景気後退へのリスクが、アジア経済よりはるかに高いといわれる米国と欧州。欧州は、エネルギー価格が単独で不況をもたらしてもおかしくない状況ともいわれ、実質賃金が下がる可能性が大きい。米国は大規模な景気刺激策により、労働者の賃金上昇はあるものの、インフレにより実質賃金は下がっている。事実、欧州も米国も賃金上昇率はマイナスという状況だ。

そんな欧州・米国を含め、世界の他エリアを置き去りにするかのように、実質賃金の伸び率が唯一プラスなのが、アジア太平洋地域。2022年には0.3%だった。この傾向は2022年に限ったことではない。2023年もマイナス成長を続ける他エリアを抑え、1.3%の増加が見込まれているというのだ。

0.3%でもプラス成長には違いない、アジア太平洋地域の実質賃金アップ

全世界的に人材コンサルティング業を展開するECAインターナショナルが、年次報告書「サラリー・トレンド・レポート」を10月末に発表した。世界68カ国の360以上の多国籍企業を対象に行った給与動向の調査に基づいている。

同レポートには、名目賃金の伸びからインフレ率を差し引いた実質賃金についての報告も含まれている。それによれば、2022年に実質賃金が上昇したのは、アジア太平洋地域のみ。0.3%のプラス成長率だった。

同社のアジア地域統括部長であるリー・クエイン氏は、2022年にはインフレ率が大幅に上昇し、調査対象国の78%が実質賃金の減少を記録したと報告している。欧州の減少率は5.9%。欧州で実質賃金が上昇した国はゼロだったという。南北米では4%、アフリカ・中東では1.2%のマイナスを見た。

それでも企業側は、世界的なインフレ率の上昇と労働市場の圧力に対応できるよう、2022年の給与予算を決定したといわれる。これは、英米系多国籍保険アドバイザリー企業ウイリス・タワーズワトソンが4、5月に調査を行い、7月に発表した「サラリー・バジェット・プランニング・サーベイ」による情報だ。

2022年、世界133カ国以上の約2万2500以上の企業のうち、96%にも及ぶ企業が給与を増やし、給与予算を過去約20年間になかった水準に引き上げていることも、明らかになっている。給与を増額したという企業が2020年には全体の63%だったのと比較すると、その数の増加は著しい。

2023年も実質賃金が増加するのはアジア太平洋地域のみ

マレーシアの首都、クアラルンプール
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「サラリー・トレンド・レポート」で、2023年も引き続き、実質賃金の上昇が予想されているのはアジア太平洋地域。上昇率は2022年より上がり、1.3%だ。

2023年は、名目賃金の上昇率がアップし、平均してインフレ率が低下すると考えられている。クエイン氏は同年、世界的に状況は改善されるはずだとしながらも、実質ベースでは賃金はマイナス0.5%が見込まれると言う。

エリア別では、欧州でマイナス1.5%、南北米でマイナス0.5%、アフリカ・中東でマイナス0.1%の減少が予測されている。

実質賃金の上昇幅が世界で最も大きいのはインド

そんなアジア太平洋地域をリードするのが、インドだ。インドは実質賃金が2022年に2.1%、2023年に4.6%増加すると予想されている。この実質賃金の上昇幅は、世界で最も大きいそうだ。

「サラリー・バジェット・プランニング・サーベイ」でも、インドの給与予算は際立っている。2020年に8.2%、2021年には8.7%、2022年には9.9%と、それぞれ前年比で上昇し続けているのだ。

さらに、米国の保険関連企業エーオンが40業界の1300の企業を対象に、給与の上昇の具合についての世論調査「サラリー・インクリーズ・サーベイ」を行った。その結果を、ロイターが2月に伝えたところでは、インド企業は2023年に従業員の賃金を10.4%引き上げる可能性が高いという。これは、2022年9月までに見られた10.6%の引き上げとほぼ肩を並べる割合だ。

セクター別にみた場合、Eコマースは、全セクター中で最も賃金の伸び率が高く、12.8%。次いでスタートアップ、ハイテク/情報技術、およびIT関連サービスが11.3%、金融機関が10.7%と後を追う。

「サラリー・バジェット・プランニング・サーベイ」では、金融サービス、銀行、テクノロジー/メディア/ゲームのセクターが、それぞれ10.4%、10.2%、10%と高い給与上昇率が見込まれている。

賃金アップは業績好調なインド企業の自信を反映


エーオンのインドにおけるヒューマン・キャピタル・ソリューションのパートナーであるルーパンク・チャウダリー氏は、同社が行った世論調査についての声明で、賃金の引き上げは、好調な業績を上げるインド企業の自信を反映したものと話している。

実際、調査によれば、2022年には約88%の企業が、今後の業績は明るいという見通しでいることが分かっている。これは2021年より11%も高い割合だ。

南アジア諸国がインフレに悩み、世界経済の後退が懸念される中、インドも8月、インフレ率が7%に上昇。

チャウダリー氏は「インド経済の根幹は依然として強固であり、企業マインドも前向きだと考えられる。小売り、流通、ファストフード店といった、コロナの第一波で苦戦を強いられたセクターでさえ、立ち直っている」と、今後もインド企業が発展するであろうことを強調している。

金融センターとしても知られるインド最大の都市、ムンバイ

マッキンゼー・アンド・カンパニーは、11月発表の「グローバル・エコノミックス・インテリジェンス」で、インド経済は「世界的な景気後退の中、拡大を続けている」と評価している。

インド経済はここ数カ月、好調に推移している。製造業の購買担当者景気指数(PMI)は3ヵ月連続で健全な拡大を示し、9月は55.1だった。サービス業も54.3と拡大した。

