスタートする国際的な「TNFD」とは

気候変動(地球温暖化)に関連した「TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)」が設立されて7年。今、その”生物多様性版”とされる「TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)」がスタートしようとしています。

発足したのは2021年のこと。現在は任意の企業・団体がパイロットテスト(試験運用)を始めており、2023年9月から本格的に始動する見込みです。

「TNFD」の狙いとは? 日本企業はどう対応すべき? 実施されれば、社会にはどんな変化がもたらされる? 生物多様性に精通する生態学者・久保田康裕教授(琉球大学・Think Nature社の代表)に聞きました。

プロフィール
▼久保田康裕さん/琉球大学理学部 教授・Think Nature代表取締役

生態学者として、進化生態学・マクロ生態学・生物地理学などにまつわる基礎研究や生物多様性保全に関する応用研究を行う。それらの研究成果をもとに、2019年に、生態学者を構成員としたスタートアップ企業Think Nature(https://thinknature-japan.com) を設立。生物多様性市場の創出を目指している。

久保田先生の取り組みについてはこちらも合わせてご覧ください。

2023年から始まる「TNFD」 発足の背景は?

――久保田先生、そもそも「TNFD」ってどんな取り組みなんですか?

久保田:「TNFD」とは、自然(生物多様性・生態系サービスなど)に関連した、企業活動のリスクや機会を把握して、それらが財務パフォーマンスに与える影響を開示するための枠組みを構築する取り組みです。

わかりやすくいうと、世界中の企業が「自社が事業活動によって、どのくらいの生物多様性や生態系サービスを喪失させたか。生物多様性の保全・再生や生態系サービスの持続可能性にどれくらい貢献しているか」といった、企業活動による自然へのインパクトに関する情報の開示、目標設定、報告を求める取り組みです。

もちろん日本の企業も該当します。

――なぜ今、この取り組みが必要なのでしょう? 

久保田:そもそもの前提として、今、地球上の生物種の多くが絶滅の危機にさらされ、生物多様性が失われつづけています。

例えば、WWFの「生きている地球レポート」によると、1970年から2018年の約50年間で、野生動物の個体群が約70%も減少したとされています。そこで、2050年までに生物多様性を十分に回復させるというゴール「自然と共生する社会の実現」が「生物の多様性に関する条約(生物多様性条約)」で定められました。

宙畑メモ:生物の多様性に関する条約とは
1992年にブラジルで開催された国連環境開発会議(地球サミット)で条約に加盟するための署名が開始され、1993年に発効した。
この条約は以下を目的としている。
(1)生物多様性の保全
(2)生物多様性の構成要素の持続可能な利用
(3)遺伝資源の利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分

詳しくは外務省ホームページを参照してください。

Source : https://www.naturepositive.org/

久保田:一方で、2021年のG7サミットでは「社会経済の基盤にあるのはネイチャー(自然資本)だ」というSDGsウェディングケーキモデルをもとに、現在、消失しつつある自然を、2030年までに増やす方向(ポジティブ)に転じることが国際目標(2030年自然協約)となりました。

SDGsウェディングケーキモデル。久保田先生ご提供資料。

久保田:そもそも、私たちの社会経済は、生物多様性が生み出す「生態系サービス」の恩恵によって成りたっています。いわば、企業もこの「生態系サービス」を利用しながら事業を行っているのです。

ただ、その利用がサステナブルでなかった結果、環境にダメージを与え、生物多様性が失われています。

そこで、企業活動による自然の損失を回避・緩和し、ビジネスにおいても自然の回復に貢献する努力をしてもらいましょう! という狙いで発足したのが「TNFD」です。

TNFDの究極的な狙いは、様々な産業セクターの企業の自然関連リスク・機会の開示情報をもとに、世界的な金融の流れを、ネイチャーネガティブからネイチャーポジティブにシフトさせることです。

「TNFD」の情報開示は“投資”の判断材料になる

――TNFDで企業の自然に関する情報が開示されると、ビジネス上どのような意義があり、ネイチャーにはどんなメリットがあるんでしょうか?

