ビッグデータをもとに購入履歴や消費性向を分析され、ユーザーが知り得ないアルゴリズムによって商品やサービスの値段を変えられてしまう。しかも多くの場合、ヘビーユーザーや登録会員が損をする――。
中国では「ビッグデータ殺熟」と呼ばれる、この種の差別的なダイナミックプライシングがここ数年、増殖している。日本でダイナミックプライシングといえば、たいていは「早割」や、季節・時間帯に応じた需給ベースの価格の調整だが、「殺熟」は違う。
「熟」とは熟客、つまりお得意様を指し、「殺」はこの場合、いじめる、冷遇するといった意味。新たにアクセスしてきた見込み客に安値を提示する反面、お得意様や会員には同一商品に高額を支払わせる。買う気満々と判断された客や金持ちも「殺」の標的だ。
初回値引きというのは日本でもよくあるが、「殺熟」の場合、事前の知らせも何もない。ネット企業にとっては顧客1人当たりの生涯価値を引き上げ、収益を最大化する手法だろうが、当然のことながら消費者側の拒否感は強い。
ネット上に怒りの声があふれる中、中国当局は昨年10月に旅行予約アプリ、今年2月には巨大ECなどのプラットフォーマーを対象にこうした手法を禁止したが、その後も消える気配はない。ネット出前やタクシー配車、さらにはディスカウントチェーンの宅配料金といった、より身近な分野にも波及しているという。
企業側は当局の規制や消費者の怒りを今後どのようにかわし、利益最大化への道を探るのか。中国はダイナミックプライシングの壮大な実験場となりつつある。
出前配送料は会員ほど割高、タクシー配車はiPhoneユーザーが損
「ビッグデータ殺熟」は、中国の2018年の10大流行語(社会生活カテゴリー)にも選ばれた言葉。これまでに旅行予約アプリやネット通販の商品価格、ネット出前の配送料、タクシーやライドシェア料金などで、「殺」ケースが大量に報告された。
あからさまに人と価格が異なれば、ユーザーはすぐに違和感を抱くし、個人レベルでの検証もたやすい。隣にいる家族や友達と、同じ条件を設定してスマホ画面を見比べれば一目瞭然だ。当然ながら、ネット上には同じ商品やサービスにそれぞれ異なる価格が表示されたスマホ画面の比較画像があふれかえった。
具体的な「殺熟」事例の一つに、出前の配送料がある。同じ時間に同じ店から同じ場所へ、同じメニューをデリバリーする際の配送料が、会員と非会員では異なるという訴えが、昨年12月に話題となった。お得感を狙って会員になったのに、1〜5元(1元=約16.6円)とはいえ、逆に高くつく。
「殺熟」だけでなく、金持ちを標的とする「殺富」の疑いが濃厚なのはタクシー配車やライドシェアだ。
時間帯やルート、天候、乗車待ちの人数などに左右されるため、価格差別の存在を100%証明するのは難しいのだが、上海の名門、復旦大学の教授らが5都市で800件超の比較可能なサンプルを収集。3月上旬に、「iPhoneユーザーは高確率で、高額を支払わされる」との検証結果を報告した。アンドロイドでも高額機種ほど高くついたという。
日本ではどのサイトから飛んだかによって価格が違うというエクスペディアに関するツイートが一時話題となったが、中国ではスマホの値段が“富”の判定基準になるらしい。
顔認証システムを使った、さらに危うい事例もある。昨年11月に発覚した新築マンションのモデルルームでのケース。不動産会社が顔認証で来客の行動を分析し、仲介業者を通したのか個人で来たのか、どの程度本気で買う気かを評価し、分譲価格を大きく変えていたことが発覚した。
中国は街中に顔認証システムを張り巡らせた監視大国だが、いち企業が値決めに顔認証を用いたこの事例はさすがにアウト。顔認証を嫌い、フルフェイスのヘルメットをかぶってモデルルームを訪れた顧客の動画がアップされる一幕もあり、当局がただちにストップをかけた。
有料“ファストパス”には寛容、需給ベースなら値上げも許容
中国人消費者は決して、ダイナミックプライシングそのものを嫌っているわけではない。需給に基づく価格の変動に対しては、日本人より寛容ではないだろうか。
例えば今年2月の旧正月シーズン。新型コロナ対策としての移動の自粛で、空前の映画ブームが到来し、普段ならせいぜい1000円前後で変動するチケット代が軒並み急騰。人気作品では1万円超えたとされるが、「いくらなんでも高すぎ!」という不満の声はあっても、おおごとにはならなかった。