9月のインフレ率は7.4%と、前月より0.4ポイント上昇。ほぼすべての項目で物価が上昇する一方で、エネルギーは10.4%と前月比でマイナス0.4ポイントと、伸びが鈍った。生産者物価上昇率が4カ月連続で鈍化。前月比でマイナス1.7ポイント減少し、9月は10.7%となったことも明るい兆しとされる。貿易赤字も、257億USドル(約3兆6000億円)と、前月に比べ、23億USドル(約3200億円)改善している。

ボンベイ証券取引所(BSE)、ナショナル証券取引所(NSE)における、株式市場は9月に5%から7%の値下がりとなったが、10月にはそのほとんどを回復した。失業率も9月は6.4%と前月比で2.1ポイント低下。インドで最も低い数値を記録している。

アーンスト・アンド・ヤングも、インド経済は短中期的に好調だと予想する。国際通貨基金(IMF)が予測する2023年度のインドの経済成長率は8.2%、インド準備銀行(RBI)の予測は7.2%と伝えている。アジア開発銀行(ADB)は、2023年度には7.5%、2024年度には8%にまで伸びると予測する。

2022、2023年度の2年連続で記録された、比較的高い名目GDP成長率は、中央政府と州政府に大きな財政余力をもたらす可能性がある。そして、この財政余力は石油製品の連邦消費税の引き下げを促し、2023年度予算での約束事項であるインフラへの大幅な投資などに用いられることが予想される。

インドは世界の主要経済国の中で、経済成長をリードする存在になると考えられている。多くの先進国は、高いインフレ率に苦しんでおり、国内金利の引き上げを行っている。そのため成長率が鈍化し、景気後退につながる可能性もある。米国や欧州が景気後退に陥れば、インドの輸出にも悪影響が及ぶ。

9月のインドのPMIは、8月の57.2から明らかに減速している。貿易赤字も2021年の水準を14.4%上回った。中央銀行準備高は、9月9日の5509億USドル(約77兆円)に対し、10月7日時点で5329億USドル(約75兆5000億円)に減少した。インドルピーは過去12カ月間、対米ドルで値下がりし、最近では歴史的な安値を記録した。インド準備銀行はインフレ率の高さを考慮し、政策レポ金利を50ベーシスポイント引き上げて5.9%とし、2023年度のGDP成長率見通しを下方修正した。

経済大国・中国は実質賃金上昇率が3.8%で世界第3位

買い物客が多く訪れる、中国の市部のショッピングモール
© 来斤小仓鼠吧 (CC BY-SA 4.0)

「サラリー・トレンド・レポート」におけるアジア太平洋地域で、実質賃金上昇率が3.8%で第3位に入るのが、経済大国の中国だ。

2022年の中国の名目賃金上昇率は5.9%で、アジア太平洋地域でトップには入らないが、インフレ率が目標の3%を下回っており、実質賃金上昇率は3.8%となっているという。

インフレによる実質的な所得への影響はなく、インフレ対策のために金利を上げる必要もない。ウクライナ戦争による、エネルギー危機の影響も、安価なロシア産原油を購入することで最低限に抑えている。

その一方で、ロックダウンを伴うゼロコロナ対策が、シクリカル(循環的な景気変動)なリスクとして挙げられている。同政策がもとで、成長率は第2四半期に前年同期比で横ばい、前期比でマイナスとなった。

政府は2022年の成長目標を5.5%に引き下げた。経済の規模が拡大していること、最新の政策が成長を持続的に維持していくための目標を多数掲げていることで、近年見られた6~8%という、目覚ましい成長率を達成するのは難しくなっている。

またベトナム、マレーシア、タイがコロナまん延後の景気回復に成功し、インフレ率の低下が見込まれると、「サラリー・トレンド・レポート」は解説。2023年は2022年と比べ、実質賃金の伸び率が高くなると予想する。ベトナムは4%、マレーシアとタイは共に2.2%だ。

2021年の予測に反し、タイでは実質給与の上昇は見られなかった。予想以上のインフレ率の高さが原因だ。しかし、2023年には、賃金上昇とインフレ率の低下の両方の恩恵を被ることになるだろうと、予想される。

一方、ラオスやミャンマーは経済的・政治的問題を抱えており、その影響で他国よりインフレが経済に影響しやすい。2022・2023年とも賃金は大幅に減少してしまうのは避けられないというのが、大方の見方だ。

© IFPR (CC BY-NC-ND 2.0)

経済大国といわれる国々を差し置いた感がある、インドの実質賃金。しかし、忘れてはならないのは、国内に以前から存在する所得の不平等さだ。

欧州を代用する経済政策研究者のネットワークCEPRのコラム「VoxEU」には、インドが経済成長を維持するためには、機会の不平等への関心を高める必要があるという記事が掲載されている。

1990年以降、インドの平均所得は4倍に増え、絶対的貧困に苦しむ人口の割合は45%から20%に低下し、1億3000万人の生活が改善されたといわれるものの、農村部と都市部の所得格差は拡大し続けていると、著者であるIMFの研究者や大学教授が指摘している。それによれば、農村部の平均所得は、都市部の2分の1に過ぎないそうだ。

「フォーチュン」誌に世界経済と実質所得に関する記事を寄稿したボストンコンサルティンググループ・パートナー兼マネージング・ディレクターのフィリップ・カールソン・スレザック氏と、同グループ・ヘンダーソン研究所ディレクター兼シニアエコノミストのポール・スワーツ氏は、こんな風に経営者や投資家に助言している。「グローバルに考え、ローカルに分析せよ」と。

文:クローディアー真理
編集:岡徳之(Livit