久保田:まず、各々企業は自然にまつわる“リスク”や“事業機会”といった情報および、それが企業の財務に与える影響を開示することになります。

これらの情報にまず最初に関心を示すのは、金融機関や機関投資家でしょう。

例えば、たくさんの漁獲を上げている水産関連の企業があったとして、今は十分な利益が出ているとします。これまで、金融機関や機関投資家は、その企業の利益(つまり財務情報)だけを見て投融資を判断してきたわけです。

しかし、その水産関連企業と自然との関連において、その漁獲が持続可能でなく、自然に対する負のインパクトが大きいというリスク情報が開示されたとしましょう。そうすると、金融機関や機関投資家は、この水産企業の漁獲収益はやがて減少する可能性があること、その企業の事業が先行きがないことを把握できます。

投資の世界では、投融資をする先の企業がサステナブルな事業活動をしているかどうかを既に重視するようになっています。いわゆる「ESG投資(※)」ですが、これに自然か関連のリスク・機会の評価軸がさらに加わるようなイメージでしょうか。

(※)Environment(環境)、Social(社会)、Governance(ガバナンス)の略。会社の財務状況だけでなく、非財務状況も重視する投資手法のこと。

――それでは、今後はネイチャーに配慮する企業ほど投融資を受けやすくなるのでしょうか?

久保田:そうなります。「TNFD」の目標は、金融の流れを通して、自然の損失を抑止し回復させること。だから、すべての企業は「自然関連のリスクに対して、どんな回避・緩和の努力をしていますか?」と問われることになります。

ここで、企業がネイチャーポジテイブな事業状況を開示できれば、投資家にアピールできる機会(メリット)を得ることができます。

逆に、自然に配慮しない企業は、投融資を受けにくくなるはずです。

先日、環境保護団体が、サステナブルでない事業を行なっている企業に対する投資実態を問題視するレポートを発表しました。今後は、自然に配慮しない企業に投資する機関投資家自体が、マイナス評価を受けるケースも出てくるでしょう。

「TNFD」で、希少生物が暮らす日本は不利になる?

――「TNFD」スタートについて、懸念点はありますか?

久保田:日本をはじめ、アジアは世界でも突出した生物多様性の豊かなホットスポットだということです。

「TNFD」はまだルール作りの最中なのですが、もしも欧米の人々の自然の見方にならった基準で評価枠組みを作られてしまうと、日本のような生物多様性ホットスポットで事業を行っている企業は、過大なネガティブ評価になってしまいます。

市場的にも自然に配慮した企業が選好されるトレンドは強まるでしょうから、アジアの企業は移行リスクにさらされやすいです。

日本やアジアは里山に代表されるように、自然とともに暮らすような自然との付き合い方があります。

私たちの自然観に合わないような仕組みを押し付けられるないためにも、日本やアジアの国々は、TNFDに沿った攻めの対応で、きちんとルール作りの議論に参加しなければならないと感じています。

――なるほど。各国にとってフェアで実効性のあるルールになってほしいですね。

「TNFD」企業は自社と自然の関わりをどう“評価”する?

――「TNFD」がはじまれば、各企業が自社事業と自然の関わりを“評価”するそうですが、どのような方法で行われるのでしょうか?

久保田:推奨されているのは「LEAP(リープ)アプローチ」と呼ばれる方法です。Locate・Evaluate・ Assess・Prepareの4フェーズを略して「LEAP」です。

●Locate:自然の接点を「発見する」
企業の事業活動をみると、世界各地の森林で木材を調達したり、熱帯林のプランテーションで天然ゴムやパーム油を調達したり、鉱山採掘でメタルを調達したり、船舶で物資を海上輸送したり、産業セクターによって地球上のさまざまなバイオーム(生物群系※)にインパクトを与えています。

そこで、各企業はどういう場所のどういう自然と接点があるのか、つまり、サプライチェーンと生物多様性分布の重なりを、まずは把握する必要があります。

(※バイオーム(生物群系)とは:生物群系気候によって分けられた、ある地域に生息する全ての生物の集団のこと)

●Evaluate:依存関係と影響を「診断する」
自社が木材調達をしているとして、どの地域でどれくらいの面積の森林を伐採しているのか? そのエリアに分布する野生生物種は何か? 生態系の状態にどういう影響を与えるのか? 生物の絶滅リスクや生態系サービスにどれくらい影響を与えているのか?

