サステナビリティやウェルビーイングなど、非財務的な活動がビジネスシーンでもスタンダードになる日本。一方で、各社の客観的評価はいまだ財務諸表が主軸となっており、企業活動の全体像を統合的に捉えることは困難だといえる。原因の一つとして挙げられるのは、シンプルに企業価値を示すフォーマットが存在しないことだろう。
こうした中、2022年3月に電通が公開したのが、企業の統合的な価値創造ストーリーを策定・開示する新たな経営設計図「統合諸表 ver.1.0 」だ。「事業」「社員」「社会」「環境」の4領域を一目で見渡せるフレームワークとなっており、今後さまざまなシーンでの活用が期待される。
この「統合諸表 ver.1.0」による、企業価値創造の新たなスタンダードは、社会をどのように前進させるのだろうか? プロデュースを担った、株式会社電通の小布施典孝氏、株式会社電通コンサルティングの魚住高志氏、予防医学研究者の石川善樹氏の鼎談を通じて、変化する企業価値とその再構築について、方法論を探っていく。
若い世代が未来を見失う、日本企業の財務的メカニズム
「統合諸表 ver.1.0」の開発に当たりプランナーを務めた電通の小布施氏は、自身が一人の会社員として抱いた課題意識から、“企業価値”について再考し始めたという。
小布施氏「私は仕事上、数多くの企業と向き合っていますが、常に『前年比○%増』というような数値目標を念頭に置いています。当社自体もM&Aなどで会社を拡大する動きもあり、企業のこうした方向性を否定するつもりは全くありません。しかし、個人という視点に立ち返ると、『会社の成長は、自分とどう関係があるのだろうか』と疑問を感じることもあります。日本全体に目を向けても同様で、GDPを追求して経済が成長しても、格差や分断が生じている。『世の中のウェルビーイングに、もっと本気で向き合わなければならない』と感じ、その実現について石川さんたちと議論を始めました」
「売上が堅調でも待遇は向上しない」「大企業であるにもかかわらずリストラが生じる」……。日本社会で頻繁に見られる“成長”と“幸福”の乖離に対し、共感を抱く読者も少なくないだろう。現代におけるこうした違和感には、構造的な背景が存在すると指摘するのは、専門家の立場からプロジェクトに参加した石川氏だ。
石川氏「現在の20〜30代のビジネスパーソンは、いわゆる“失われた30年”を生きてきました。それ以前の日本経済は、基本的に右肩上がりだったんです。企業の総売り上げも成長しており、それと比例して従業員の給与水準も伸びていた。つまり、『頑張れば報われる時代』だったわけです。しかしバブル崩壊以降、日本は成熟経済に突入。もちろん、それぞれの企業は成長を目指すわけですが、マクロでみると定常社会あるいは成熟経済に移行しました。会社や仕事に対する価値観の変化は世代が下るほど顕著ですが、時代の流れから見ると必然なのです」
一方、視点を変えると「興味深い構造」が見えてくると、石川氏は続ける。
石川氏「2000年からの20年間に焦点を当ててみましょう。実はこの期間、日本企業は純利益を出し続けています。売上は伸びていないのに利益は上がっていった。では、この利益は誰にとっての利益か? 答えは株主です。配当や自社株買いで株主が得する構造になっていたわけですが、売上が変わらないのに利益を配当していくためには、何かを削らなければなりません。結果として、従業員の給料、設備投資費や研究開発費、経営陣の役員報酬などを削減していったわけです。株主以外のステークホルダーにリターンを与えなかったのが、過去20年の日本企業といえるでしょう」
株主の利益を最優先する経営方針や経済構造は、よく「株主資本主義」と言い表される。そこで重要な指標となる損益計算書では、従業員の給与はコストとして記載され、「利益を圧迫するもの」と位置づけられるのだ。こうした構造は“諸悪の根源”のように映るが、その是非を問うのは容易ではないと、石川氏は語る。
石川氏「長い視点で見ると、日本企業は株主を軽視し過ぎた歴史があったため、一概に過去20年間を悪いとはいえません。しかし今後も持続させることは、成熟を迎えた日本経済では不可能でしょう。そこで、短期的には株主への利益分配を抑えつつ、長期的に株主を含む全てのステークホルダーがWin-Winとなる経済をつくり出すという方向が目指されているのです」
