SDGsを実現する上で大事なキーワード「多様性」。ジェンダー平等という目標が掲げられているように、あらゆる性を受け入れる時代になってきた。その一方、すべての事柄に多様性を当てはめることの不自由さも生まれている。例えば、人を容姿で判断する「ルッキズム」という価値観から大学のミスコン廃止が発表され、様々な議論が巻き起こった。
「関西弁を喋る面倒くさい性格のロシア人。そしてゲイ」と名乗り、ワイドショーやニュース番組などのコメンテーターとして引っ張りだこなタレント、コラムニストの小原ブラスさんも自身のYouTubeチャンネルで「見た目にコンプレックスを抱いていた」と公言している。
ある種外見を重要視する芸能界に身を置く小原さんが考える「ルッキズム」について聞くと、話題は日本が提唱する「多様性」「SDGs」の違和感へーー。より良い社会を創り上げていく上でどのようなアクションをすべきか、小原さんなりの考えをお聞きした。
他者への押しつけが、ルッキズム問題の根幹
ーー芸能界はある種“外見”が重要な世界であると思うのですが、小原さん自身は「ルッキズム(外見至上主義)」という価値観をどのように捉えていますか?
「美しくなければならない」と思うこと、もっと言うとそれを人に押しつけることはダメだなと思います。何より外見にいちゃもんつける人ほど努力をしていなかったり手を抜いていたり自分を棚に上げている。それに一番腹が立ちますね。だからといって、「美しい人を評価しない」のもまた違うんかなとも感じていて。
僕自身、芸能界に入るまでは単純に「顔が良いからチヤホヤされて……」と思っていたけど、その努力を見たら馬鹿にできひんなって思うようになった。何をもって「美しい」とするかは置いておいて、自分が美しくなるために髪の毛、服装、メイク……いろんなことに気を配って努力して苦労して頑張っている人をたくさん見てきましたから。
ーースポーツでは優れている人が表彰されますが、ミスコンなどの外見を表彰されることについてはいかがですか? 例えば先日、大学のミスコン廃止が話題となりました。
ミスコンはまた別の問題を持っていると思うんですよね。自分の価値を高める一つの肩書きを入手する場としてミスコンがあると思っていて、その肩書きがあることで特別視される職業や業界がある。芸能界もその一つですよね。社会進出のステップにおける一つの材料が肩書きなわけです。それは裏を返すと「見た目を売って生きていくこと」にも繋がります。そんなんが社会進出の判断材料になるのはあかんよな、という考えはあります。
だけど、「美しい人を評価しない」と単純化する必要もない気がする。セクハラ問題も同じで、女性全員が「下ネタ嫌いでセクハラだ!」と思うわけではなく、性別関係なく下ネタが嫌いな人もいれば全く気にしない人もいる。人によるじゃないですか。それなのに「女性はみんな下ネタをセクハラだと思う」と女性全体が腫れ物扱いされてしまう。ミスコン廃止も同じで「人を見た目で判断するのは良くないから、すべてのコンテストは廃止にしましょう!」と単純化している。それは楽かもしれないけど、それによって誰かが犠牲になったり腫れ物になったりしたらダメだと思うんですよ。
確かにミスコンは美しい人を評価しているかもしれないけども、だからといってその中で評価されなかったらダメな人なんだと言っているわけではない。そういう風に一人ひとりがちゃんと考えられれば苦しくないと思う。
多様性を受け入れる社会=我慢する社会
ーー一方、単純化することで得られる安心感もあると感じています。
それは日本の社会性が大きく影響していると思います。日本は経済的には資本主義だけども、根底には社会主義的な「平等でないといけない」という価値観がある。誰かが苦しければみんな苦しまないといけないし、誰かが幸せならみんな幸せでないといけない。いろんな人がいると計画経済のアプローチが上手くできないから、みんな同じが良い。だから、日本人は曖昧表現が好きとよく言うけど、白黒ハッキリさせたがりやなと思う。
日本は昔から長く働けば能力に関係なく給与が上がっていく年功序列という制度があるやないですか。だから子育てをするために会社を辞めたり休んだりする女性は社会進出がしづらい。女性の社会進出を犠牲にして、男性は無理してでも働くべき。そう単純化することで安心を買っていた。一方アメリカやと能力の高い人が評価される仕組みやから長く働く必要がない。合わなければ性別問わず辞めちゃうんですよ。すると比較的女性の社会進出がしやすい。
ーーその代わり、常に競争する社会だから安心感は得られない、と。
そう。でも日本も「安全ではないこと」に興味を持ち始めていると思うんです。今まで出る杭は打たれていたけど、女性の社会進出を含めた多様性がどんどん受け入れられることで出る杭が評価される社会になっていく。代わりに競争して負けた人たちが弱者になる社会スタイルになる。疲弊する人が増えるとか副作用がどんどん出てきて、それはそれで「嫌だ」と言う人も出てくると思います。
ーー今は多様性に対するメリットばかりが取り上げられているけど、多様性を受け入れることのデメリットもあるということですね。
「多様性を受け入れる社会=いろんなことが許されるようになる社会」と思っている人が多いけど、実際は「多様性を受け入れる社会=いろんなことを許す社会」やと思うんですよ。つまり「我慢しない社会」ではなく、「我慢する社会」に向かうということ。だから本当に生きやすい世の中になるかどうかは僕にも分かりません。
でも多様性を受け入れる世の中になれば、少なくとも白黒つけたり単純化したりすることで安心感を得ることはなくなると思います。本来の多様性はグレーな部分が増えていくものやから。
SDGsのゴールは「SDGs」というワードを使わなくなること
ーーSDGsも同じように良い面ばかり提唱されているけど、それによる弊害が出てくる可能性もあると感じますか?