こうした事業と自然との依存関係をデータをもとに定量し、自然に対する影響を診断します。

●Assess:リスクと機会を「評価する」
上の診断をもとに、将来的な事業の「リスク」と「機会」を評価します。

例えば、自動車産業はタイヤ生産に関して、東南アジアの熱帯林に接点があり、熱帯林を開発したプランテーションで生産される天然ゴムに依存しています。したがって、タイヤメーカーや自動車メーカーは、天然ゴム調達が将来的に困難になるのかどうか、その物理的リスクを予測する必要があります。

さらには、熱帯林の生物多様性に過度のインパクトを与えるような天然ゴム生産が、市場の選好性にどのように波及し、それが自社事業の移行リスクになりうるのかどうかも把握すべきでしょう。

ここでは、企業の事業活動と自然の接点や自然への依存度をもとに、さまざまなシナリオを仮定したシミュレーションも行い、事業活動の持続可能性をデータに基づいて予測します。

●Prepare:情報をまとめて「準備をする」
最終的に、以上の評価をもとに、自社としてどのように自然関連リスクをマネジメントし、事業活動をネイチャーポジテイブにシフトさせるのか。その方針とアクションプランを報告します。

カーボン削減とはワケがちがう… ネイチャーの評価の難しさ

――「Locate」「Evaluate」「Assess」、いずれも難しそうですね。自社が自然にもたらす影響を数字でチェックし診断する、と…。

久保田:生物多様性は多面的な要素からなるので、その状態やダメージを定量するのは簡単ではないですね。

その点、先にはじまった「TCFD(気候関連情報開示クフォース)」によるカーボンニュートラル化の対応は、比較的わかりやすかったかもしれません。炭素は物質なので、その排出量を同じ尺度(原単位)で定量でき、地域や国や企業の間で排出量を比較できます。

しかし、自然の場合は、たとえば1ヘクタールの森を伐採して木材を調達するとして、日本と欧州では自然に与えるインパクトがまったく(桁違いに)異なります。さらに、自然のどの要素に着目するかによって、森林伐採のインパクトは異なります。なぜなら、場所によって、生物多様性や生態系サービスの特徴は全く異なるからです。

つまり、炭素と違って、自然は単純な尺度で統一的に評価できないのです。

事業活動によるインパクトが自然のどのような要素に影響するのか。さらに、事業活動を行なっている場所にどういう生き物が何種類いるのか。こうした自然の状態に関連するさまざまな情報を、適切かつ定量的に把握する必要があります。

――生き物の総量を定量するだなんてできそうにない話ですが…、それを実現したのが「日本の生物多様性地図:J-BMP」ですね。

久保田康裕先生が率いる「Think Nature(シンクネイチャー)」社の研究チームが開発した
「日本の生物多様性地図:J-BMP」 Source : https://biodiversity-map.thinknature-japan.com/

久保田:この「日本の生物多様性地図:J-BMP」は、野生生物の種分布といった膨大な生物分布情報を網羅的に機械学習で分析し、地図化したシステムです。現在、世界規模の生物多様性地図J-BMPグローバルを完成させ、運用をスタートしました。

サプライチェーンが自然に与えるインパクトを評価するための
グローバルな生物多様性の保全指標データ

Credit : Think Nature

久保田:詳しくいえば、各地の生物多様性の特徴を、他の地点と比較して相対的に評価できます。さらに、世界各地の陸や海を開発した場合のインパクトを、さまざまな指標で比較することも可能です。

あらゆる地点の、生物多様性の「価値」、「保全の効果」、「絶滅リスク」などを測り、評価できるのです。

――このシステムを使えば、「自社がどのくらいの生物多様性を喪失させたか」「その保全・再生にどのくらい貢献しているか」といった診断が可能になるんですね。

久保田:同じバイオーム(生物群系)でも、地域が異なれば分布している野生生物種は全く違います。

例えば、パーム油は、熱帯林バイオームで調達されます。が、地域的に見ると、東南アジアの熱帯林、南米の熱帯林、アフリカの熱帯林でそれぞれ生産・調達されています。そして、熱帯林バイオームの生物多様性の特徴量は、東南アジア、南米、アフリカの間で異なります。

同じパーム油調達でも、各地の自然に与える事業インパクトは異なります。東南アジアのパーム油調達はオランウータンのリスクにはなるが、南米でのパーム油調達調達は、南米に特異な野生生物にインパクトを与えることになります。