長く「袖の下」文化が続いたせいか、“カネで買う”ことに対しても、日本人より寛容に思える。例えばタクシーの配車料金。雨の日などは何十人という順番待ちの列ができるが、アプリ上に表示される上乗せ料金の一撃落札価格をタップすれば、一気に順番を飛ばせる。自分たちがそれを納得していれば、問題にはならない。
「殺熟」第1号は実はアマゾン、中国企業は「やっていない」
消費者のアレルギーが強い「殺熟」を最初に試したのは、実は中国企業ではなく、米国のアマゾンだったという。2000年に既存客と新規客でDVDの値段を変えたが、その結果、炎上。ジェフ・ベゾスCEO自らが変動価格テストの最中だったと釈明し、差額を補填したことがあった。
また、米国ではライドシェアのウーバーが4年前、ルートに基づくダイナミックプライシングを採用。乗車地や目的地が富裕エリアであれば、より高額を請求する可能性があるAIメカニズムを導入した。これはまさに「殺富」だが、中国のケースと異なるのは個人情報とは一線を画していた上に、ウーバーが事前に、ためらいなくこのメカニズムを公表していたことだ。
中国ではウーバーのような予告事例は見当たらず、また、状況証拠が山ほど揃っているにもかかわらず、真正面から「殺熟」を認めた例もない。有力ECのアリババやJD、出前最大手の美団も、それぞれシステム上の誤差だったなどと釈明している。消費者の反発を考えれば無理もないが、認めていない以上、存在が100%証明されたわけではないのだ。
「一概に悪ではない」、禁止規定にもグレーゾーン
では、差別的なプライシング手法はこの先、消えるのか。残るとしたら、当局の規制や消費者の不評をどうかわすのか。
消費者にすぐにばれ、しかも怒りを買うことが確実なプライシング手法は、日本ではおそらく導入しにくい。その点、分かっていても試してみる中国企業のトライ・アンド・エラー精神は健在。ビッグデータやAIなど、利益を最大化するための武器を手に入れた以上、今後も使わずにはいられないだろう。
殺熟に類する手法が「一概に悪いというわけではない」「なくなることはまずない」というのが、メディアや専門家らの見解だ。中国にはもともと、この手の価格差別が存在し、単に姿を変えてネット上に出現したにすぎないという。
しかも、旅行サイトとプラットフォーマーを対象とした当局の規制自体、「殺熟」を全否定しているわけではない。支払い能力や消費性向に応じた差別を禁じる半面、新規客との価格差に関する規定はやや曖昧で、中には「政府が殺熟を容認した」との解釈もあるほどだ。
旅行サイト向けの規定には罰則がなく、行政指導にとどめたし、プラットフォーマー向けのガイドラインは草案段階よりトーンダウン。たしかにグレーゾーンを残したように見える。ビッグデータやAI、IoTなどの活用を含めた形で“ハイテク大国”を目指す中国政府の意向が働いたのかもしれない。
巧妙化か“進化”か、あるいは消費者が慣れるのが先か
今後も消えないのならどこに向かうのか。差別化プライシングの進む方向性として考えられるのは、巧妙化、ステルス化、あるいは逆にアップグレード、進化だ。
後者ではテクノロジーを活用し、個々のニーズに沿った商品やサービスを提案する。「レコメンド」のアップグレードで価格のカスタマイズ化というレベルまで引き上げ、「殺」のマイナスイメージを消す。
一方の巧妙化、ステルス化では、例えば検索結果や商品認識番号を利用し、ユーザーが高額品を選ぶよう誘導する手段があるという。国営通信社・新華社系のシンクタンク、瞭望智庫は、「当局が最大限に想像力を働かせて悪事を想定し、規制法を作っても、賢い人間はその先を行く。抜け道は常に存在する」と指摘する。
それならば、消費者側も対抗手段を探すしかない。新規客を装う方法がそう何度も通用しない以上、最も有力なのは知る権利の行使や個人情報の利用拒否という形での武装だ。政府は20年10月、「個人情報保護法」(草案)を発表し、意見募集を開始したが、この草案には明らかに、ビッグデータ殺熟への対抗策と思われる権利項目が含まれている。
あるいは、最終的に、消費者が受け入れるという読みもある。「殺」がさらに全面的に広がれば、高額を提示されても、自分にはそれだけの価値があるのだと考えるしかない局面が来ると、そう予告する経済専門家もいるのだ。
いずれにせよ、プラットフォーマー、政府、消費者の思惑や利害が絡んだ試行錯誤の末、良くも悪くもこの分野の“チャイナスタンダード”が形成されるのだろう。これが世界標準となるかは不明だが、マーケティングの未来に影響を及ぼす可能性は十分ありそうだ。
文:奥瀬なおみ
編集:岡徳之(Livit)