では次の時代、利益以外の重要な指標になるのは何なのだろうか。「統合諸表 ver.1.0」は、その答えを反映しているようだ。
企業価値を可視化し、ステークホルダーと共有することの重要性
「統合諸表 ver.1.0」では、企業価値を「事業」「社員」「社会」「環境」の4象限で捉えられるように設計されている。財務情報だけでなく、非財務情報をも統合的に示していることが、最大の特徴といえるだろう。先の「株主資本主義」に代わる概念として「ステークホルダー資本主義」が注目されているが、こうした潮流がフォーマットとして反映されている形だ。
小布施氏「これまでの日本では財務諸表に目を向けるばかり、『事業』以外の3象限が犠牲になるケースが多かった。しかし、ステークホルダーというのは、従業員や地球、社会市民も含まれるわけで、『統合諸表 ver.1.0』ではそれらをダイレクトに落とし込みました。4象限のスコアを企業価値として捉え、バランス良く高めていく経営を実践するための“羅針盤”のようになっています」
石川氏「各企業は従来通りしっかりと収益を上げることに加え、他のステークホルダーに対しても貢献することが求められています。多岐にわたる企業活動を整理するためには、新しいフレームワークが必要です。『統合諸表 ver.1.0』は、一つのフォーマットで多くの人が企業価値のあるべき姿を共有できる設計になっています。そのシンプルさが画期的といえるでしょう」
「統合諸表 ver.1.0」では、「存在意義」「戦略」「活動」「指標」という流れで、理念と取り組み、結果が一致しているかを俯瞰することもできる。シンプルな一枚絵にこだわったのは、誰もが一目で理解でき、社内外のコンセンサスがスムーズに形成されることを目指したためだ。電通コンサルティングからプランナーとして参加する魚住氏は、「従業員と経営者の認識共有にも貢献する」と語る。
魚住氏「優れた活動を実施している企業であっても、経営と現場で見ている指標が違えば価値観は乖離し、ウェルビーイングは実現されません。『会社が何をやろうとしているのか』『何のために存在しているのか』『現場は何をすべきか』について共通認識が生まれるように、コミュニケーションツールとして機能させる。こうした目的もありました」
小布施氏「財務・非財務の情報を網羅するフォーマットとしては統合報告書がありますが、実際に若い従業員が読み込んでいるケースはまれです。そうした意味でも、シンプルなフォーマットでダイレクトに伝えることは重要だったのです」
「統合諸表 ver.1.0」は、経営層の意思決定を動かすか
2022年2月、日本経済新聞社が主催する「Well-being Initiative」の参画企業の担当者が参加する形で、ワークショップが開催された。各社の統合報告書に記載される情報をベースに、「統合諸表 ver.1.0」を埋めていくものだ。
小布施氏「経営企画、IR、人事、広報など、さまざまな部門の担当者さんを集め、他社の統合諸表との比較や意見交換を行っていただきました。『自社の企業価値を再考できた』『良い点、悪い点を整理できた』『課題発見につながった』といった高評価が多かったです。中には『統合報告書を初めて見た』という方もいたのですが、『統合諸表によって自社の全体像をつかむことができた』という感想を頂き、うれしく感じましたね」
業態や規模を問わず、どのような企業でも自由に活用できる「統合諸表 ver.1.0」だが、今後はコンサルティングツールとしても活用される予定だ。企業の経営層が抱える課題を「統合諸表 ver.1.0」で整理し、顧客の企業価値を向上させていきたいと、魚住氏は意気込む。
魚住氏「私たち電通グループは、これまでクライアントの“現場”を支える事業に従事してきました。しかし現在、不確実で変化の激しい時代に突入したことで、経営者の意思決定を支える必要性が高まっています。『統合諸表 ver.1.0』を活用することで、企業が抱える課題をゼロから整理し、着眼すべき価値の解像度を上げることが可能になるでしょう。電通グループは、ロジックでコンサルティングを行う“左脳的能力”だけでなく、顧客が持つ無形資産に光を当てたり、表現の力で世の中に発信したりする“右脳的な力”も備えています。このリソースをフル活用することで、多くの企業の経営者の力になれると確信しています」