したがって、評価を行うときは、企業の事業インパクトを地域別のバイオームタイプで評価することになります。

――TNFDにおける自然関連リスク評価において、人工衛星データのデータも使われているそうですね。どのように利活用されているのでしょうか。

久保田:人工衛星データを活用すれば、企業活動が自然に与えるインパクトを、詳細に、高頻度で評価できます。

私たちシンクネイチャーでは、フィールドワークで集積された生物分布や生態系分布に関する”グランドトゥルースデータ”と”人工衛星データ”を紐付けて生成した情報(教師データ)を使って開発したAIで、生物多様性の変化を高分解能で可視化するシステムを開発しています。

この可視化システムを用いると、例えば、東南アジアの熱帯林における天然ゴムやパーム油生産や鉱物採掘の実態を過去20年に渡って定量評価でき、それが野生生物の絶滅リスクや生物多様性の消失にどのくらいのインパクトを与えたのかも評価し、さらには将来についても様々なシナリオを元に予測できます。

――リモートセンシングデータとフィールドデータを統合すると、企業の事業活動や自然へのインパクトを広域かつ詳細に把握できるのですね。

久保田:自然に関わるあらゆるデータを統合的に分析することで、生物多様性の状態をほぼリアルタイムで予測できるので画期的です。生物多様性ビッグデータとAIで自然環境をデジタルツイン化して、TNFDの実効性を強化し、ネイチャーポジテイブを推進したいと考えています。

2023年に本格始動 企業はどんな準備をしている?

――「TNFD」は来年9月に正式スタートとか。企業はどんな準備を?

久保田:現在は予行演習(パイロット)の期間で、模擬試験的に開示してみることが企業に推奨されています。今年7月にはキリンホールディングスが「LEAPアプローチ」に対応した情報の試験開示をしたというリリースも出ていました。

キリンホールディングスによる生物資源に関する情報開示 Source : https://www.kirinholdings.com/jp/investors/library/env_report/

今はTNFDに沿った対応の準備期間なので、情報開示の取り組み自体が評価される段階です。問題は、本格的に運用が始まった後のこと。開示した情報をもとにリスクのある投資先とみなされて、十分な投融資が受けられなくなるかもしれません。

――わざわざ自然関連リスクを調査をして情報を公開したのに、マイナスの評価を受けてしまう?

久保田:必ずしもそうではないと思います。企業の中長期的な事業戦略に、自然関連リスクに関する情報開示を、どのように落とし込むかが重要です。

「LEAPによって自然関連リスクが把握できれば終わり」ではなく、「それをこういう形で解決することで、リスクを機会に転換でき、事業をサステナブルにし将来的な収益も向上できます」「企業の事業戦略の枠組みで、最終的に、自社と接点のある自然をこう回復させます」という出口まで含めて考えられたら、その企業の価値の向上につながり、ESG投資の恩恵にも預かれるはずです。私たちも、企業のモチベーションが上がるような顧客目線のアイデアを考えているところです。

――こうした自然関連の取り組みに対応するために、社内にネイチャー専門のポストを用意する企業も増えるのでしょうか?

久保田:専門家とまでは言わなくても、自然関連に詳しい人材を社内に置きたいと思う企業もあるはず。今、私たちの方でも「TNFD」に対応できる企業人材を教育するプログラムを作っています。受講すれば、TNFDに沿った対応ができるようになるイメージです。

――今後、企業が「TNFD」で良い結果を残すために、取り組めそうなことはありますか?

久保田:たとえば、これまでCSR活動で緑化事業や自然環境の保全活動を行ってきた企業であれば、それを実効性のあるネイチャーポジティブ事業にバージョンアップするのも良いでしょう。

これまでは、実効性が不明確な社会貢献事業が多かったかもしれませんが、今後は人工衛星データなども活用した生物多様性可視化システムを活用しながら、ネイチャーポジテイブ効果量をきちんと測定可能な形にすれば、TNFDに沿った自然関連リスクへの対応といった観点で企業価値を上げていくことができるはずです。

「TNFD」の本格的な始動に向けて、これからパイロットの結果など、新たな動きがぞくぞくと出るはずです。生物多様性の国際的な動向に、ぜひ注目してみてください。

――久保田先生、ありがとうございました!

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