意識することは大事やなと思いますが、おそらく苦しむ人は出てきますよ。この前テレビに出た時に僕は食器を洗うのが面倒くさいから食器を使わず紙皿を使っていて、1回使ったら捨てちゃうという話しをしたら批判されたんです。「こういう人が社会のごみを増やすんだ」「環境に悪い!」って。でも僕としては、「食器洗いに洗剤を使うのは環境的にどうなの?」「紙があることでごみを燃やす燃料が少なく済むから環境にいいかも」とかも思う。あと「ヤシノミ洗剤なら環境にも優しい」という意見もあったけど、ヤシノミ洗剤をつくっている結果マレーシアの島の森が禿げているとも聞きました。「環境にいいことをしている」と思っているけど、実はそうじゃないこともある。どっちに寄っても不幸になって苦しくなるから、ややこしいんですよ。この世は地獄なのよ……。
ーーすべてにおいて正解はないということですね……。
それにそもそもそんな括りをつくらなくても、「持続可能な社会を当たり前にすること」を目指すべきよね。日本は昔から“もったいない文化”があると世界に広まっているくらいSDGs精神を持っていたやないですか。それなのに急にSDGsと勝手に名前をつけて……。LGBTQもそうやと思います。わざわざ変な言葉を使わんくても当たり前になることがゴールやないですかね。
単純化することと同じように言葉によって楽な場面もたしかにありますよ。恋愛の会話をする時、普通は男性は女性を、女性は男性を好きという前提での会話になるけど、自分はゲイだから、その会話では枠から外れる。「私はゲイです」って“名刺”があれば、余計な説明をせんでいきなり「腹筋が割れてて脱毛しなくてすね毛あるタイプがええな」って言っても話が通じる。
そうやって細かい前提を挟まんでも会話できる便利さがあるという意味で、そういう言葉での分け方はまだ必要なんやと思う。でも本来は「どういう人がタイプなん?」って聞いた時、男性が「すね毛が濃い人」、女性が「胸が大きい人」といきなり言っても受け入れられる社会を目指していくべきなんやと思います。そこで初めて本当に目指しているゴールに近づくんやないかな。
「考えること」と「許すこと」が、当たり前を増やすために必要なアクション
ーーSDGsを含め数多くの枠組みを当たり前にしていくために、個々人はどのようなアクションをした方が良いと考えますか?
まずは「考えること」が一番大切だと思います。僕はいろいろ調べて考えた上で紙皿を使うことを選択しました。いろんな説があるから正しいかは知らんけど、それが仮に間違っていたとしても考えていたことは評価していかんとアカン。
そういう意味では「考えること」と同じくらい「許すこと」もすごく大事かなと思います。考えた結果、失敗したり間違えたりした人は許していく。今は失敗を叩きすぎてしまう風潮があるけど、何も考えずに適当に安全パイを食っている人が増える方が僕は嫌やなと思う。僕の前でゲイの認識を間違えた発言をしたっていいんですよ。
ーーそれが考えた上での発言なら、ということですよね。
そうそう。あまりにも遠慮し過ぎた結果、コミュニケーションを取るのはやめておこうと諦められたり腫れ物扱いされたりする方がしんどい。たまに「ゲイやなかったらモテていただろうにもったいない!」と言う人がおって余計なお世話やと思うけど、それが考えた上での会話の切り口やったら嬉しいなと思う。「ん?」と思うようなことを言われても許していきたい。失敗した側も失敗から学んでまた考えて行動していかんと。
ーー小原さんはSNSなどで様々な意見が届くと思うのですが、自分が傷つくようなコメントを「許す」ことができるのでしょうか。
ロシアとウクライナの戦争が始まってからいろんなコメントが届くようになったけど、考えてコメントをしている人と大して考えずにコメントをしている人って分かるんですよ。この人は本気で考えているんやなと思うコメントはちゃんとしたぶつかり合いができるから、誹謗中傷めいていても悪いことやとは思わない。一つの多様性だと捉える。やけどもう一方は、言ってはいけない悪い言葉だと分かっていてわざと投げている。ちゃんと考えていたら言わないであろう正しくない言葉を投げてくる人の多くは匿名なんですよね。罪悪感を抱えている気もする。
そういう人に対しては「この人は神社の境内で同じことはできひんやろな」と思うと僕は許せる。たまに「神様、見てんで」と送っていますけど(笑)。神様じゃなくても自分が信じている何かが自分を見ていると思えば、悪意が減っていくんやないかな。すると考えた上での失敗を許せるようになるから、もっと動きやすくなって新しいアイデアが生まれて枠を超えた当たり前に近づいていくんやろうと思います。
文:阿部裕華
写真:西村 克也