多くの企業の経営層と接する小布施氏と魚住氏だが、社会的価値と財務指標のバランスについて、その重要性も熟知しているようだ。
小布施氏「経営者のマインドは各社で大きく異なりますが、現在の日本には、財務的な指標を価値の中心に据える『シングルマテリアリティ』と、社会や環境をも重視する『ダブルマテリアリティ』の二つが拮抗しているように感じます。『三方よし』という概念があるように、かつての日本にはダブルマテリアリティ寄りの経営者が多かったのですが、科学やデータのビジネスへの流入、株主資本主義の普及などによって、『最終的には財務に還元されなければならない』という考えが広がったのでしょう。そして今日、価値観が大きく揺れ動いていると感じます」
魚住氏「どんなきれい事を掲げても、常に財務目標を達成しなくてはならないのが企業です。『社員』『環境』『社会』の3象限が、最終的にどう財務に好影響を及ぼすかをモデル化しなければ、投資という意思決定には至りません。『統合諸表 ver.1.0』によって、SDGsや従業員のエンゲージメント向上の取り組みを数量化し、因果関係を示すことができれば、各社の企業活動も大きく変化するのではないでしょうか」
価値創造のプロセスは、ストーリーでつなぐべき
企業価値の整理と分析、情報と価値観の共有、経営層の意思決定など、新しい企業価値の指標は、さまざまな変化をもたらすと考えられる。価値基準のアップデートにより、日本社会はどのように変わるのだろうか。3人の意見を聞いていこう。
石川氏「企業価値の測り方について、これまでの軌跡を『ホップ・ステップ・ジャンプ』に例えると、まず『いくら稼いでいるか』というホップの時代があった。これは単純に損益計算書を見れば分かりました。次に、『どう稼いでいるか』が問われる、ステップの時代に移行します。ここでは2000年ごろから広まり始めた、ビジネスモデルが活用されるようになりました。ステップまでは『稼ぐ』という財務の指標にとどまっていたのですが、今後はジャンプの時代になり、『どのように価値を生み出しているか』が問われ始めます。重要になるのは、一つの企業において、パーパス、ミッション、バリュー、財務、CSRなどがつながっていること。統合報告書はそれぞれがバラバラになりがちで、どうしても各ステークホルダーの納得感が生まれなかった。フォーマットを一枚絵にして限りを持たせた『統合諸表 ver.1.0』により、ステークホルダー資本主義へと前進するのではないでしょうか」
魚住氏「投資家というと『機関投資家』を浮かべる人が多いですが、これからは個人投資家がさらに増えていくと思います。個人投資家は、企業の“ファン”だから購入や投資をするわけですが、その判断基準は社会や環境、身の回りの生活に良い影響を与えているかどうかです。企業側も『顧客こそが投資家である』という前提で経営を行うことで、社会の誰もが自分事として企業価値を捉えるようになると思います。このサイクルの構築において貢献できるといいですね」
石川氏「価値というのは、『誰と創造するか』で決まります。株主にとって大切なことと、地球環境にとって大切なことは、今のところ異なることも多い。それをストーリーとして統合していくことが、未来的な経営に求められるのでしょう」
小布施氏「働く人々にも役立ってほしいですね。『自分は何のために働いているのだろう』と疑問を抱く若い人は多いですが、『せっかく働くなら誰かを幸せにできたらいい』『社会を1ミリでも良い方向にできたらいい』といったことは、大きなモチベーションになり得ます。第一歩として重要なのは、やはり可視化です。『統合諸表 ver.1.0』が、働くことの意義そのものを生むツールになれば、これほどうれしいことはありません」
ビジネスの長い歴史の中で、損益計算書や統合報告書は画期的なイノベーションだったに違いない。そして現在、価値観が大きく変化する中で、新しいフォーマットが求められているのだ。全ての人が一目で企業価値を把握できる「統合諸表 ver.1.0」は、マルチステークホルダーの時代に効果を最大化し、日本における経済・社会の前進に寄与するのではないだろうか。